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鬱屈な映画好きという設定

 いつの頃か何気なくリビングで番組予約をザッピングしていた母に言われたことがある。「これ、アンタが好きそうな映画じゃない?」と。

「映画大好きポンポさん」

 母から勧められたアニメ映画。録画を断り苦虫を潰したような表情でポンポさんについて語る姿に母は面倒くさそうな反応を示していた。

 好意で勧めてきたのに、面倒くさい反応をして断るのだから当然と言えば、そうなのだが、自分は爽やかな顔でポンポさんについて語ることは出来ない。

 世の中には、面倒くさい映画オタクなるものが存在して、その派生で特定のジャンルになると急に五月蠅くなる輩が存在する。得てしてそういう作品は歴史の長いシリーズ物が多い。

 幸か不幸か、自分にはそういった趣向は比較的少ないという自負だけはあり、「あの〇〇〇の新作は、〇〇〇だと認めんッ!」といったことはあまりない。毎回、人気シリーズの新作が公開されるたびにSNSで、そんな論調が出回るたび、心底どうでもいいという気持ちが強く、あまり特定のコンテンツに興味がないと思われる。

 そういう意味で、視聴後に煮えくり返るような気持ちにさせられてしまった映画を観ると、こういった経験も珍しいなどと感慨深くなってしまう瞬間がある。ポンポさんに対して、劇場公開時に観てから一度も見直してないので、当時の自分があの映画に何を突き動かされたのかを思い出すのも難しいが、一つ言えるのは愛だの好きなどという言葉に一種の抵抗感があるのだろう。

 ポンポさんの原作とアニメでは、大筋の展開はなぞりつつ、それぞれ受け取った印象は異なる。原作では「映画大好き」の言葉がポンポさんのある種の映画に対するドライな距離感を踏まえたうえでの回答を示していたのが印象的で、コミックスを読んでいるときは鼻白むことなく良い漫画だなと受け取っていたが、アニメ版ではコミックで描かれた展開まで尺の関係で描き切れなかったため、映画好き兄ちゃんのジーン君が、盲目な映画愛の代弁者として描かれる。それゆえにポンポさんがジーン君を気に入っていく過程は面白いのだが、劇場鑑賞時はそんな盲目な愛に妙に醒めていた。

 自分は作中に出てくる劇中劇に対する距離感というのに非常に敏感なところがあり、フィクションのなかに出てくる人物が映画愛をかましてくるのには心底うんざりする。作中で映画愛を語る人物、もといそれを作った作者にも言えるが、あなたは映画が好きなのではなく、映画が好きな自分が好きなだけですよねといった嫌味の一つでも言いたくなってしまうのだ。本当に映画が好きなら愛を語るのではなく、どう最後まで添い遂げるのかが問題であり、重要なのはそこだろうと。年月が経つにつれて、映画に対する興味が失われつつあるなか、どうすれば好きでい続けられるのであろうと考えるほうが切実な問題だ。何とでも言い換えは出来るが、(映画に対して)飽きないことが大事なのだと、年々観る本数が減っていくたびに考えるようになってきたので、こんなことを思い出したのである。

補足: 
 特定のコンテンツに執着しないと書いておきながら、思い出したことがある。自分はドラクエが好きなのだが、あの映画に関しては劇場で観て、本当に怒りを通り越して畏怖してしまった。こんなことが許されるのか。映画は恐ろしいなどと本気で思ってしまったくらいで、そのあまりの恐ろしさに家族に吹聴しまくっていたくらいだ。シン・仮面ライダーに対しても、あの映画が好きな友人に対して、不満をぶちまけてしまったことも思い出した。彼が大人な態度で「気持ちはわかるが、あれは初代ライダーや他の石ノ森作品のオマージュであり、興味深いところはあるよ」といった言葉をねじ伏せるが如く言葉の暴力で責め立てていった。こんな大人気ないことをしている内に「大人になれ」という言葉を思い出し、おれはユア・ストーリーの掌で踊っているのに過ぎないのだと痛感させられる。

 当初、書いていた『自分は特定のコンテンツに執着しない』などという言葉は何も意味をなさなかった。俺も同じ穴のムジナであり、ただの同族嫌悪であることが判明した訳である。

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