「しかない」言葉に違和感ありませんか

「冗談じゃないわ!」
おばあさんは勢いよく椅子から立ち上がった。強張った膝をかばいながらどんどんと床を踏み締めて歩いたあと、ずばん!と勢いよく寝室のドアを閉める音に続いてがちゃりと鍵が閉まる音がした。おばあさんの怒りは最上級だ。長年のつきあいでおじいさんにはわかった。
ただその理由はわからなかった。

むかしむかしあるところで。
おじいさんとおばあさんは穏やかに暮らしていた。
おじいさんは山へ芝刈りに行き、おばあさんは川へ洗濯に行き日々集う仲間と共に歌い踊っていた。

ある日、おじいさんは山で道に迷っていた猟師を助け、お礼に大きな猪肉の塊をもらった。結婚記念日だと漏らしたおじいさんに猟師は気前が良かった。差し出された肉のあまりの量と質におじいさんはのけぞって恐縮したが、
「帰り道がわからなくなって途方にくれていたところを助けていただいたのです。感謝しかありません」
猟師はにこやかに言い、するすると肉を梱包するとおじいさんの荷車の上にぽんと乗せた。
感謝しかありません、だと。
おじいさんは心の中でリピートした。初めて聞く表現だがしゃれているように感じた。きびきびとした身のこなしや仕留めた猪を軽々と肩にかついで歩く様子から猟師は自分よりずいぶん若いのだろうと思っていたが、年齢を聞いてみてびっくり、おじいさんと同年代だった。山を知り尽くしているおじいさんよりも道に迷った猟師のほうが山の男という感じ、男らしくてかっこいい。おじいさんは猟師に憧れ混じりの視線を送りつつ、心の中でもう一度呟いた。
感謝しかない。
そんなふうに感謝を伝えるのか、いい男は。

「ただいま」
帰宅したら一応声をかけることにはしているがおばあさんがまだ帰宅していないことをおじいさんは知っている。洗濯物が乾くまで歌い踊るのが日課のおばあさんが帰宅するのは日没をかなり過ぎてからだ。
芝をさっさと納屋に片付けるとおじいさんは夕飯の支度をはじめた。まずはもらったばかりの大量の猪肉を切り分ける。今晩はおばあさんの好物、猪鍋にしよう。残りは塩漬け、味噌漬け、ミンチにして冷凍保存もよかろう。おじいさんは手際良く5キロ以上の塊肉をスーパーで売られているパック化した。続いて野菜やキノコを切り刻む。昆布とカツオを駆使して出汁もとった。もちろんご飯も炊いている。
おじいさんはぬかりないのだ。
夕飯の支度が済んだころ宅配便でケーキが届いた。続いて花束。おじいさんは結婚記念日を大事にしていた。一方、おばあさんはそういうことには無頓着だ。今日だって忘れているのかもしれない。覚えていたところで記念日だから早く帰ろうなんてことを思ったりはしない。おばあさんは大雑把でマイペースな人だった。

ケーキの美しさに嘆息しつつ冷蔵庫にしずしずとしまうと、花束をいい感じに飾ると食卓が華やいで見えた。記念日ディナーの準備は万端。おじいさんは風呂に入り、身だしなみを整えることにした。お風呂上がりにはタキシード風のスウェットスーツを着ると決めている。そんなに高価ではないけれど着心地がよくしゃきっと見える優れもので、毎年結婚記念日だけに着るおじいさんの勝負部屋着だ。

「ただいまー」
おじいさんは反射的に読みかけの本を閉じ、玄関でおばあさんを出迎える。お日様の匂いがする洗濯物を受け取り、ソファに座って粛々と畳みながらまずはおばあさんの1日の話をきいた。
「今日のお夕飯は何かしら」
「君の大好物の猪鍋だよ」
待ってましたとばかりに答える。おばあさんの瞳がキラキラと輝く。
「楽しみ!急いでシャワーを浴びてくるわね」
テーブルの花の香りを嗅いでうっとりとした表情を見せるとおばあさんは浴室に向かっていった。おばあさんの弾むような足取りにおじいさんはうれしくなった。

「そうか、結婚記念日だったか」
素晴らしくおいしい猪鍋を一気に食べてからおばあさんはいった。案の定忘れていたようだけれどおじいさんは気にしない。おばあさんは食後のコーヒーを丁寧にいれてくれた。ほわんと幸せな香りがリビングに広がる。
「今年で六十回目?」
コーヒーをすすりながらおばあさんは湯気越しにつぶやいた。おじいさんはうなずく。
「長いわねえ、わたしたち、子供もいないのに、離婚の危機もなく、よく二人でやってこれたねえ」
おばあさんはしみじみしている。
「君のおかげだよ」
「そう?」
「君がいつも朗らかで太陽みたいだから」
「家事全然しないけどね、奥さんとしては失格なんじゃない?」
「家事なんか時間のある方がやればいいさ。君が明るくて楽しそうにしてくれてるのが最高なんだ」
そしておじいさんは使ってみることにした。この日猟師から摂取した新たな感謝の表現を。
「君には本当に感謝しかない」
おじいさんは力をこめて言った。本心だった。おばあさんの存在に、一緒にいてくれることにおじいさんは強く強く感謝していた。

