![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/166799904/rectangle_large_type_2_9fed3516e9d56f554c76c8dd8f04c247.jpeg?width=1200)
君何処にか去る 第八章(1)
第八章 戦後の知性
一
朝まだき、小鳥の囀りが可愛いのを通り越してうるさいほどである。黒川俊雄は、左のこめかみが痛むのを覚えた。宿酔いのときはいつもその個所が痛む。
(呑みすぎた。無明さんの強いことといったらどうだ。あんな化け物と一緒に呑んだのが、運の尽きだった)
俊雄は無明にたたき起こされようが、蹴飛ばされようが、断乎としてもう一眠りすることにした。いったいどのくらい眠ったのか、さして大きな声ではないのによく通る声が外でして、目が覚めた。説教調は無明の声に違いない。
「いいか、里江さん。この地球には何十億もの人が住んでいるのだ。いくら全知全能の神や仏でも、われらの願いにいちいち対応できるものかね。それゆえ、天にはじつに簡単な法則があるのだ。すなわち、天はわれらの思うとおりを叶えてくださる。夫が早く帰ってきますようにと祈ると、そのとおりになる」
「でも、無明さん。夫からちっとも便りがないのでこうして相談に上がっているのですよ。それなのに祈るとそのとおりになるなんて。天がお聞き届け下さるのなら、どうして夫は帰ってこないんです。もう連絡が途絶えて三ヵ月にもなりますよ」
里江なる女性の抗議の声が一際甲高くなった。
(三十代か四十代といったところか。相当に苛立っている。出稼ぎに出た夫が帰らない。思い余って無明さんに相談に来たの図だな)
俊雄は起き上がった。
「そこのところが、じつははなはだしい誤解のもとなのだ。天は、夫が早く帰ってきますようにと祈る里江さんの状態を聞き届ける。すなわち、おまえさんの祈る状態が永遠に続くのだ。じつに簡単な原理だ」
「じゃあ、どうすればいいんですか」
「夫の帰る帰らぬは脇に置いて、自分は独りで生きてゆくと高らかに宣言せよ。そうすれば、天は独りで生きてゆくおまえさんを支えてくれる。たいがいのスポーツ選手がプラス思考なのは、だれかに天の法則を教えてもらったのだ」
「おっしゃるように、天が有名人や金持ちばかりを優遇し、貧乏人に冷たいことは間違いありませんわ。どうして、善人か悪人かの審判をなさらないのでしょう」
「天がそんなことをするものかね。善か悪かは人間の創った小賢しい基準にすぎぬ。おまえさんはきっぱりマイナス思考を捨てて、夫が帰ったものとして日々を暮らせ。天の張り巡らすアンテナは、そういう人を掬い取るようにできておるのだ」
「無明さんって、およそお坊さんらしくないですね。もっと陰徳を積めとか説教されるものとばかり思っていました」
「はっはっは。儂は坊主ではない。ハーミットにすぎぬ」
「何ですの。そのハーミットというのは。ハムレットの間違いじゃありませんの」
「はっは。ハーミットとは隠遁者とか世捨て人のことだ。されど、儂はかつての世捨て人に比べれば、いかにも修業が足りぬ。ゆえにハーミットなるあちらの言葉を使って誤魔化しておるのだ」
「何が何だかよく分かりませんが、とにかく、マイナス思考を捨ててせいいっぱい生きれば、夫は帰ってくるのですね」
「そうだ。そのとおり」
「ハーミットさん、わたしが育てた野菜をどうぞ召し上がれ。農薬は使っていませんよ」
「ありがたい。おかげでいましばらく生きていける」
「そんな心配はなさらないで。なくなったころにまた持ってきますから」
「いつもすまぬな。慰める方が慰められて」
「いいえ。わたしの方こそ、元気が出てきました。ハーミットさんもお元気で」
