宇多田ヒカルの魅力─楽曲から読み取るノンバイナリズム
(私の所有しているOne Last Kiss限定盤)
はじめに
6月下旬、庵野秀明を招き、宇多田ヒカルが自身のインスタグラムアカウントで放送したライブ配信が話題を呼んだ。その話題、と言えるような内容はいくつもあったが、最も注目を集めたのは、宇多田ヒカルのカミングアウトであると言えるかもしれない。
「ヒカルパイセンに聞け!」と題されたこのライブ配信は、私自身を含めた宇多田ヒカルファンにとってはお馴染みの配信だ。その時々で、様々な国、性別、年齢のファンたちから日本語や英語で問いかけられる質問に、宇多田ヒカルがそれぞれ答えていく、というこの企画。配信がされるたびに、宇多田ヒカルの言葉は多くのファンの心に響き、TwitterなどのSNSでも共有されてきた。
まず英語で、それから日本語で発言された、宇多田ヒカルのカミングアウト、というのは、(LGBT+)プライドマンスにちなんだものだった。
「くまちゃん」という名前で紹介される、宇多田ヒカルの友人であるくまのぬいぐるみは男の子でゲイ。この配信以前にも宇多田ヒカルはそのことを明らかにしており、Wikipediaにも「くまちゃん (宇多田ヒカルのぬいぐるみ)」という記事が存在しているほど、ファンたちの間でも親しまれている存在だ。普段はオネエ言葉で喋っているとのこと。
宇多田ヒカルは「庵野さんの前に」とまずは「My dear,My best friend」くまちゃんについて述べ、それから自身のジェンダーアイデンティティ(性自認。自身が自分の性をどのように認識しているか、ということ)について説明。「he's Gay, he's boy」「and I'm nonbinary」「happy pride month!」と英語でプライドマンスを祝った。
さらにその後、日本語でもプライドマンスについて話し、くまちゃんや自身について語ってくれた。ノンバイナリーであるということは、宇多田ヒカル自身も「ここ1,2年で知った」という。
そのことは瞬く間に話題になり、今ではノンバイナリーでGoogle検索すると、宇多田ヒカルについての記事がズラッと並んでいる。是非は別として、それだけの影響力を宇多田ヒカルが持っているということを、再確認させられる出来事だった。
ノンバイナリーという言葉をこの時はじめて知った、という人も多いことだろう。そして、宇多田ヒカルが多くの注目が集まる場で、その言葉を臆すことなく口にしたことで、勇気づけられたという人もまた多いだろう。かくいう私も、このことには勇気づけられた。大きな意味があることだったと感じている。
さて、前置きが長くなってしまった。このことをきっかけに、宇多田ヒカルの楽曲の中に流れるノンバイナリズム、男と女という二元的な性や人間の捉え方から、少しだけ離れた場所からの眼差しについて、改めて言葉で表現したいと感じた。
というわけで、今回は「宇多田ヒカルの楽曲から読み取るノンバイナリズム」と題して、その楽曲を通して読み取ることのできる人間の見方について、語っていこうと思う。
DEEP RIVERより「光」
ファースト、セカンドアルバムをすっ飛ばしていきなりDEEP RIVERより「光」。もちろんFirst LoveもDistanceも良いのだが、個人的に宇多田ヒカルのアルバムはDEEP RIVERから、より深いところまで到達するように心に響く楽曲が増えたと感じている。
どんな時だってたった一人で運命忘れて生きてきたのに
突然の光の中目が覚める
真夜中に
こんなフレーズから光は始まる。
深いリズムの繰り返しの中で、ダイナミックにボーカルが雪崩れ込んでくる。という音楽的な良さについては、スペシャリストたちが幾度も語ってくれているはずなので、今回は置いておく。
私が光を聴くたびに、心に響くものを感じていたのは、以下の歌詞だ。
いまどき約束なんて不安にさせるだけかな
願いを口にしたいだけさ
家族にも紹介するよ
きっとうまくいくよ
友人とも話したことがある。この「家族にも紹介するよ」という歌詞が、どこか引っ掛かりを覚えるのである。
「光」の英語バージョンである「Simple And Clean」の同箇所の歌詞はこうだ。
Don't get me wrong, I love you,
But does that mean I have to meat your father?
