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全年齢の虐殺映画


 冒頭近く、父親と息子とのぎこちないキャッチボール。しかし、ここで重要なのはそのキャッチボールが描き出す主人公と息子とのドラマにあるのではない。我々が驚くべきは、そのキャッチボールが、たかがキャッチボールであるはずの風景が、スピルバーグの手にかかると物凄い暴力の予感に満ちたやり取りと化す、その異常な演出力だ。質量とスピードを持った物体が、大きなインパクトとともにミットのなかに押さえ込まれる。ズバン、ズバン、とやり取りされる毎に、その質量はより大きなパワーを獲得してゆく。心理は映らない。画面に映らないドラマ云々言う奴はひっこんでろ。それをとことん知っている男スピルバーグは、親子の関係を質量をぶつけあう暴力のやり取りとして描くという、常軌を逸した方法をごく自然に選択した。これだけ物質感に満ちた、これだけ息苦しいキャッチボールははじめて観た。そして、トムの放ったボールがガラスを割って、この場面は終わる。その硬球が自宅のガラスをブチぬいたとき、それは漫画で描かれるあまたの草野球の風景とまったく同じ風景であるにも関わらず、鈍器で誰かが殺されたようなインパクトを持って、このキャッチボールは終りを告げるのだ。これは決して大袈裟に言っているのではなく、事実、ぼくはガラスをボールがぶち抜いたとき、おうっ、と思わず劇場で声を上げてしまった。

伊藤計劃:第弐位相

 久しぶりに宇宙戦争を見直した。
 随分前に観たせいで、このキャッチボールのシーンを失念していた。
 親子のキャッチボールに暴力の予感に満ちたやり取りと表現する指摘にいつ読んでも感嘆する。

 この映画を初めて観たのが、いつ頃か思い出せない。中学生の頃、実家の近くにレンタルビデオ店があったので、おそらく借りて観たのだろう。トライポッドによる文字通りゴミのように行われる虐殺や人間同士の争いにひどく嫌な気持ちになり、終盤は呆気に取られて、一体いま観た映画は何だったのだろうといった感想を持っていた。
 観る前は、もっとワクワクするようなSF映画だと思っていた。『インデペンデンス・デイ』のような宇宙人が出てきて人類が撃退する娯楽映画を想像していたし、あのスティーブン・スピルバーグだと宣伝していたので、ジュラシック・パークやインディージョーンズのような楽しい映画だろうと思っていた。
 思い返すとスピルバーグは、自分にとってのトラウマ映画を植え付けている。『魔宮の伝説』でケイト・キャプショーに絡みつく巨大な虫、『最後の聖戦』では聖杯を飲んでドロドロに溶解していく人間、『A.I.』のほうれん草やロボットを破壊している見世物ショーに震えあがった。あのスピルバーグであるといった文言があるせいで、親も何も問題ないと思っていたのだろう。

 また、伊藤計劃は、自分が映画に求めている暴力を以下のように言語化してくれている。

 映画における暴力とは何か。それは否応なく見せつけられるということだ。真の意味で「見世物」だということだ。ドラマに、因果に堕ちることなく、「宇宙戦争」は崇高ですらあるくらい「見世物」であり続ける。

伊藤計劃:第弐位相

 北野武や二コラス・ウィンディング・レフンの映画を観るたびに感じる、あの見せ付けられる暴力。サッとやってサッと終わる、あの一連の動作。情緒なんてものは存在しない乾いた暴力に映画全体が不穏な雰囲気をまとっている。そういう意味でこの映画は正統な暴力映画とも呼べるのだろう。

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