去ってゆく跫音がして静寂が戻った。俊雄は、無明がすぐに野菜を抱えて庵に入ってくるものと思ったが、外には特段、動く気配がない。
(はてな。奴さんは何をしている)
俊雄は伸びをすると、えいっとばかり立ち上がった。窓から覗くと、無明は木の切り株を利用した椅子に座り、野菜を包んでいた新聞を一心不乱に読んでいる。目の前には、テーブル代わりのより大きな切り株があり、その前にもう一つの切り株。ちょっとしたガーデン・テーブルとチェアーのセットになっている。無明の傍らには、蓮根、ごぼう、人参といった野菜が積まれていた。
「無明さん、おはよう。こいつは便利だな。けっこうなガーデン・テーブル・セットだ」
外に出た俊雄は声をかけ、もう一つの切り株に座った。
「うむ。便利な代物だ。おはよう。儂らが起こしてしまったのかな」
「否。小鳥の囀りで目が覚めていた。おたくは教祖向きだな」
これは揶揄ではなく俊雄の実感であった。
「聞いていたのか」
「正確には聞こえたのだ」
「儂の口調がすっかり感染ったな」
「否定はせぬ」
「はっはっは。まるで儂自身の科白を聞いているようだ」
無明もことのほか機嫌がいい。
「子ども向けの物語によくあるように、お互いの暮らしを取り替えると面白いかも知れぬ」
「おたくとか。つかぬことを伺うが、おたくの奥さんは賢夫人か」
「ま、そうなるかな」
「じゃ、断る」
「賢い女は苦手か」
「うむ。賢くない女も苦手だ」
「すると、中ぐらいがいいのか」
「否。中ぐらいも苦手だ」
「それならそれで、最初から女は苦手だと言ってほしかったな」
「おたくは寝不足か。機嫌が悪そうだ」
「そんなことはない。されど、やや宿酔いだ。ところで、わたしの躰に毛布がかかっていた。おたくがかけてくれたのだな。ありがとう」
「滅多にない客人だからな」
「おたくの分はあったのか」
「ない。掛け布団を運ぶのが面倒だった」
「どこから」
「上の庫裏」
「そりゃあ、危ない。夜中にあの崖の階段では。じゃ、おたくは毛布なしか」
「うむ。ない袖は振れぬ」
「寒かったろうが」
「全然。儂は、いつもごろりと横になって、そのまま朝まで眠る。目覚めねば、それが死というものだ」
無明は、手にした新聞をテーブル状の木の切り株の上に投げ出した。
二
微風が俊雄の頬を撫でる。下界の一日のはじまりが物音とともに伝わってくる。電車や車の音に交じって、人々の声や犬の吠え声も存外に耳につく。
「また一日がはじまる。最晩年にこういう平安に恵まれたことを感謝せぬとな」
「教祖さま、無明さま、ありがたいお言葉に涙が零れまする」
俊雄が冗談を放つも、無明は一顧だにしない。
「長野オリンピックというのがあったのだな」
無明が顎をしゃくった。その先には新聞があり、大きな活字が仰々しく躍っている。
「ずいぶん古い新聞だな。あれからもう二年も経つ。すると、おたくは長野オリンピックを知らなかったのか」
「うむ」
「札幌オリンピックは」
「そんなものまであったのか」
「じゃ、知ってるのは、東京オリンピックだけか」
「うむ」
「昔、日露戦争当時のことだが、戦争がいつはじまり、いつ終わったか、全然知らなかった研究熱心な学者がいたそうな。おたくもその類か」
「否。儂は……」
「分かっている。儂は学者ではない。研究熱心でもない、と言いたいのだろう」
「おたくの学習能力は抜群だ。現役時代、さぞかし有能な教師だったのだろうな」
「お褒めに与って痛み入る」
「……」
「おたくは、新聞、テレビ、ラジオ等々、メディア類とはいっさい縁がないのだな」
「ない」
「不便を感じたことは」
「ない」
「地震やら台風やらの情報はどうする」
