恋する鉄仮面
「カサモリさんにアタックしているのでしょう?私、協力しますよ」
互いの自己紹介のあと、すぐにヨシダさんは言った。
「アタックって」
僕は笑った。好きな人に「アタック」。20代の女性が使う表現にしてはちと古臭い。
「部長の言葉をそのまま借用したもので。あ、借用もややレトロですね」
ヨシダさんはコロコロと笑った。僕もつられて引き続き笑った。
確かに僕はアタックしていた。同じ会社で5つ年上の、カサモリさんに、およそ1年前に恋に落ちて、以来ずっと。
すとんと想定外の落とし穴に落とされるがごとく不意に恋に落ちてしまったわけで、最初はひどく戸惑った。不慣れな真新しい感情をどう扱っていいのかとんとわからず、放っておいたら毒みたいにギリギリ胸を締め付けて日常生活に支障をきたした。参った僕は親しい同僚にアドバイスを求めた。同僚は親身に(やや面白がりながらも)相談に乗ってくれ、とにかくカサモリさんとの距離を縮めるべきだと主張した。
ステップ1社内編。仕事の相談をする、ランチに誘う、お誕生日にちょっとしたプレゼントをするなど、社内での接点を増やすこと。
ステップ2近くの社外編。会社帰りの一杯に誘う、5−6人での夕食会に誘う、うまくいけば二人きりのディナーに誘う。
僕はメモを取りながら真剣に聞き、ステップ1から真面目に実践しようとしたがカサモリさんは一筋縄では行かなかった。仕事の相談をもちかければ他の適任者を紹介された。ランチは食べない主義だという。お誕生日は「個人情報だから」と誰にも教えていなくて不明。カサモリさんはちょっと変わった人だった。
カサモリさんのツボが分からず、その後はちょっと迷走して、花束や風船を差し入れしたり、我が社のマスコットキャラクターの着ぐるみで待ち伏せしたり。やはり結果は惨敗だった。
「もう諦めて他探せば?」
件の同僚は白旗を上げたが、僕は諦める気にはなれなかった。協力しますよ、と異動してきたばかりのヨシダさんが申し出てくれたのはそんなときだった。
「まずは、あの鉄仮面を崩したいですよね。うん、崩しましょう」
鉄仮面。的確な比喩だと思った。カサモリさんは大体いつも無表情だ。
「ドッキリを仕掛けて驚かしてみませんか。急に動物を放つとか、エレベーターを止めちゃうとか」
「それもう告白じゃなくて嫌がらせの域に入ってるんじゃない?」
「そうですかね。じゃ、あれは?フラッシュモブ。取り囲んで踊るんです。大勢の注目も浴びちゃうし、素通りできない状況に追い込めますよね」
キラキラとした瞳のヨシダさんは見かけによらず過激派だ。
「色々考えてくれてありがとう。でも彼女を追い詰めたり、公衆の面前で恥ずかしい思いはさせたりするのは気が進まないなあ。気持ちを伝えたがっているのは僕だけで、僕のわがままだから、彼女には極力迷惑をかけたくないんだ」
ヨシダさんは過激案を取り下げつつも、
「そういう考え方ってやさしいけど生ぬるいですよ。恋はバトルです、エゴとエゴのシーソーゲームだってミスチルも言ってます」
と、不満そうな声を出した。
策がないまま月日は流れ、夏の繁忙期になるとヨシダさんも忙しさにまみれて僕の恋どころではなくなった。僕はタイミングをみては、カサモリさんへの直球アタックを粛々と続けた。しかしカサモリさんの鉄仮面は微塵も綻びを見せなかった。
慢性的な毎日に変化をもたらす季節、秋。僕とヨシダさんはひさしぶりに一緒にランチを食べた。その日の主な話題は接近中と噂の大型台風について。
「明日の出社どうしようかな、どうします?」
ヨシダさんは言った。会社からは安全第一、時差出社もリモートワークも推奨するとのお達しがすでに出ていた。
「僕は出社するつもり。家も近いから」
自宅作業はやぶさかでないのだが、比較的重要な会議を控えていて業務が嵩んでいた。
