気配
彼との別れは突然やってきた。
じゃあね。
彼が背を向けた瞬間、悲しみレベルが急上昇し、私はぐっと歯を食いしばる。うっかり彼をひきとめてしまわないように、ぐぐっと。
私はよく我慢したと思う。ただ、ドアをあけるのに手間取っている彼に手を貸したのがまずかった。
だって、彼も泣いていたのだ。
途端に私は何としてもどうしようもなくなっちゃって、去ろうとする彼の背中から彼の気配だけをするっと剥がして、奪ってしまった。剥がしたての気配は透明なマネキンくらいの大きさがあったが、すぐに気の抜けた風船みたいにしぼんで手のひらサイズになる。私は縮んだ気配を手早く握りしめて隠した。
ごめんなさい。
気づかずに歩き去った彼ではなく、手の上で水晶玉みたいに光る彼の気配に謝った。
気配はまるで彼そのもので、彼が目を細めて愛おしそうに私をみつめる、あの感じがたっぷり残っていた。しばらくはやり過ごせそうな、そんな気がした。
それから毎日、気配をポケットにいれて肌身離さず持ち歩いた。気配はじわりと温かくて、彼がそばにいるように思わせてくれるから、つい、もう彼のいない左側に何度も話しかけたり、手をつなごうとして彼の右手を探したりする。私の言葉も私の左手も、毎回もちろん空を切る。それでも何度も同じことをした。何度も何度も話しかけて、何度も何度も探して。そしてその度がっかりする。その繰り返しを数えきれないほど。
気配はしかし体力を遠慮なく奪う。寝ても寝ても眠くて、ドロドロの倦怠感がへばりついて蓄積し、やがて本当に起き上がれなくなった。
寝転んだベッドから、机の上の気配を見つめる。気配は優秀だ。依然、彼がそばにいる感覚は十二分に味わえる。けれども目を閉じて思いつく限りの方向で手探りをし、彼がどこにもいないのをしっかり確認してから目を開けると、彼に会いたい気持ちが津波のように襲ってきた。気配ではなく、本物の生身の彼に。
気配を返すことを口実に彼を呼び出した。絶対に断られると思ったのに、彼はあっさりと呼び出しに応じた。
待ち合わせ場所まであと5メートルのところで折り返して帰ろうかとひるむ気持ちとしばし闘う。一度生身の彼に会うために、この先彼の気配を永遠に失うことになるのかと思うと、胸がぎゅうっと痛んだ。自分の弱虫をなんとか押し込め、思いきって5メートル進んで彼の前に立ち、ひさしぶり、といえたのは待ち合わせの時間を15分も過ぎてからだった。
「ごめんね。もう私には会いたくなかったと思うんだけど」
そう前置きして、私は彼の気配をそうっとテーブルに置いた。
「いまさらだけど、返しにきたの」
彼は下を向いて、苦しそうに笑うとコーヒーを一口すすってから私をみつめていった。
「なんかちょっとたくましくなったね。しっかりしたっていうか、そんな感じ。」意外な言葉だった。自分では全然実感がなくて、そうかな、と首を傾げる。
「実は僕もずっと持ってるんだよ。あの日思わず剥がして持ち帰ったあなたの気配を」
びっくりした。
「気配をとったのは自分だけだと思ってたんだ。まさか僕もとられていたとはね。でもね、二人共今まで気がつかなかったってことは、多分この気配たちはもういらないんだよ。そう思わない?」
「じゃあ、本体から剥がれてしまった私たちの気配はどうすればいいの?」
気配を奪ったのは二人共はじめてだったので、正しい対応法はわからなかった。ただ、愛着がないわけではない気配を置いていくのなら、それなりの場所は選びたいと思った。
よく待ち合わせをしたデパートの屋上を思いついたのは彼だった。風も通るし、屋根もあるし、ベンチもある。昼間は小さな子供を連れたお母さんがほっこり日向ぼっこに訪れたりする。二人で一緒にいることが幸せだった頃の私たちのお気に入りの場所だ。
誰も座っていないベンチに二人分の気配をそっと置き、少し離れた場所から眺めてみる。しっくりきた。二つ並んだ気配たちはとても幸せそうに羽を伸ばしておっとりしている。
気配を見守る彼を見つめつつ、私は想像する。愛しくてたまらないこの人は、もうすでに、自分の中で新しい気配がめきめき育つ音を聞いているのだろうか。
時間がたてば、日々粛々と過ごしていれば、大丈夫、そのうち私の新しい気配も芽吹いてきっとすくすく育っていく。彼と一緒に過ごした過去形の気配は、ここでこうして幸せそうにしていればいい。
その後、二度と会えないとは思えないほどあっさり彼と別れた。数分一人で歩くと心がすとんと空白になり、そこにどわっと低気圧的な感情がたちこめて、東南アジアの夕方に降るスコールみたいに激しく泣き出した私。
今私は気配の新芽に水をあげているんだ。そう思いながら一歩一歩しっかり踏み込んで前に進んだ。