簡易的に訳すると、「私はあなたを愛してるけど、それはあなたの父親に会わないといけないってことなの?」。「光」とは真逆のことを歌っているのである。
確かに、これは極めて日本的、形式的なものかもしれない。男女のカップルであるならば、大抵は親への挨拶という段階を踏む、という常識的な観念がある。
しかし、その後に続く「きっとうまくいくよ」という言葉から、何かその形式の中には収まらないような祈りを感じている。
一般的な、常識的な関係性ならば、そんな祈りなど必要ないのではないか。普通と呼ばれるような関係性の相手なら、家族に紹介したところで、なにを咎められるということもない。
しかし、男女にせよ、そうでないにせよ、「きっとうまくいくよ」という言葉には、もしかしたらうまくいかないかもしれない、そういう不安も内包しているように響く何かがある。
ところで、私はレズビアンである。私が宇多田ヒカルの楽曲から感じ取ってきた救いと祈りは、そういう常識や普通から、少しだけ外れたような場所から投げかけられる言葉たちなのである。私はこれを長らく「同性愛的」と呼んできた。といっても、友人との会話などの身内の間だけだ。
しかしこれは、同性愛的でも異性愛的でもないのだ、と今は感じる。それが、宇多田ヒカルの楽曲に流れているノンバイナリズムだ、と私は定義したい。
先読みのしすぎなんて意味のないことはやめて
今日はおいしいものを食べようよ
未来はずっと先だよ
僕にもわからない
私はレズビアンである、という自身のアイデンティティをもって、この一連の歌詞の中に、地に足のついた、救いと祈りを感じる。
先読みのしすぎ、ということは、社会からいつ弾き出されるかわからない、そんな様々なアイデンティティを持った人々にとって、身に覚えのあることではないだろうか。しかし、それを「意味のないこと」と言う。その通りかもしれない。美味しいものを食べることの方がずっと意味のあることかもしれない。かもしれない、思う中で、歌はこう続く。「未来はずっと先だよ、僕にもわからない」。
未来がどんな風に変わるのか、また続くのか、本当は誰にもわからない。しかし、私たちはそれを悲観したり、希望を持とうとしたりする。そこに意味はないのだ、と宇多田ヒカルは歌う。
もっと話そうよ
目前の明日のことも
テレビ消して
私のことだけを見ていてよ
未来とは目前の明日の続く先であるだけだ。
テレビ消して、というフレーズもまた、象徴的な言葉だと感じる。テレビで語られることの多くは、私たちのことではない。社会の多数の人々のためのヴィジョンは、私たちのためのヴィジョンとして機能しないこともある。
だからそんなものは見ないで、私のことだけを見ていてよ。と歌っていると私は読み取った。
男か女、というだけでなく、異性愛者か同性愛者か、あるいはその両方か、そういった性の二元論では決してない。宇多田ヒカル自身の出身を考えれば、国籍や人種といったものの中にも収まろうとしていないかもしれない。
そういった分類に意味を見出すことを一度やめて、あなたと私、今日と明日、その地に足のついた、実感に目を向けよう。というメッセージを私は感じ取る。
Exodusより「You Make Me Want to Be a Man」
この楽曲が収録されているアルバムExodusは、宇多田ヒカルがUtada名義でリリースした世界デビューアルバムだ。そのため、この曲も歌詞が英語であり、その解釈はいくつかあるだろう。
公式Youtubeチャンネルで見ることのできるミュージックビデオでは、機械の体を持った宇多田ヒカルと人間の映像が交互に流れる。そこから、Manとは人間という意味だと捉えることもできる。
しかし私は以前からずっと、これは女性に恋をした女性の曲だ、と考えていた。
I really wanna tell you something
This is just the way I am
I really wanna tell you something,
but I can't