だから驚いたのだ。
「は?」
うっとりとコーヒーカップを眺めていたおばあさんが不意に表情を歪めてぎろりと大きな目でおじいさんを睨んだのだから。
「え?」
おじいさんは動揺してカタカタ震えた。
「今なんて言った?」
「なんてって…だから、君には感謝しかないって
感謝、しかないですって???」
おばあさんはコーヒーカップをテーブルに叩きつけた。ごとん!低くてドスの効いた音と共に茶褐色の液体がばしゃっとテーブルに溢れていびつな水たまりを作った。
「あなた、私に、感謝しかないってそういってるの?」
すごい剣幕だったのでおじいさんは声が出ない。
「ひどい」
おばあさんは怒りのオーラをまとったまま席を立ち、寝室に篭ってしまった。

何が間違ったことを言ってしまったのだろうか。
おばあさんがいなくなった食卓でおじいさんは繰り返し考えた。「感謝しかない」に反応していたのは明らかだけれど果たしてどうしてダメだったのか?あの猟師も自然に使っていたではないか。何か間違っているのか。
話の流れが悪かったのか。
何か誤解させるようなことを言っていたのか。

おばあさんの怒りは3日続いた。
お互いのルーティン、洗濯と芝刈りは続けられたし、おじいさんが夕飯を準備し、おばあさんが後片付けをするのもいつも通り。でも会話はなかった。おじいさんが話しかけてもおばあさんから返事も視線も何も返ってこなかった。

4日目の夜。
洗濯から戻ったおばあさんをおじいさんはいつものように玄関に迎えにいった。怒りが4日も続いていたので無視されるのには慣れてしまった。無言で洗濯物を受け取りソファに座って畳む。

「ただいま」
ソファの傍に立ったおばあさんは仏頂面のまま気まずそうにぼそりといった。おじいさんは洗濯物を畳む手を止めて見上げる。
「お、おかえり」
雪解け、和解の合図だった。助かったとおじいさんは思った。

「申し訳ない」
夕食後、おじいさんは頭を下げた。
「どうして私が怒ったかわかってないくせに」
おばあさんはため息混じりにいった。わからない。おじいさんは正直に告げた。
「感謝しかないって、言ったからよ」
「あの言葉はものすごく感謝しているという気持ちを伝えるために…」
唾を飛ばして反論するおじいさんを手で制しておばあさんはいった。
「わかってる。SNSもいっぱいみたし洗濯仲間にも説明してもらった。普通に使われてるし、そういう意味だろうって話の流れ的にも思えた。納得した」
「そ、そうか…よかった」
おじいさんは胸を撫で下ろした。
「でも言葉の第一印象が最悪だった。今もモヤモヤは消えない。感謝しかないって、何?感謝以外何もないの?」
おばあさんの声がワントーン高くなる。
「だってあなたと出会って60年以上一緒に過ごして、いろんなことがたくさんあった。いろんな感情、いいことも悪いことも、色々」
おじいさんは同意をこめてうなずいた。
「それを感謝しかないって言うんだもの。愛情とか同情とか尊敬とか、憎しみや嫉妬やもどかしさとか、ほかにもたくさん。色々あって全部があなたとの時間で全部が愛しい。それなのに感謝しかないって…」
おばあさんは窓の外を見遣った。
「申し訳ない。あの日出会った猟師が使っていた表現で、いいかなと思っただけなんだ。排除したいことがあったわけでは決してないのだが、そんなふうに伝わってしまったとは痛恨だ。単に感謝という感情を最上級で表現しようと…」
「だったら、ものすごく感謝してる、でいいじゃない。感謝しかないっていわれて反射的にさびしくなった。こころにびゅーって強い隙間風が吹いた」
おばあさんは窓の外を見たまま言った。みぞれ混じりの風が窓をがたがた揺らしている。
「でも私が変なのよねえ、きっと。仲間にも言われた。恩師へのお礼とかお世話になった人にも「感謝しかない」ってみんな普通にいうんだって教えてもらった。あなたがいう通り、感謝の最上級。でも、なんか、ねえ。「感謝しかない」には違和感しかないといわせていただきたいわね、今のところ、私は」
おばあさんはふうっとため息をついてほんのり笑った。
「まあでもこんなことでいつまでも不機嫌でいるのも馬鹿らしいからこれでこの話は終わり。あなたの意図はわかりました。あなたが褒めてくれた朗らかな私に戻ります。感じ悪くてしてごめんなさい」
おばあさんはさばさばと言い放ち別の話を始めた。いつもの朗らかで陽気なおばあさん戻ったその姿をありがたく思いながら、おじいさんはずしりと胸に誓ったのである。

もう「しかない」言葉は使わない、と。