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「付き合ってあげてもいいかな」とセックスへの問い

まえがき

マンガワンで連載中の「付き合ってあげてもいいかな」は、主に大学生の登場人物たちの恋愛関係を主軸とした、恋愛漫画である。

既刊6巻、扱うテーマも描かれる登場人物たちも、何の変哲もないこの作品は、多くの熱烈なファンを抱えている。かくいう私も、コミティア時代からその名が轟いていることも知っていた。にもかかわらず昨年になってようやく読み始めた訳だが、人生でも5本の指に入る作品と感じている。

さきほど、「なんの変哲もない」と書いた。そもそも恋愛というものも、古今東西どの時代の作品を取り上げても、つねに描かれ続けているテーマである。

舞台となるのは都内の私立大学という設定で、これも特筆することのないものだろう。

登場人物は主に大学生。軽音部の活動に関する描写は登場するものの、勉強の描写は全くと言っていいほどない。

ジャンルとしては、大学生の恋愛漫画、としか形容できない。ここまで平面的でのっぺりとした設定の作品というのも、今どきむしろ珍しいかもしれない。

何か特徴があるとすれば、主人公カップルである犬塚みわと猿渡冴子がレズビアンである、という所くらいであるが、「百合」と呼ばれる女性同士の関係性を描いたジャンルも、メインストリームからは遠いにせよ、さまざまな場所へと認知が広がりつつある。

一見すると特に引っ掛かりのないこの作品が、どうしてここまで深く強烈なファンを多く獲得するに至ったか。

今まで少なかった、リアリズムに寄ったレズビアンの描写。多様な価値観の拾い上げ方。読者の心を一度掴んでしまえば、もしかしたら二度と話さないような、作劇の上手さ。フィクションであることを忘れさせてしまうような、真に迫った感情描写。

恐らく数え切れない程の理由があるだろう、この作品の全ての面を語るのは難しい。

そのため、この記事ではセックスについて、主に取り上げて行く。


目次

・「付き合ってあげてもいいかな」が投げかける問い
・セックスとは何か
・みわと冴子の不全感
・冴子と優梨愛のセックス
・自己開示と承認
・あなたはここに居ていいのだということ


「付き合ってあげてもいいかな」が投げかける問い

「付き合ってあげてもいいかな」は、マンガワンというアプリ内で連載され、このアプリにはコメントを投稿できる機能がある。

この作品について驚くのが、そのコメント数の多さである。時には1,000を超える数のコメントを覗いてみれば、キャラクターへの共感から、賞賛や批判、果ては作品には関係のない読者自身の思い出まで多岐に渡る。

その多様さには、さまざまな感性を持つファンを持っている作品の魅力も表れているのだろうと思うが、共通点もある。それが、作品の内容について、読者がまるで自分に起こった出来事のように感じていることが読み取れることである。

まさしくそれが、この作品の一番の魅力であると私は考える。

読者は心を動かされただけではコメントを残さない。しかし、自分の感情や考えを、言葉で表現したくなる力が、付き合ってあげてもいいかなという作品には備わっている。

恋愛とはなんだろう。セックスとはなんだろう。人間関係とはなんだろう。そういう根本的な問いが、みわと冴子を始めとしたキャラクターたちとその関係を通して、私たちに投げかけられている。

「付き合ってあげてもいいかな」という作品が、読者に質問を投げかけるからこそ、読者はそれに答えを出したくなる。そしてその答えを表現したくなるのである。

作品にはテーマがある。この作品のテーマは答えではなく、終わりのない問いなのである。


セックスとは何か

この作品の中には多くの問いがある。そして、その問いのひとつひとつに、また多くの答えがある。

セックスとは何か、というのも、その問いのひとつである。

冴子にとってと、みわにとってのセックスは、大きく意味が違う。それは現実の人間であっても同じで、同じ恋愛、セックス、という言葉を使っていたとしても、そこに内包される意味は複雑で、細かな違いもあれば、大きな違いもある。

しかし、単なるリアリズムでは片付けられないものがそこにはある。

恋愛とは何か?セックスとは何か?人間関係とは何か?

それは「あなたは何か?」と、他者に向かって問いかける営みである。それは相互関係だ。そして私自身も、「あなたは何か?」と問われる。

私は考える。「私は何か?」。

私たちは他者を通して、自分自身を探究するという営みを持っている。

それは恋愛である場合もあれば、セックスである場合もある。もちろん恋愛関係には限らず、家族、友人、見知らぬ人々、全ての関係においてそうだ。少なくとも、そう私は考える。

先日、マンガワンにて第63話「同じ歩幅で」が更新された。

そこから読み取れるのは、形骸化し、イニシエーション化して描かれてきたセックスの、本質的な姿、「あなたを知りたい」「私を知って欲しい」、その相互関係だ。

そこでは冴子と優梨愛の関係性が描かれている。しかし、セックスという行為は、みわと冴子の関係においても、極めて象徴的に描かれてきた。


みわと冴子の不全感

ここで言う「あなたを知りたい」とは、相手の肉体を見ることに始まり、触れること、感覚を与えてそれを知ること、レズビアン用語で言えばタチの欲求だ。対となる「私を知って欲しい」は、ネコの欲求と言える。