You make me want to be a man
大まかに訳する。
私は本当にあなたに言いたいことがある
それは私自身の在り方
私は本当にあなたに言いたい、
だけどできない
あなたは私を男性になりたいと思わせる
どう考えてもレズビアンの恋についての曲だ、と私は思ったのだが、調べてみてもそういった解釈の記事などは見当たらなかった。
しかし、こうして改めて見てみると、レズビアンに限らず、それこそノンバイナリのような人の視点を持った曲のように感じる。シスジェンダー、ヘテロセクシャルではない、なんらかのジェンダーやセクシャルのアイデンティティを持った歌い手が、ある人と一緒にいたい、自分の在り方について話したいと望む。しかし、話すことができないから、男性になりたいと思う。そういう歌のように感じる。
Arguments that have no meaning
This is just the way I am
You really wanna tell me something,
but you can't
You make me want to be a man
意味のない議論
それは私自身の在り方
あなたは私に話したいことがある、
だけどあなたは話せない
あなたは私を男性になりたいと思わせる
そして相手もまた、歌い手の在り方を原因として、言いたいことを言うことができないでいる。それは愛の告白かもしれないし、カミングアウトを指しているのかもしれない。
何か常識的、バイナリズム的なものに縛られた二人の歌のように聞こえるのである。
ULTRA BLUEより「BLUE」
ULTRA BLUEというタイトルへ繋がる、表題曲にも近い「BLUE」。この曲には、まさしくこのフレーズが宇多田ヒカルだ、と感じさせられるような歌詞が登場する。
女の子に生まれたけど
私に似合うのはこの色
女の子=赤色、という観念をベースとし、青色をフューチャーしたこの歌詞にこそ、宇多田ヒカル楽曲が全体として持つ、既存の観念からの脱却、本当の真実の追求、そういうものが詰まっていると思う。
どんなに辛い時でさえ歌うのはなぜ?(さあね)
このフレーズも、宇多田ヒカル自身のパーソナルなイメージを感じさせるものだ。その直後に、
もう恋愛なんてしたくない
離れてくのはなぜ?(Darling, darling, ah)
挑戦的にも見えるフレーズが差し込まれる。
どんなに辛い時でさえ生きるのはなぜ?(さあね)
もう栄光なんて欲しくない
普通が一番だね
この「BLUE」から、本質を照らし出すような、宇多田ヒカル的なフレーズを抽出しだすとキリがない。
また、ULTRA BLUEというアルバム全体を見渡してみても、前作であるDEEP RIVERからさらに深まった、本質的、根源的なイメージが流れている。
ULTRA BLUEより「日曜の朝」
さらに同アルバムより。
彼氏だとか彼女だとか
呼び合わない方が僕は好きだ
彼氏、彼女、というようなロールに意味を見出さない見方は極めて宇多田ヒカル的であるし、「日曜の朝」というタイトルにも現れているような、社会への適合から外れた場所での営み、というものが表現されたと言える。
幸せとか不幸だとか
基本的に間違ったコンセプト
お祝いだお葬式だ
ゆっくり過ごす日曜の朝だ
そしてまた、幸せ、不幸、という価値観も「基本的に間違ったコンセプト」と言い切る。その姿勢には否定というよりも、多くの人々をすくいあげるような意味合いを感じる。
お祝い、お葬式、ゆっくり過ごす日曜の朝。これらの言葉の羅列には共通する文脈がないかのようにも感じられる。しかし、そのどれもひとつの非日常であり、普段人々が感じているだろう常識から少しだけ外れる時間なのではないだろうか。
ULTRA BLUEより「Making Love」
私はこの曲に関して、「You Make Me Want to Be a Man」と同じく、同性愛をモチーフにした曲と感じてきた。
とうとう知り合って10年
どこから始めよう
突然あなたのお引っ越しが決まった