「そうですかー。私、家遠いんですよ。下手に出社すると帰れなくなったりするかもしれなくて、あー迷うなあ」
パスタをクルクルしながら呟く彼女に、何かあればサポートするから無理はしないほうがいいよとだけ僕は伝えた。
翌日。朝から思いきり不機嫌な空の下、僕は会社に向かった。交通機関はまだ通常通りだったが、電車を降りると既に雨風は強く、時折襲いかかる突風に煽られ何度も傘ごと飛ばされそうになり、その度全身にぐっと力をこめた。出勤だけでどっと疲れた。
まっすぐ自分の席に向かう気になれず、がら空きのロビーのソファに座って雨仕様の靴を脱ぐ。スーツのスボンは膝下までぐっしょり濡れていて、冷房の風が当たるとひんやりして気持ちがいい。
こんなときにカサモリさんが現れたらラッキーだな、なんて能天気に思いながらロビーの大きな窓ごしに暴風雨を眺めていたら横断歩道の向こうにカサモリさんの姿が見えた。丈の長い、スポーツ観戦用のレインポンチョを着用し、長靴を履き、撥水効果がありそうな帽子までしっかり被っている。登山にでも出かけそうなフル装備だった。それでも颯爽と歩く姿はかっこよくてやっぱり好きだなあととろりとした気持ちになる。
フル装備の彼女の少し後ろを必死に歩く女性がヨシダさんであることに僕はなかなか気付かなかった。ヨシダさんは無防備で、弱々しいビニール傘しかもっていない。その傘も突風でおちょこになったり、ひしゃげたりして今にもバラバラになってしまいそうだ。足元も普通の革靴のようで足取りも危なっかしい。この悪天候に丸腰にもほどがある。会社まではあと少しだが無事辿り着けるだろうか。
そのとき、この日一番の轟音とともに鉄砲風が吹いて、携帯ショップの大きな立て看板がひらひらと舞い上がった。危ない!思わず僕が立ち上がった瞬間、看板がヨシダさんの足に直撃するのが見えた。ヨシダさんは悲鳴をあげてその場にうずくまる。僕は反射的にビルを飛び出し、突風の余韻に右往左往する人の波を押しのけてヨシダさんの元へと走った。
「ヨシダさん大丈夫?」
「多分、なんとか」
ヨシダさんは気丈に返事をするが、その表情は苦痛に歪んでいた。
「ここ、ちょっとやられちゃいました」
ヨシダさんは患部を指差した。左のふくらはぎ辺りからどくどくと涌き出るように出血しているのがわかる。ヨシダさんが履いているベージュのパンツは血に染まり、その下には赤い水たまりが広がっている。
「うわ」
僕は血に弱い。やばい。しかし気を失いそうになってぐらぐら揺れる僕を、後ろから誰かが思いきり殴った。我に返って振り返ると、憧れのカサモリさんが鬼の形相で仁王立ちしていた。
「止血、急いで」
はい。僕はしゃきっと返事をした。そうだ、失神している場合じゃない。止めなきゃ、とりあえず出血をなるべく早く。僕はネクタイをほどいて、出血箇所の少し上の方をぎゅうっと力一杯縛った。
「ぎゃー」
ヨシダさんは叫んだが、
「ごめん。痛いでしょうけど止血しなきゃいけないから我慢して。救急車も呼ばなきゃ」
びしょびしょの手でポケットからスマホを取り出そうとしたとき、後ろから再びカサモリさんの声がした。
「救急車はもう呼びました」
「いやおおげさですって。こんなの会社の診療所で十分ですよ」
ヨシダさんが茶化すようにいうと、
「何いってるの。縫わなきゃダメに決まってるでしょう」
鉄仮面カサモリがヨシダさんを怒鳴りつけた。
「雨ひどいから、救急車がくるまで中で待とう。肩、つかまって」
「スーツ汚れちゃいますね。すみません」
しおらしく謝るヨシダさんを背中に担いでビルの中へと運んだ。
やがて到着した救急車には僕がつきそうことになった。たまたま血液型がヨシダさんと同じで、念のためにと救急隊員から指名されたのである。