「世のなかには親切な人がいる。そんなときには、あの滅多に鳴らない黒電話が鳴るのだ。台風が来るぞとな。そう言えば、おたくはよく儂を捕まえられたな。儂が電話に出られるのは、午後八時から九時までぐらいなのだが」
「縁だ。おたくを捕まえるのに何ら苦労しなかった」
「うむ。縁だ」
「あの電話はおたく持ちか」
「否。龍仁寺持ちだ。仕事の電話がたまにかかるのだ。電話の経費ぐらい持ってもらわぬとな」
「なるほど。ところで、長野オリンピックを知らぬおたくのことだ。いまの首相の名も知らぬのだろう」
俊雄が問うと、無明は顔を顰めた。いかにも気色の悪いことを聞いたというふうである。俊雄は、許由の故事を思い出した。帝堯から天下を譲ろうと言われて、汚れたことを聞いたと潁川で耳を洗ったという名高い話である。
「知らぬ。儂の知る岸、池田、佐藤、田中といった歴代の首相は、良きにつけ悪しきにつけ大物だった。悪の程度も桁外れだ。いまのは小粒だ。しかし、小粒の方がいいな」
「小悪しかしないからか」
「うむ」
「無明さん、大掃除なんかで古新聞が出てきて、それに読みふけるというのがよくあるな。いまのおたくにそれを感じたよ」
「儂は、昨今の政治経済情勢を野菜を包む新聞から仕入れることが多いのだ。古かろうと、儂にとっては同じことだ。時間というものは過去から現在、現在から未来へと、不可逆的な一直線とされるが、どうもそうではないらしい」
「と言うと」
「儂は、二年前の新聞をあたかも現在であるかのように読む。同じように天地創造の神は、人間が何万年、何十万年もの間、殺したり殺されたりして、わいわいやっているのを眺める。神にとってそれは一瞬だ」
「過去もなく、未来もなく、現在あるのみと言いたいのか。禅宗の教えに似ているかな」
「違う。過去も未来も間違いなくあるのだ。ただ、現在との時間差がほんのわずかにすぎぬのだ」
「何万年という時間が一瞬ならば、そうなるのだろう。が、それは神の視点から言えるのであって、人間にそれを求めても無意味だ」
「人間はいずれその視点を手に入れる。俊雄さん、地球上の人間のだれ一人も月を見なくなったならば、それでも月は存在するだろうか」
「人類が死に絶えても、月は地球の周りを回っている。当たり前のことじゃないか。それとも、月が忽然として消滅するとでも言うのかね」
「人類が死に絶えることはない。しかし、だれもが月を忘れ果てたら月は存在しなくなるのではないか。儂はそんな気がしてならない」
「おたくはそう言うが、核戦争かテロリストによる原発破壊かで、大量の放射性物質がばらまかれたならば、人類は滅びるしかあるまい」
「昔、『渚にて』なんてのが流行ったな。儂もおたくも永遠の生命を与えられているゆえ、地球が滅びても、宇宙の別の星で生きることになるのだろう」
「おたくと話していると、ETかと思うときがある」
「おたくは娘が二人いると言ったな」
「言った」
「孫がいるのか」
「いる。上の娘に二人。下の娘に一人」
「娘との対話はあるのか」
「ない。無明さん、不思議なものだ。幼いころの娘は可愛かった。わたしはどんな人間に成長するかとずいぶん期待したものだ。実際、頭はよかったし、心根は優しかったし……」
「そのあとは、聞かんでも分かる。高校生になった途端、あるいは大学生になった途端、二人の娘は揃いも揃って、おのれ独りで大きくなったような顔をし、くだらない友とつきあい、老いた父や母を顧みなくなった。卒業とともに親のもとに寄りつこうともせず、それを恬として恥じない。いまでは赤の他人だ。おたくに財産がなければ、親子の関係は断絶していたろう」
「無明さん、おたくの学習能力は抜群だ。中らずといえども遠からず。それにしても、子育てしたわけでもないのにどうして分かる」
