令和6年に伊藤計劃『ハーモニー』を読む
伊藤計劃『ハーモニー <harmony/>』を読みました。
かねてから読みたいとは思っていて、それでいてここ数ヶ月はあまり小説や本媒体を読む気力が無かったのですが、直近でオススメされたこともあって、リハビリもかねてやっと重い腰を上げました。
以下、感想文。
考察というよりは雑記に近いです。
<harmony/>
なぜ終了タグなのだろうか。
まあ終了タグの見た目の方がhtmlタグみたいに見えやすいのはある。
(作中のタグ表現はETML(Emotion-in-Text Markup Language)という)
あと、「PROJECT ITOH」って最初見たときにどういうことかと思っていたけれど、伊藤「計劃」→「計画」→「Project」ということに後で気付いた。
内容は「あらすじ」を見てもらうとして、
やはり2024年の「今」この物語に初めて触れられる、
ということに価値を感じた。
他のnoteにも散見されるように、どうしても物語内の情勢から、
我々が今暮らす「アフターコロナ」社会を連想したくなる。
『ハーモニー』の世界まで行きつかなくて良かったな、とか、
なにかボタンの掛け違えがあったら『ハーモニー』のような極端な社会は生まれていたのだろうか、とか、
もう既に時計型端末やスマホアプリによる測定をはじめとした健康管理社会の片鱗は始まっているよな、とか。
WatchMeほどではなくとも、我々の社会でもコロナワクチンを大多数の人間が接種して、一部は反発しているという現状は作中世界と似通っているし、
かといってWatchMeほどの規模で体内をコントロールするようなデバイスに至ってしまえば、今の我々の社会では反発する声の方が大きそうだなと想像できる。コロナワクチンであれだけ騒がれているわけなのだから。
『大災禍(ザ・メイルストロム)』によって社会が再生不可能なほどに痛めつけられてしまって初めてWatchMeのような手段が考慮され得るし、あるいは物語の結末に至る重大な決断も考慮され得るものだと思う。
改めて、我々の社会が『ハーモニー』のような世界にならなくてよかった。
……と思うのは、WatchMe自体の機能に関することではなく、健康社会に関してである。
健康を義務付けられ、嗜好品が制限され、悪くあろうとすることが許されない世界があまりにも息苦しく感じるだろうことが容易に想像できるからである。
個人でなく人間社会が一ユニットの「生府」として考えるのであれば、
社会の生存に寄与しない異分子は自動的に排除され得るだろうし、
我々の考える同調圧力社会のもっと酷い版になりそうだなぁと考える。
伊藤計劃は本作品のテーマを「百合」と表現したように、
霧慧トァン、御冷ミァハ、零下堂キアンの「生命主義」から脱却(しようと)した三人、とりわけトァンと、トァンが心酔したミァハとの関係性が重点的に記述されている。
ある意味では、世界の危機に該当するものは何でも良くて、言ってしまえば結末として世界が滅ぶか滅ばないか、というのもどうでもよくて、
世界を壊そうとするミァハと彼女に寄り添えなかったトァンとの拗れた関係性を描写する物語、という受け取り方をした。
ネタバレにならない範囲で言えばこのくらいかなぁ。
どうでもいいんですが、
って性交のメタファーっぽいよなぁと思った。
作中世界では「プライバシー」=猥褻な意味(もはや該当する行為は性交くらいしかなく、それ以外の個人情報や健康情報は全て開示されているのが当たり前の社会なので)であり、成長した身体になってからWatchMeを入れることで大人になることを受け入れ「プライバシー」が真に「プライバシー」になることになる所からの連想。
(以下、本編のネタバレに触れます)
WatchMeによる健康管理社会には否定的だったのですが、
『調和(ハーモニクス)』によって産まれた社会はある種生物としての完成点であり、日々人間の露悪的な部分が強調されやすく、観測しやすくなっている社会に身を置いている我々からすれば、ともすれば理想的な世界なのでは? と感じたりもします。
「意識」が消える、というのが具体的にどうなってしまうのかが想像できないのですが、単純に気絶する、ということではなく、何を選択するか、どう感じ取るか、といった選択の余地がなくなる、合理的で最善の選択しかとらなくなる、というか。
それが個人の最善ではなくて「社会」としての人間に沿う形で選択されていく、と考えれば確かにぞっとしないものがあります。
でも、今の世界もだんだん「そうしたもの」になってきていない?
という意見。
ChatGPTがここまで実用的な形で普及するとは思っていなかったし、
自分で考えることが「AIに考えさせて、もっともらしい選択を受け取る」ようになる世界も近い、というか今まさにそう。
そも、自分で考えていると思い込んでいる選択自体が本やメディアから受け取ったいくつかのもっともらしい意見から選んだものであり、それを右から左へ受け流していて、大多数の民衆がそれと同じ行動をしています。
という状況は傍目から見て「意識」があると見做せるのでしょうか?
そう考えると、少なくとも『調和(ハーモニクス)』後の世界は生きやすくはあるよなぁ、と思います。
そうした選択が肯定される世界。秩序を乱す意見が存在しない世界。
「健康に生きる」ことが至上である生命主義社会が生み出した答えであるのならば。
これに関しては、私自身があまり自分自身の幸福に重きをおいておらず、
周りが平和ならそれでいいや、という意識が強くて、
調和のとれた社会に惹かれるものがあるからなのかな、とも考えています。
最後の結末における設定上の疑問(WatchMeが機能していない国やWatchMeを入れていない子ども達には影響しなくない?)は読んでいて気付いたのですが、
・実際、影響しない派。『調和(ハーモニクス)』後の世界は
意識が喪失した大多数の人類とそれ以前の旧人類が残っている世界である。
・実はWatchMeを入れた段階で子にも遺伝子的な影響が出るからそれ経由でハーモニクスが起動するよ派
どっちも面白いよなと思います。
例えば、作者がその先の物語を考えようとしたときに残しておいた余地なのかもしれない。
『虐殺器官』も読みました。
こちらの方が読後にウッとなった気がする。
『ハーモニー』→『虐殺器官』の順に読むこともなかなかないと思うので、
『虐殺器官』の感想もまとめたいですね。