「鉄仮面、崩れてましたよね?私、おもいっきり怒鳴られましたよ」
救急車の中で応急処置を受けるヨシダさんはうれしそうに言った。それはそうなのだけれど、そのときの僕はヨシダさんの怪我のほうが心配だった。出血はどうにか止まってきたけれど、傷口はなかなかに大きく、足全体が強烈に腫れている。
「僭越ながら、私が、崩しちゃいましたけどね」
傷を負ってテンションが高くなっているのか、いつも以上に陽気なヨシダさんは得意気だ。僕はそうだねと相槌を打つ。
「でも先輩も少しは話したわけだし、距離が縮まったかもしれませんよね。次回の遭遇、というか告白が楽しみですね」
救急車が走る間中、ヨシダさんは朗らかに喋り続けた。
幸い、見た目より怪我は軽傷だった。診察や縫合や検査を終えて数時間後に出てきたヨシダさんはだいぶ落ち着いていた。
「処置も終わりましたし、迎えの家族も呼んだので、先輩はもうお仕事にお戻りください。ありがとうございました。ご迷惑おかけしました」
ヨシダさんは神妙に頭を下げた。
「着替え、今度弁償しますね。ほんとすみません」
ぐしょぐしょに濡れて地面の泥やら返り血やらを浴びた僕のスーツは確かにひどい状態だった。
「気にしないで。こんなこともあろうかと今日は使い捨てレベルのスーツを着てきたから」
それでもヨシダさんはしょんぼり顔のままで、すみませんでした、ともう一度丁寧に頭を下げた。
病院を出ると、台風一過、眩いばかりの青空が僕を迎えてくれた。空に向かって大きく伸びをしたら、反動で体がずしりと重くなる。
午前中から盛りだくさんだったからなあ。
とはいえ、今日は仕事に行かなければならない。僕はのろのろと歩き出した。
しばらく進むと、前方からカサモリさんが走ってくるのが見えた。彼女はぐんぐんスピードを上げ、いつもなら通り過ぎるはずの僕の前でぴたりと立ち止まった。
「あれ、なぜここに?」
僕の問いには答えずにカサモリさんは無言で大きな紙袋を差し出した。
「これは?」
肩で息をするカサモリさんが何も言わないので受け取って開封してみると男物の服が一式が入っていた。
「え、まさか僕に?どうして、です?」
うっかり言葉がたどたどしくなったが、ようやくカサモリさんは口を開いてくれた。
「着替えないと今日仕事にならないかと」
ふわーっとしあわせ色の粒子が僕の体に広がった。あのカサモリさんが!!僕のために服を!!
「違います。そういう意味ではないのです」
ふわふわに舞い上がろうとする僕をカサモリさんはすぐに引き戻し、正当な理由を説明しようとしている様子。それはひどく言葉にしづらいことのようで、彼女はしばらくうんうん唸ったあと、少々捨鉢気味に言った。
「ヨシダが、妹が、お世話になりましたので」
は?
ヨシダさんがカサモリさんの妹?
僕がこの告白をどれほど驚いたことか。
ヨシダさんを迎えにきたカサモリさんは病院へ、僕は紙袋を抱えたまま会社へ向かった。
なんと二人は姉妹だった。
「諸般の家庭の事情がありまして、苗字も違えば、少し特異な姉妹関係ではあります」
それだけ言うとカサモリさんは口を噤んでしまったので僕も何も聞かなかった。二人の家庭の事情よりもそのとき僕が気になったのは、ヨシダさんのこと。そんな立場でありながらどうしてわざわざ僕に協力を申し出たのか。
「鉄仮面を崩しましょうよ」
ふと、ヨシダさんの言葉を思い出す。理由はその辺にあるのだろうか。他の可能性も探ってみたかったけれど、今のドロドロの僕の想像力ではその辺りが限界だった。
会社に到着し、まずは身支度を整えることにした。小さな会議室に籠り、体を拭き、カサモリさんが持ってきてくれたピカピカの服に着替えた。さらりと心地よい肌触りとか諸々に僕はやっぱり幸せな気分になって舞い上がって、午前中に蓄えた変な疲れや重たさがすっとどこかへ飛んでいった。