「儂のところに相談に訪れる女の悩みは、一つはいま言ったような子どもとの葛藤、いま一つは夫との不仲だ。儂は、世のなかの人間たちの浅瀬で溺れるさまを何回となく、何十回となく聞かされた。浅瀬だ。その場で立ち上がればすぐに解決するものを」
「なるほど」
「さて、小鳥たちがお待ちかねだ。俊雄さん、朝飯にしよう。戸外で食べるのも乙なものだ」
台所に引っ込んだ無明は、すぐに俊雄を呼びつけた。俊雄は、どんぶり四つを二回に分けて運んだ。
大盛りのごはんに大盛りの味噌汁。ごはんの上には漬け物が乗っかっている。朝、無明が手早く作ったものらしい。清々しい空気のなかでの朝食。めしも味噌汁も美味かった。陽射しがやや強まって、この日も好天である。どうなるかと案じた俊雄の宿酔いは、消えてゆきそうであった。
三
たくさんの小鳥が二人の身近に飛び降りて、せっせと啄みはじめた。
(無明さんの暮らしは存外に豊かだ。大自然に取り巻かれ、鳥は歌い、花は咲き……)
一羽の小鳥が、無明の掌から餌を啄んだ。これを見て、俊雄は目を丸くした。
「大自然のなかに生きるハーミットか。無明さん、おたくとオリンピックがちっともつながらないのだ。おたくはあの記事を読みながら、頑張れ日本、負けるな日本とでも応援したのかね」
「否」
「そんな冷たい態度だと、非国民と非難されるぞ。昔も今も、この国の人々が異端、異質を嫌うことは蛇蝎のごとしだ。おたくは、何を熱心に読んでいたのだ」
「読んでいたのではない。考えていたのだ。儂は、こんな若い元気なやつらが、ただ単に走ったり、飛んだり、跳ねたり、投げたりする暇があるのなら、介護施設等々でお年寄りのために大いにその秀れた力を発揮すればよいのになと考えていた。他人よりも一秒、その十分の一でもかまわぬが、速いことに何の意義がある。エネルギーの浪費もはなはだしい」
「ああ、無明さん。おたくのは正論だ。しかし、通じない。この国には、そういう正論を口にして袋だたきにされ、潰された人がたくさんいる」
「そんなものか。助力が必要なお年寄りたちは、若者の有り余るエネルギーをおれたちに注げ、となにゆえ言わぬのか」
「言う人はおらぬな。現代日本の価値観はおそろしく歪んでいる。お年寄りたちは勇気をもらっただの、元気をもらっただのと喜ぶ始末。三百年後の地球人は、すりこぎの大きなのを持って、ボールを力任せにひっぱたくだけで、何億も何十億も稼ぐ人間のいたことを知って魂消ることだろう。現時点ではおたくがいくら力説しても、耳を傾ける者は千人に一人もいない」
「儂はハーミットゆえ、呟くだけにとどめる。ところで、俊雄さん。儂は、勇気をもらっただの、元気をもらっただの、という言葉遣いが嫌いだ。勇気は与えたり、もらったりするものではない。自分自身で奮い起こすものだ。おたくの専門は国語だ。何とかやめさせてくれぬか」
「無明さん、わたしたちが、奇妙な日本語にどれくらい泣かされてきたことか。とりわけ、あげる、には参る。子どもにおやつをあげる、猫に餌をあげるといった使い方だ。生徒にいくら言い聞かせても、大人が子どもたちにこれこれをしてあげればいいと思います、などと平気で言う。親は、子どもにおやつを差し上げるのかね。猫に餌を差し上げるのかね。植木に水を差し上げるのかね。大人は子どもたちにこれこれをして差し上げるのかね。いまでは、それを追認する国語辞典まである」
「儂に怒るな」
「あげる、については、わたしの反対意見の通る見込みはない。ほかにも目線、がある。ちょっと前までは業界用語だった。いま市民権を得た。だれもが視線と言わずに目線と言う。言葉というものはそういうものだ。闘うだけ虚しくなる」
「俊雄さん、そろそろ出かけた方がいい」
