記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
見出し画像

Documentary of 欅坂46の感想

欅坂46にはまっていたかといえば、そうだと断言できない
実際、期間的には1年もはまっていなかったし、liveも東京ドーム最終日しか見たことない。とはいえ、"響"は見に行ったしCDは買ってる、家族にも欅を布教した。そんな元ライトユーザーの感想です。

誰がための映画か

てち推しだったぼくの感想は”てちへの送辞”だ。いや、ファンへの送辞かもしれない。でも構成として、振り返りそして決意表明だったし送辞っぽくないですか⁉ センターだからとはいえ、てちの話題が多かったし、てち推しであればそう思うかなと。これから気になった点について振り返っていく。

ライブっていいよね

映画しょっぱなにガラスを割れのライブ映像が流れて、あーやっぱり欅のライブっていいなーとしみじみ思った。んで、問題の舞台を駆け、落ちる平手さん。大げさに言えば、半分はライブ映像なんじゃないかと思うほどの内容だった。それでもいいと思ってしまう、この満足感は欅の強みなんだと思う。アニメ映画では応援上映なんていうのもざらにある。過去のものでいいからライブの劇場化どうでしょうか?(そのあと円盤化してもいいのでは)

ファン目線

センター平手友梨奈のイメージはファンによって作られたと思っていた。(言い方に語弊があるかもしれないが、ファンが盲目的に崇拝しているように感じていた)いままで、それはファン独自のものであると思っていたが、それがメンバーにまで及んでいるということが、はじめて明らかになったと思う。(週刊誌にて報じられていたけど、映画のインタビューではメンバー本人がはっきりと口にしていた)そういうこともあるかも...とは思っていたが、驚きなのはそのメンバー。べりさ、あかねんにまでそう思われていたとは。全部持論で申し訳ないけれど、メンバーがそう思うのは正常ではない。それはもはやファン目線であり、メンバーのものではない。孤立するのも仕方がない。平手に取って代わろうと思うメンバーが出てこないのはグループとして未来がない。もちろん、ねるや今泉などライバルとしてみてくれたメンバーもいたと思うが...。(憶測であり願望)てちが主演した映画"響"の主人公は才能あふれるカリスマ性のあるキャラクターではあったが、周りに理解者はいたしライバルと呼べるキャラもいた。今回の映画でメンバーにその二つの役割を担う人物がメンバーにいないことが明らかになってしまった。運営はなんでこの映画の公開にGOを出したのだろう...。こんな悲しい事実をファンに見せていいのだろうか?

みんなに刺さったあの言葉

"みんなは今、欅坂をやっててたのしいですか?"この音声が流れたとき、ぼくはつい「うわぁ」と声をもらした。こんな悲しいセリフはないと思う。平手以外のメンバーは何を思っただろう。その圧倒的な表現力を認め、この子を支えられるならバックダンサーでも構わないと思っていたのに、当の本人は楽しくなかったことがわかってしまった悲しい言葉。もちろんファンもショックだ。結局、応援していたあのグループは(言い過ぎかもしれないが)応援の甲斐なく、みんなが楽しく活動をしていたわけではなかった...。こんなの悲劇でしかない。運営はなんでこの映画の公開にGOを出したのだろう...。
余談だが、山口一郎のシュガー&シュガーで"理解してもらえないな-中略-どこかあきらめている自分がいるんだと思います”って言っていたが(ファン/スタッフ/メンバー)が頭につくんじゃないかと思ってしまった。

大人の役割とは

そしてなにより許せないのが、大人がそれを指摘していない状態である。幻の9thシングル表題曲のMV撮影2日目センターが来ていない状態でスタッフ(?)にインタビューする場面があった。映画中で流れた二つの質問に対してスタッフはキレながら(自分はそう感じた)答えた、"知りませんよ‼"実際、ビジネスパートナーとしたら失格な行為であるし、怒られても仕方ないことであると思う。運営は平手に対して甘やかした態度をとったのだろうか。そんな甘えた/信用を無くすような行為を許容したのだろうか。映画ではいさめるような描写は一切なかった、"響"でいう”ふみ”みたいなキャラクターはいなかったのだろうか、TAKAHIRO先生は大人の役割は見守ることだといったが、それは運営の立場にたった言葉ではない、それは親の立場だ。運営はあくまでビジネスパートナーであり、道を外れた行為をいさめる立場であってほしかった。(それはメンバーが寄り添っていることが前提ではあるけれど)少なくとも、映画でインタビューしていたスタッフはゆっかーに平手への苦言を期待していたと思う。幻の9thシングルMV撮影2日目のスタッフの"知りませんよ‼"にはあきらかに平手を責める感情があった。メンバーには平手に同調するだけでなくそんな気持ちを持ってほしかった。そうでなければ、衰退する一方だ。それができなかったのは、ぼくたちファンがいけなかったかもしれない。当時、平手じゃなきゃダメだ。平手のやることは絶対みたいな風潮を作ってしまったかもしれない(ぼくはそうだった)