遠距離なんて怖くもなんともない
感じてるよ存在を日々胸に
もう二度と会えなくなるわけではないのに
考えちゃうよ
長らく続いてきた友情についての歌のように聞こえる。しかし、この時点でも「遠距離」「存在を日々胸に感じる」「もう二度と会えない」など、恋愛的とも友情的とも取れるような、これもまた二元論には収まらない感情が語られている。
無常に過ぎゆく時間なら親友は必要ね
少し疲れて私たちgrowing up
わざと「親友」という言葉を楔のように打ち込んでいるようにも見える、「私たち」の関係を定義するフレーズ。
日当たりよし最寄駅近く
隣の住人もいい人ね
優しい彼との経済学
見かけによらずしっかり者で
私と正反対のあなた
改めて言うのは照れますね
私が初めて惚れた女
今から言うことを聞いて
「親友」であるあなたは「彼」と暮らし始めるのだということの説明。そしてその直後に、一転して私とあなたとの関係への語りへと突入する。
「私が初めて惚れた女」というフレーズは、親友、恋人、どちらか一方を取るような表現ではない。
根暗なマイ・ハートにひとつ花が咲いた
あなたの存在が私にとってどんな存在か、ということは、一般常識的、無粋でもあるような関係性の定義には表すことができない。私の心に花を咲かせてくれるような存在。ただそれだけ、ということなのだろうか。
あなたに降り注ぐ光
遠い街でも平気だね
新しいお部屋でもう君は making love
あなたに出会えてなかったら
親友はいらないね
探し続けてた答えもう見つけてた
making love、というのは性行為を表す言葉だが、日本語歌詞の中に織り交ぜる、そのバランス感覚によって、それを否定するわけでもなく、複雑な意味合いを含めた言葉として機能している。
同性愛的な観点から見れば、というよりも、同性愛的な、異性愛的な観点、その両方から少し離れたところで見てみる。そうすると、親友として長く一緒にいる相手が、恋人と一緒に新たな生活を始めようとしている、そのことへの、応援するような気持ち、寂しさ、昔を懐かしむ心、そういったさまざまなレイヤーを重ねた感情が、シンプルに伝わってくるのではないだろうか。
私を慈しむように
遠い過去の夏の日の
ピアノがまだ鳴ってるのに
もう起きなきゃ
最後の歌詞には、さまざまな関係性や感情を少し遠くに置いて、ただ愛おしい過去を懐かしむような、ノスタルジックな感覚がある。
ULTRA BLUEより「Passion」
連続して、同アルバムから。
電車がガタンゴトン、と立てる音のようなドラムが繰り返し鳴り響きながら、ゆっくりとひとつひとつの言葉が織りなしていく世界。過去や未来の大きな流れを川とすれば、そこに点々と置かれた飛び石を辿るような、そんな曲調のように思う。
ずっと前に好きだった人
冬に子供が産まれるそうだ
昔からの決まり事をたまに疑いたくなるよ
ずっと忘れられなかったの
年賀状は写真付きかな
私たちにできなかったことをとても懐かしく思うよ
それから一転して、最後には交互にボーカルがなだれ込む、どこか走馬灯のような展開となるのが最後。
この歌詞からは、私と「ずっと前に好きだった人」の性別、役割、関係性はそう多くは読み取れない。
どうしてもこれが、私には同性愛的に聞こえ続けていた。「私たちにできなかったこと」というのは、当時(2000年代)において、同性間のカップルが家族のような関係を築き上げる、ということを想起させる。そのできなかった未来を「とても懐かしく思うよ」と歌い上げて終わるこの曲に、まだLGBTという言葉さえ浸透していなかった当時に生きる同性愛者の抱える悲しみ、怒りのようなパッションを感じるのである。
しかし、同性愛者に限らない性的少数者、さらにそれに限らず、あらゆるアイデンティティを持つ人々にとっても、その感情は理解でき、自分の中にもあると感じるものであるのではないだろうか。「ずっと前に好きだった人」という言葉には、必ずしも恋愛的、性愛的なものだけに限定されたニュアンスがあるわけではない。
