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いちばん好きな本はなんですか

この世界で息をしていると、「一番好きな○○は何ですか?」という類の質問に出くわすことがある。
私はニートなのでその機会は少なく、今日も一日起きてゲームして寝て起きてこの記事を書いているだけなので、しばらくはこの手のことは聞かれたことがない。
それでも、こういった種類の好奇心ないし必要性からくる質問には必ず遭遇するし(面接の時とかそうなんじゃないだろうか、知らんけど)、私はそのたびに毎回困ってしまうのである。

趣味は何ですか? 特技はなんですか? 好きな本は? 映画は? 音楽は? 漫画は? 尊敬する人は誰?

これらの質問の回答を用意するのに、私は相当な時間を要する。
趣味ってなんだ? 特技ってハードル高くないか? 私は一体何が一番好きなんだ? そもそも私は誰かに対して畏敬の念を抱いたことがこれまでの人生であっただろうか?
そうやってぐるぐると同じことを考え続けて、最終的になんとかそれらしい答えを捻りだすのだが、後から考えるとやっぱり違ったような気がしてくる。

というわけで、後日そうして「やっぱりなんか違う気がするな」と感じるために、今日は自分の読書遍歴について振り返りながら、「いちばん好きな本はなんですか」という問いの答えを探してみたいと思う。

子供の頃の私は贔屓目に見てもかなりの読書家だったはずだ。
物心のついたころから部屋には大量の絵本や図鑑があって、小学生になるまではずっとそれらを繰り返して読んでいた。
思えば私はかなり図鑑というものが好きだ。今眺めても、その彩りや内容の豊かさに惚れ惚れとしてしまうだろう。というか、大学生の頃にも確か哲学図鑑とかカクテル図鑑とか探検図鑑といった本を買っている。それらの内容(子供の頃に読んでいたものも含めて)はほとんど覚えていないが、やはり色々な知識が網羅的にしかも視覚的に分かりやすく示されているというのは、図鑑という本の明確な良い点だと思う。

と、幼児の頃はそうして図鑑や絵本を好んで読んでいたわけだ。しかし、これらの中に一番好きな本はない。このころの記憶は本当に朧気で、「そうだったはずだ」という記憶しかなく、具体的な本の題など浮かぼうはずもない。

では小中高ではどうだったか。
小学生と中学生の頃はファンタジー小説とライトノベルにかなり傾倒していたと思う。
いわゆる「デルトラクエストで育った子供」であり、クラスメイトが校庭で遊んでいる間ずっと図書館でファンタジーもののコーナーに引きこもっていた。
小学生後半あたりから私はゲームという娯楽を知り始め、読書の機会を相対的に減らすことになったが、それでもかなりの本を読んでいた。ファンタジーで育ちゲームを知った子供の愛好する本の分野として、ライトノベルはかなり妥当なものだろう。
『涼宮ハルヒの憂鬱』や『バカとテストと召喚獣』あたりを読んでいたはずだ。
また、ファンタジー好きなのも相変わらずで、『ドラゴンラージャ』などの長めのシリーズに挑んだのもこの時期が初だろう。上橋菜穂子作品などもほとんど読んでいた。

高校生の頃はあまり本を読まなかった……少なくとも一二年生の頃は。
三年生になってから突然「受験生シーズンなのにめちゃくちゃ本を読み始めて多読賞とか取ったらかっこいいな」という極めて不純かつ打算的でダサい動機で、受験勉強をほとんど放棄してめちゃくちゃ本を読んでいた(逆にこの時期はゲームをする時間がかなり少なくなり、そのおかげか多読賞は無事に取れた)。
この時期は本当に色々と読んだ。先生たちがやたら進めてくる新書の本だったり、やっぱり上橋菜穂子の本を読んだり、かと思えば推理小説やヒューマンドラマのようなものを読んだりもしていた。

そして、ここで私にとってのある種の転機が訪れる。『ソフィーの世界 哲学者からの不思議な手紙』がそれだった。
私が哲学という概念に触れたのは、高校三年生の倫理の教科書で興味を抱いたのが先か、それともこの本を読んだのが先かだ。
以来、私は哲学を取り扱う本を大量に読み始めた。そうして出会ったのがサルトルの『嘔吐』で、これらの本の内容は、現在の私の思考にかなりの影響を与えているだろうと思う。
『嘔吐』は一度読んだときは「よく分からないけどすごい」という程度の感想だったが、何度も読み返してその真髄(と私が考えるもの)に触れて以来、「いちばん好きな本」にかなり近い作品だろうと思えるようになった。これがまず一つ。


この時期に読んだ本には印象深いものが多い。『虐殺機関』『すばらしい新世界』『ハーモニー』『モモ』などなど、いわゆるSFものを多く読んでいるのが思い出された。これらの作品が、今日の私の思考の骨子を形成しているといっても過言ではないだろう。

そして大学生になって、ほとんど本を読まなくなった。それ以前と比べると大学生という身分は圧倒的に自由で、本を読むよりもゲームをしている時間のほうが圧倒的に長かったのだ。
それでも読んだ本の中に、『タイタンの妖女』があり、これもまた私にとって非常に楽しい本だった。なんといっても読後感が良い。これが二つめ。
『嘔吐』も読後感のよい作品で、私はそうした作品が好きなのかもしれない。


結局のところ、私が「いちばん好きな本は何ですか?」と聞かれたら、『嘔吐』か『タイタンの妖女』のどちらかを答えるだろうと再確認された。妥当なところだ。今日の記事を書く以前にも、私はこの質問に遭遇したらこの二冊のどちらかを挙げていたはずで、それくらい印象に残っている本なのだった。

今日記事を書いたことによる一番の収穫は、「私は読んだ本の内容をほとんど忘れている」と確認できたことだ。
記事の中で何冊か題を挙げたが、それらの本の内容すらも、私はほとんど覚えていない(題の挙がらなかった無数の本たちについても当然そうだ)。私は忘れっぽく、一度読んだ本を繰り返し読むことをするのも稀なので、「このことはこの本に書いてあった」「この本から大事なことを学んだ」と言えることがほとんどないのだ。

それでは読書をした意味がない、打算的な多読賞のように、空虚な紙の束をかき集めて悦に入っているだけではないのか。

そんなことはない、と、私は信じたい。
私という主体は確かに感銘を受けた本、すなわち上で題が挙がったような本と、それらの考察と反省によって思考の方向性を定めている。
しかし、それ以前の部分、私の「精神的肉体」とでも呼ぶべき根幹となるようなものは、私が読み、そして忘れてきた本の中にあるのだと思う。
読んでは忘れ読んでは忘れ、そうした繰り返しの中で積もった残骸の集合体こそが私の肉体を成している。

生まれたての赤子から子供、大人に至るまでの全ての人々が日々のコミュニケーションによって徐々にその人格を形作り適応していくように、読書という行為にもそれが起こるのだろう。
個々の内容は覚えていなくとも、それらの蓄積によって形成されるものがある。そうした蓄積があってようやく、「私は○○が一番好きです」と言えるようになるのだ。
私にとっては『嘔吐』と『タイタンの妖女』がそれだった。二つの作品に共通して描かれているのは虚無感と断絶で、それを超えた先に、前者では「物語るということ」が人間にとってどういう意味を持つのかを語り、後者では「自由意志とは、幸福であるとはなにか」について説いている。
どちらも私という人間とは切っても切れない、とても大事な作品だ。私の忘れてきた作品たちが、そう言っている。

それじゃあ、あなたの一番好きな本は何ですか?

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