もちろん、希望はある

平手が当日に欠席を発表した名古屋公演では、代理センターという案はメンバーによって却下された(あの舞台演出のおじさん?の思いもむなしく)(あの場に今泉がいたら...などとありもしない世界線を空想してしまう。)だが、その公演でメンバーたちは己の足りない部分を自覚した。そして、映画冒頭でも描かれたあのハプニングで平手が参加できなくなったliveでみいちゃんが自主的に(?)セゾンでセンターを演じた。そして2019年アリーナツアー、メンバーがそれぞれ代理センターを立派にはたした。(実際に見れていないがそのはずだ)そう、メンバーは成長している。
だったら、そんな重要な役割を担ったメンバーを選抜落ちなんてポジションにするなよ
努力は報われないみたいなバットエンドにするなよ。どういうことだよ運営!! そして、東京ドーム公演2日目。 ダブルアンコールで平手のソロ曲って。(あの場にいた身としてはダブルアンコールで、てちだけが出てきて卒業発表かなとビクビクした)見ていた当時は感動したけど、アンコール:"角を曲がる"でダブルアンコール:"不協和音"が妥当では?ラストがソロ曲だと結局、平手みたいな雰囲気になるじゃないか。

これは矛盾...?

みいちゃんがセゾンの代理センターを務めるとなって葛藤する場面で、TAKAHIRO先生は誰と比べているのか尋ね、彼は過去の自分を超えることを目標にすればいいと言っていた。それに対しては納得する。だが、櫻坂に改名する説明として、ゆっかーは"今後の活動に対して欅坂という名前が障害になるかもしれない"といっていた。それは、過去の自分たちを超えられないと白旗をふっていると同義ではないか。たしかに、メンバーが異なるという点はある。だが、それを自分たちが(2期生が)担うという気概はないのだろうか。自分は櫻坂46に改名すると知ってから、映画を見に行ったこともあって、告知CMとの矛盾を強く感じてしまう。(告知映像では欅坂46を、超えろろ言ってる)全員で輝けるようにが主題なのか? そして、櫻坂46...欅と21画で同じ/隣接する坂というのはエモいけど、グループカラーが"白"ってところが気に入らない。(あくまで個人の感想です)でも、”真っ白なものは汚したくなる”って考えたら、"推してね"ってことなのかな...? あくまで、平手推しだったぼくの願いは改名せず/メンバーが欠けることなく新たな欅坂46を見せてほしかった。

送辞かもしれないけど、卒業式は別にある

なんにせよ、欅坂46は終わる。櫻坂46が欅坂46と同じ路線をたどるのかどうかはわからないが、区切りがつくのだ。この映画はメンバーからの"送辞"だ。だとして、卒業式はどれだ。あの無観客ライブか?それともこの映画自体なのか?いや、そうではないと僕は言いたい。この映画で欅坂46が終わるなんて、"僕は嫌だ!!" パフォーマンスを追求したグループの最後が映画のはずがない。そう"THE LAST LIVE"があるじゃないか!! ぼくは映画をみて最後のliveは見ようと心に決めた。こんな素晴らしい販促映画を製作した運営の手腕には感服させられる。まんまと運営の思惑に、はめられているような気もするがそれは気のせいだ。(10/12のliveのセトリ的に12日が卒業式であったかもしれない...13日は入学式??? 13日参戦はミスだったか...)ということで、まだ間に合う!!  欅に一度でもはまったことのあるオタクは、ぼくといっしょに"THE LAST LIVE"見よう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?