それこそ、宇多田ヒカルの楽曲群が抱くノンバイナリズムであり、多くの人々を惹きつけてやまない、その所以のひとつではないだろうか。
HEART STATION以後
HEART STATIONのリリースを経て、宇多田ヒカルは一度活動休止をしている。
HEART STATIONに収録されている「Beautiful World」、「Flavor Of Life」、「Prisoner Of Love」などの有名曲に加え、ヒップホップやハウスを思わせるような「Celebrate」、前述のくまちゃんをモチーフとした「ぼくはくま」などなど、その内容はバラエティに富む。
その後「人間活動」として活動を休止したが、その期間中にリリースした「桜流し」もまた、既存の観念的なものには縛られない楽曲だ。2011年に日本の多くの地域に影響を与えたはずの震災、多くの人々が抱えていたであろう深い悲しみ、喪失感を感じさせるような、パーソナルでありながら普遍的なテーマを歌っている。
活動再開、Fantôme
2016年には活動を再開、Fantômeをリリースする。椎名林檎、小袋成彬、KOHH、と他のアーティストをフィーチャリングした楽曲を含んだこのアルバムは、暗いアルバムだとも言われる。確かにそうかもしれない。宇多田ヒカル個人について言えば、母を亡くしてからの影響もあるのではないか、という見方もある。
しかし、それはただ個人的な感情に終わらない。さらに言えば、普遍性に始終しているというのも違う。
一つ一つの曲の根底に流れる喪失感、深い悲しみは、極めてパーソナルに感じられる。しかし、そのパーソナルな悲しみの感情を追求し、個人的でありながら、同時に誰もが共感し、自分のための曲だと感じるような、真実とでも言えるような地点まで深く到達している。
その新たな宇多田ヒカルの幕開けを飾ったFantômeというアルバムと、その全ての曲に、私は真実を感じた。
さらにその後にリリースされたアルバム、初恋。そして、今年はOne Last KissをEPとしてリリース。宇多田ヒカルの楽曲はますます研ぎ澄まされた鋭さを持ち、それでいながら多くの人々を惹きつけ、包み込むような感覚さえある。そこには、あらゆる二元論、固定的な価値観を経て、そこから脱し、人々を導くかのような、ひとりのアーティストの追及する真実がある。
PINK BLOOD
2021年6月1日、新曲、「PINK BLOOD」が公開された。
「PINK BLOOD」という題名にも、赤い血、と認識されている血液の、白でもない、赤でもない、幅のある表現がなされている
誰にも見せなくてもキレイなものはキレイ
もう知ってるから
誰にも聞かなくてもキレイなものはキレイ
もう言ってるから
もはやここまで来てしまったら、宇多田ヒカルを止めるものはなにもないだろう。
誰かに見せるものだけが「キレイなもの」ではない、と歌う宇多田ヒカルは美しい。この言葉に、どれだけの人が勇気づけられたろう。これから勇気づけられていくだろう。
心の穴を埋める何か失うことを恐れないわ
自分のことを癒せるのは自分だけだと気付いたから
他者が定義するものからは離れたところから、真実を歌い続けている。私も含め、たくさんの人々が宇多田ヒカルを待っているのだ。
王座になんて座ってらんねえ
自分で選んだ椅子じゃなきゃダメ
おわりに
いかがだっただろうか。
宇多田ヒカルの楽曲に何度も勇気づけられ、また自分の中の悲しみを揺さぶられ、その表現に惹きつけられてやまなかった。そんな人は私以外にも、どんなアイデンティティを持っている人にも、多くいるのではないだろうか。
社会の中に未だ見つけられていない人にも響くような楽曲を作り続ける、宇多田ヒカル。その力強さは何物にも代え難い、ひとつの美しさ、真実であると思う。
宇多田ヒカルという唯一無二のアーティストに最大級の敬意を払いたい。
ここまで読んでいただいた方、ありがとうございました。
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