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リビングデッドのジレンマ

取り急ぎ提出すべき書類はほとんど済ませた。食料は5日くらいはもつだろう。親族からの連絡も、きっとしばらくは来ない。

ここ数日はニートなりにそこそこ多忙であちこち走り回っていたが、ようやくまた座椅子と布団を往復しシリアルを食べトイレに行くだけの生活に戻ることが出来そうだ。
これはほぼ完全に私の理想とする生活で、私の健康が今以上に損なわれない限り、ずっとこのままでいたいとすら思っている。
しかし、そうなるとこのnoteに書くことがなくなってしまう。叙述の内容を失い、叙述の場を失い、やがて増えるかもしれない読者を失う。

そのなにが問題なのか? 今の生活で足りているのなら、わざわざ文章をこねくり回してゲームをする時間を減らすことなどないではないか。現に、この習慣(noteでなくはてなブログで活動していた時期も含めて)に苦痛を感じたことは何度もあるし、長い間やめてしまったこともある。ここ十数日程度、飽きるか疲れるか、あるいは絶望するかのどれかの状態になるまで、気まぐれに惰性でキーを打っているに過ぎないのかもしれない。

これは予防線だ。「私の書くものはしょせんくだらない走り書きだ」、「時間を削って書いたところで、結局誰も読みはしないのだ」、「ましてや、このなんでもない文章で金を稼ぐことができるなど、思い上がりも甚だしい」、そういったような抑圧した自己嫌悪から逃れるために、「書かなくたっていいのだ、やめてしまってもいいのだ」と自分に言い聞かせている。

外に出たり文章を書いたりするとき、私は比較的朗らかに振舞っている(自分ではそうしていると思っている)。
しかし、一皮剥けばこれだ。劣等感、徒労、絶望、怠惰。私の行動原理はずっとこれらのネガティブな感情で、人と話すときの笑顔やここに書くユーモア、諧謔といったものは虚勢に過ぎない。
こうして自分を貶めることで、「私はそれに気づいているんですよ、すごいでしょう」とでもいいたげな、高慢なマゾヒズムを慰めているという訳だ。

私がこの不健康な思考から抜け出すことのできる日は来るのだろうか。
なにか奇跡のような転機があって私がまともに働き始め仕事に生きがいを見出すか、あるいはもっと完全にゲームの世界に没入してしまうか。どちらでもいい。どちらでなくてもいい。とにかく苦しみから解き放たれたいと思っている。

だから私は書かなければならないのだ。
死人に口なし、すなわち口を失えば死人となる。叫ばなければ聞き届ける者はおらず、身を晒さなければ骨を拾うものもいない。
「私はここにいる、誰か私を知ってくれ、私を面白いと言ってくれ、私を救ってくれ」と、私はそう主張し続けていなければならない。
例え今は独りでも、継続さえしていれば読むものは現れるだろう。私はそれを経験したことがある。収益を得たことだってあるのだ。
考えること、考えに考えることだけをしてきた私が今日たどり着いた境地は、継続は力なりと念仏のように唱える、陳腐な祈りだった。
滑稽だ。それでも書かなければならない。読まれなければならない。
それをやめた日に私は筆を失い、口を失い、死体となるのだから。

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