【「神律」について】

皆さん、おはようございます。

本日は、べてるの理念セミナーが実施されます。
その告知のために私が書いたメッセージの中で言及し、結構、多くの方々が興味関心を示されたのが、 他律、自律を超えた、「神律」という概念 でした。

「神律」こそが、ソーシャルワーカー向谷地さんが、「他律の医療→自律の医療」への革命を成功させた原動力なのです。

では、「神律」とはいかなるものか? この点、向谷地さんがベースとする神学者パウル・ティリッヒのwikiが、なかなか役に立ちます。

「かつて、宗教が、人々に対して、「強制的な力」を行使していた時代があった。
イエスやルターによる「変革前の宗教者」のことを考えればいい。
このように、「信仰が外部から強制されているような状態」を他律(ヘテロノミー)と呼ぶ。 他律は、独善的であり、人の自由を圧迫する。
しかし、人は、それに対していつまでも服従していることはない。 そこで、「人間が自らの力によって立つ状態」が、自律(アウトノミー)である。
自律は、理性に従い、個人の尊厳を掲げる。 言うまでもなく、近代から現代が、自律の時代である。
しかし、やがて理性と個の力を信じる自律は、孤独に陥り、生の意味や目的を見失ってしまう。
つまり、自律的理性は、それだけでは生の意味を見つけることはできないのである。  
そこで、他律と自律を乗り越え、最高の規範となるものは、 神律(セオノミー) である。
神律とは、自己の有限性を自覚するとともに、自己の根底を透視し、そこに働く神的な力に従う状態である。
神律は、他律のように外部から押し付けられたものではなく、自己の中から出たものであり、また自律のように孤独に彷徨い出ることもなく、自己を完成する。
そのような神律に人を導くのが、ティリッヒの神学の目的である。」

神律とは、自己の有限性を自覚するとともに、自己の根底を透視し、そこに働く神的な力に従う状態である。

というのは、正に、向谷地さんのソーシャルワークそのものです。

続けて、
「人は、それ自身の内に、生に対する究極の「答え」を持たない「大きな問い」である。 その「問い」に対し、神学で答えることで「哲学の問いと神学の答え」という関係が成立する。」

というのは正に、「当事者研究」そのものです。
私たち人間は絶好的に矛盾した相対有限な実存ですから、「答え」をもつことはなく、しかし、常に「問い」をもつものです。

向谷地さんのソーシャルワークはかかる人間実存を理解しており、実存の「問い」を研究し続けて「本質」の理解を深め続けます。
それは正に「当事者研究」なのです。
さらに続けて、

「ティリッヒは、宗教を定義して、 究極の関わり という。
つまり、キリスト教に限定することなく、 人が何かに究極的に関わり、それによって根本から支えられている とき、そのようなものが宗教と呼ばれるのだ。
このような宗教観は、一般的には非宗教的と考えられる人々をも包み込んで、宗教が人間にとって決定的なものであるということを示す。
教会に通うかとか、お祈りをするかとかいったことをしない人間も、「その存在を支える何かを求める」限りは、宗教的なのであり、その意味で人が生きる限り宗教はなくなることはない。
宗教がそのようなものであるならば、その関わりとは、「絶対的な無制約者」を「体験すること」でなくてはならない。
しかし、制約された、本来究極的でないものを究極的とすることから、人は挫折し、絶望に陥る。
それでは、真に究極的な関心を払うべきものとはなにか?
それは「私たちの存在、あるいは非存在を決定するもの」だとティリッヒは述べる。
存在するかしないか、生きるか死ぬかということこそ、まさに存在する者、生きるものにとって究極の問題である。
ならば、それを決定するものとは、あれこれの存在のうちのひとつではなく、存在と非存在を超えて存在の根拠となるようなものだ。
だから、神の神とは、存在を存在たらしめる存在の力、あるいは存在の根底、存在それ自体だとティリッヒは言う。」

我々も、日々の実践や、当事者研究ダイアローグを通じて、

「何かに究極的に関わり、それによって根本から支えられている」

という実感があるかと思います。
JALの奇跡の再生、そしてその後のJALの皆さんの活躍や人生仕事ドラマの展開は、正に、そのような自他を支える究極との関わりを感じます。

以上の通り、「神律」は、「他律→自律」の革命を実現した、「浦河の奇跡」や、「JALの奇跡」のベースとなっている真理なのだと、私は確信しています。


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