「そうだな。が、もう少し……。無明さん、昨夜、聞き忘れたことがあった。今晩でもいいようなものだが、忘れぬうちに聞いておきたい。おたくは、現代作家のものは読まないのか」
「読むに値するならば、いくらでも読む。教えてくれ。昨今、読み応えのある作家はだれなのだ。その作品は」
「無明さん、いきなり言われても困る。毎年毎年、良質の作品が輩出されているのだ。作者の名を憶えるだけでも大変だ」
「言い直そう。死ぬ前に読んでおいた方がためになる作品は」
「それは、つまり……」
俊雄は、はたと当惑した。
「右の三島由紀夫が七〇年に死に、左の高橋和巳がその翌年に死んだ。昨今、大学のレベルは落ちに落ちたから今後、三島や高橋を凌駕する知性は出てこぬだろう。切磋琢磨の結晶が知性だ。俊雄さん、儂はおたくが答えにつまったのは当然だと思う」
「ううむ」
「儂は、相変わらず古い人たちのを読むしかない。昨今、文章の巧みなのはいくらでもいる。しかし、みながみな志が稀薄だ。志のない者すらいる。三島にだって壮大な志があった。儂は三島のよき読み手ではないが」
「おたくは三島の何を読んだ」
「『仮面の告白』と『金閣寺』ぐらいのものだ。『金閣寺』は読ませる作品だった。が、真実に遠い。金閣の美なる言葉を安易に使うのはどんなものか。儂は、水上勉の『金閣炎上』の方に軍配を上げる。ノンフィクションならば、虚言は書くまい」
「無明さん、金閣炎上事件には悲しい物語がある。わたしは敬して遠ざけるしかないのだ」
「うむ。林養賢の吃音は堪えるな」
「一所不住のおたくのことだ。林養賢の生地、舞鶴の成生を訪れたのではないか」
「否。しかし、近くまでは行った。日本三景の一、天橋立を訪れた際にな」
「わたしも行ったことがある。あそこは、一度は見ておいた方がいいな。砂嘴なんて言葉をはじめて知った」
「じつのところ、儂は舞鶴を通って天橋立へ行ったのだ」
「下駄履きでかね。かなりの距離がある。舞鶴へは何のために。まさか岸壁の母ではあるまいな」
「その岸壁の母だ」
「えっ。本当か」
「俊雄さん、冗談だ。儂とて、たまには冗談を口にするのだ」
「ETには泣かされる」
「儂はETではない」
「失礼した。話が金閣寺から変な方向へ飛んだ」
「うむ。俊雄さん、三島も高橋も若くして死んだ。が、両人の仕事は突出している。立派というほかはないな」
「高橋の若すぎる死は惜しかった。三十九歳だった」
「三島は四十代の半ばだった」
「無明さん、あの当時、唐牛健太郎は若気の至り、三島由紀夫は中年の至りとよく言われたな」
「それを言ったのは唐牛本人だ。マスコミは、英雄の末路を追いかけるのが好きだからな。堕ちた英雄はそれだけで恰好のネタだ。唐牛健太郎が堕ちたわけではない。俊雄さん、唐牛健太郎はこの函館の出身だ」
「えっ。そうだったのか。おたくはこの街のことをよく知っているな。愛着があるようだが」
「一所に三年以上もとどまったのは、ここがはじめてだ。愛着も湧く」
「無明さん、コーヒーはないだろうか」
「ない。水を飲め」
「おたくにかかると、コンピュータの世界を思い出す」
「どういうことだ」
「ゼロか一。それしかない」
「儂の物言いには、潤いがないと言いたいのか」
「そのとおりだ。わたしは声を大にして指摘したい」
「はなはだ心外なり」
「さほど心外そうには聞こえない」
「待て、待て。俊雄さん、ドリップ式のがあったような」
「飲む。無明さん、議論は打ちどめだ。わたしはコーヒーを飲みたい」
俊雄は無類のコーヒー好きである。日に十杯は飲む。それもかなり濃いめのをである。無明が蹤いてこいと顎をしゃくった。俊雄はあとに従った。両人の間の垣根がとれて、すっかり親しくなったかの感がある。