相手に自分の肉体を見せる、触れられる、感覚を与えられそれを相手に知ってもらう、そういったことがネコの欲求である。そういう風に扱われている。

その欲求によって、セックスにおける役割が規定される。

みわと冴子の役割は固定されている。それは、互いの欲求のベクトルが固定されていることを意味する。

みわが身体を開き、冴子はそれに触れる。

みわが「今日は私がしたい」と口にしても、冴子はそれを拒む。みわは、「私を知って欲しい」という欲求だけでなく、「あなたを知りたい」という欲求もまた、冴子に向けて表しているのだ。それは一度だけではない。

しかし、冴子は「私を知って欲しい」という欲求を、みわに向けて表すことはない。

冴子自身、『「私を知って欲しい」という欲求を持つ自分』、というものを許せない自分、が存在することを認めている。

知りたいという欲求と、知って欲しいという欲求、そのアンバランスさが、みわと冴子の関係そのもののアンバランスさでもある。

ふたりの関係の不全感がセックスから生じている、というわけではない。根本的に存在する関係の不全が、セックスにも表れているということである。

セックスの役割として、それが固定されていることに問題がある訳ではないはずだ。現実のレズビアンカップルでも、セックスの役割が固定していて、関係が良好なカップルも多く居るはずである。同性愛者のカルチャーとして、ある種の性的指向の分類として、タチネコという言葉が使われ続けているのもまた事実である。

知って欲しいと思っても、それを表現できない。表現できないのだ、ということそのものを表現することが、冴子には足りなかったのではないだろうか。


冴子と優梨愛のセックス

ここで、第63話「同じ歩幅で」を読んでみる。

優梨愛は「あなたを知りたい」という欲求を、「おっぱい見たい」と表現する。それは恐らく、冴子にとって一番ハードルの低い自身の開示ではないか。まず肉体を開示する、というところが、冴子の「私を知って欲しい」の表現の第一段階だろう。

しかし優梨愛の側からすると、自身の肉体の開示には忌避感がある。だからこそ、冴子に肉体の開示を求めたのだろうと推測する。

冴子がセックスをする時、性欲は鎧として機能する。生身で相手にぶつかるのは怖いから、冴子は性欲という鎧をまとって、知りたい、触れたいという欲求を差し出してきた。優梨愛の求めに応じて、その鎧の中を、ようやく開く。

この行為は、みわとの関係でも行われたものだ。第49話「瞳に映ることのない私」においても、みわは「裸が見たい」と冴子に要求し、ふたりは素肌で抱き合う。そしてみわは冴子の身体に口付けるが、そこには冴子の同意はない。

みわとの場合と、優梨愛との場合、そこには明らかな対比が見られる。相手への尊重の姿勢の有無。

みわとの場合では、そもそも冴子はセックスを望んではいないのだ。それはほとんど暴力にも近い。

服を脱ぐこと、鎧を脱ぐことで、冴子は生身の身体を相手に差し出す。冴子はこのとき、どんなにか傷付いたのだろう。


自己開示と承認

冴子が肉体を開示することで、優梨愛も冴子の欲求へ応えようと試みる。冴子は「あたしも見たい」と、知りたいという欲求を表しながらも、「無理しなくていい」「優梨愛の気持ち優先だから」と言う。その眼差しに、読者である私は慈しみを読み取る。

布団の中でならいい、と言う優梨愛は、確かに譲歩しているのかもしれない。しかしそこには、互いへの尊重がある。

暗い中で互いの身体を見ることはできない。見るというのは、本質的な承認だ。あなたがそこにいる、そのことを私は見ている、という表明であり、ひとつの許しでもある。

承認は見ることばかりではない。暗闇で抱き合う時、承認と許し、その相互関係がある。

セックスの構成要素として幸せがあるとすれば、冴子はこの時になってようやく、幸せを発見したのではないだろうか。

それはひとつの快感、言い換えれば心地よさだ。私はここに居ていいのだ、という、素肌での抱擁だ。


あなたはここに居ていいのだということ

恋愛やセックス、人間関係に求めるものは人それぞれ違う。違う人間同士が関われば、齟齬が生まれる。時には傷付くこともあるだろう。傷付けることもあるはずだ。

「あなたを知りたい」と思わなければ、その人との本当の関係は始まらない。しかし、長く関わっていると、そのことを忘れてしまうことの方が多いだろう。

「あなたを知りたい」とは、その人がそこに居ることを認めることだ。あなたはここに居ていいのだ、ということだ。恋愛もセックスも人間関係も、それが始まりだと私は思う。

それは「付き合ってあげてもいいかな」という物語が提示した答えではない。問いかけてきたものへの、私個人が出した答えであるだけだ。

自分の中にある何か重要な答えを見つけ出してくれる、そういう問いかけをくれる作品が私は好きだ。

「付き合ってあげてもいいかな」という作品にもいつか完結する時が来る。その時、あらわれるのは答えなのか、それとももっと他の問いなのか、今から楽しみでならない。

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