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ASDは流行りにのれない…のか?

吾輩はASDである。長年にわたり悪い意味で他者と異なる存在であると気に病んできた。2023年になり、念願の診断がくだり『やはり我は異形だったのだ』とホッと胸をなでおろしている。

病院のお墨付きを得て胸を張っているASD者として、現代社会において少数派とされる同胞がどのような傾向を持っているのか気にしている。運動(特に球技)が壊滅的なまでにセンスがない、や会話の最中に『日本語でおk』といなされる等はネット上の言説を見るにあたり多くの仲間が味わってきたように思える。

私には現状友人はいない。過去友人と思っていた人々も一方的に思い込んでいた恐れは非常に高い。そのため、ASD者あるあるを収集するにはネット検索を過去も今も多用している。さみしくもあるが、40年近くもこのような生活を繰り返していると『しゃーねーか』とある種の諦観もある。

ネット検索を通じてもあまりよく調査できなかったため、他のASD者の知見を得たいと思い、今現在文章を綴っている。

それは『ASDは流行りにのれない傾向があるのか』という点だ

今わたしは周回遅れで安室奈美恵さん、『アナと雪の女王』『鬼滅の刃』にハマりつつある。そのどれもがリアルタイムでは決してハマれなった。『アナと雪の女王』にいたってはDVDを2作揃え、日々『うまれてはじめて』を練習している。(余談だが神田沙也加さんの伸びやかな歌声は改めて素晴らしい。少しでも近づきたいが全く及ばず彼女の才能と努力に感嘆している)

流行真っ最中にハマっていれば同好の士ともいとも簡単につながれるはずなのに、毎回なぜだかそれができない。流行になってしまうとその途端に手が引っ込んでしまうのだ。そして4,5年後何の気なしにコンテンツに触れ『これはすごいよ!!!!』と騒ぎ始めるパターンがあまりにも多い。そのころには流行は過ぎさっているので同好の士を見つけにくくもなり、『素直に逸りに乗っておけば…』と頭を抱えるところまでがセットだ。

個人的には二点原因があると分析している。
①流行に敏感=ミーハー=作品や人への愛がない、軽薄という思い込み
②流行が完結していることで得られる安心感
特に②に関してはコンテンツ人気が失速したり、非難されることへの恐怖心が他人ながら強くあり、心穏やかに『はわわ~✨✨✨』と対象物を愛でたい気持ちからくると感じている。

上記のような感覚は他のASD者にとってもよくある傾向なのか知りたい。
もしこの文章を読んで思うところがあれば遠慮なくコメントを頂戴できるとありがたく思う。

※そのうちにこの感覚が薄れて流行りものすべてに目を逸らさずに気に入ったコンテンツに飛び込めるようになりたい、と願っている

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