見出し画像

和訳/ソ・ジョンソプの続インタビュー]歌手パク・チャングン「自分で満足できる、恥ずかしくない、そんな歌を歌う歌手として生きること」和訳


ソ・ジョンソプ入力2023。7.16.08:02修正2023。7.16.16:50

(丁寧インタビューし書かれた記事、少し多くの方に届いて欲しいと思うのと備忘録として載せます)


カナダのアーティスト、ニール・ヤングを一番尊敬

真実性一つでファンと疎通して交感したい」

ときめきがなければ創作者は死んだものと同じだ。

彼の歌は感性を揺さぶる。聞いていると時には戦慄になる。歌に対する哲学もはっきりしている。大衆的な人気だけを追求する気もなさそう。もしかしたらこれだからファンが彼を好きなのかもしれない。去年の2021年のTV朝鮮「明日は国民歌手」で優勝した歌手のパク・チャングンさんの話だ。

去る4日午後4時30分、ソウル瑞草区にあるスタジオで彼に会った。ジーンズに青いシャツを着た彼は、年齢(彼は1972年生まれ)より若く見えた。スタジオで先に写真を撮ってから1時間30分くらい話し合った。席は楽だったし、時間はすぐに流れた。彼は率直に心中を見せた。

テレビ朝鮮のオーディション番組「明日は国民歌手」で優勝した歌手のパク・チャングンがギターを握ってポーズをとった。写真=ホ・ヨンハン記者younghan@


慶尚北道ヨンジュで生まれたと聞いている。合ってる?

当時、母方の祖父がヨンジュで銀行員としてしばらくいたから、実家だったヨンジュで母が私を産んだ。ヨンジュで生まれて、すぐ大邱に来て、幼年時代をそこで過ごした。まとめると生まれたところはヨンジュ、育ったところは大邱、本籍はヨンドクだ。この全てが故郷なわけだ。

じゃあ、母方の実家で育ったという話は何か。

母方の祖母が私を可愛がってくれたみたい。三、四歳の時、母方の祖母と多く過ごした。父は私が小学校1年生の時に事業を始めてから2年も経たないうちに潰れた。難しい状況で、両親は遊園地の食べ物屋さんなどいろんなことをした。その時、弟は両親と、私はずっと母方の実家を行ったり来たりして暮らした。

お父さんよりはお母さんに対する切なさとかが歌にたくさん埋もれているみたい。

男たちは実は父親に対する恨みとかがちょっとあるんじゃないかな。物事がうまくいかない恨みが家の中で表出されたら、母と私たちがそのままそれに耐えなければならなかった。そういうことが父に対しては恨みで、母に対しては切なさで表現された。年をとると父の心情を少しずつ理解するようになったし、父とは闘病の最後の数日間、短いけど濃くお互いを受け入れて仲直りした。今のお母さんもお父さんを生前よりもっと理解して受け入れるようになったみたい。余談かもしれないけど、今考えると二人とも一人で暮らしてたらもっといい人生だったかもしれない。

学生時代はどんな学生だったっけ。学校の歌自慢に常連で出かけたのかな?

家がちょっと難しくなって、小学校2~3年生の時から彷徨が始まったみたい。学校でいろんなこともあったし....母方の祖母と母方の叔父が両親のようによくしてくれたけど、自分で情緒が少しは不安定だったんじゃないかと思う。中学校の時、たまたま遠足の時に一度歌ったことが反響を起こしたりはした。授業中に先生がたまに出てきて歌えと言ったりもした。音楽はこの程度が全部だった。何をしたらいいか分からなくて彷徨ったそんな少年だった。

勉強はうまくいったのか気になる。

やらなきゃいけないという考えは持っていたから、いつも最初の学期にはよくやった。その時だけだった。手によく取れなかったし、気が散った。学校で盲目的に注入される方式の勉強が何の意味があるのか、まあ、こんな葛藤がずっと繰り返された。他のものに愛情をつけることもできなかったし。美術の方にはちょっと興味があった。音楽よりはむしろ美術の方が褒め言葉もたくさん受けていたようだ。しかし、父がそういう方面はやらせないようにした。

じゃあ、大学生の時から歌を始めたのかな?

なぜそうしたのかは分からないけど、大学に入ってすぐにあれこれサークルにたくさん加入した。その中で歌牌活動を一番熱心にしたみたい。メディアを通じて聞いた大衆音楽と違う幅広い内容がちょうどあふれた。面白かった。そうしながら知り合った歌手たち、ギターを弾きながら歌う歌手たちが目に入った。キム・グァンソク、ジョン・テチュン、ボブ、ディラン、ペク・チャンウ、詩人と村長など...何か知らないうちに胸に響きを与えるということを感じながら、今まで考えてみなかったある魅力を感じた。専攻だった独文学は落第しない程度だけ維持して、その他全ての時間を歌に注いだ。

家の中に芸術的な血が流れる方がいたと思う。

お母さん、お父さん、みんな音歯ではないみたい。先祖の中には、実の祖父の兄弟の中に遊戯が好きだった方がいたと聞いた。

歌手のパク・チャングンのインタビューはソウルの瑞草区のスタジオで行われた。写真=ホ・ヨンハン記者younghan@


恋愛や結婚、そんな個人史はほとんど知られていない。

あまり知られたくない部分だ。競演当時、明日は国民歌手の製作陣が「産伝水戦全部経験したはず、あなたの過ぎた私的な領域に対することは大衆は関心がない。音楽の活動的な部分だけ見せよう」と言ってくれて同感した。今私がやっている活動について中心に疎通したい。

いつになるか分からないけど、今も経験していて、これから経験できる人生の話をファンと分かち合う時間を多分持つようになると思う。今まではコンテストで1位をしているので、あれこれ表面的な部分に多少集中しているんじゃないかと思う。この時期が過ぎたら、ただ創作して歌う人としてファンと会える日が来るだろう。でも、うちのファンはすでにそういう気持ちを会場でたくさん読める。思ったより早いようだ。

大学生の時は歌牌活動しながら公演もしたのかな?

大学2年生の時から10万ウォン、始めてお金をもらって嶺南圏に招待公演しに通った。軍隊に行く前日までそうして通った。

前日まで?軍服務はどこでやったの?

常勤予備駅という制度があった。1年現役で服務して故郷に降りて残りの勤務をする制度だ。現役は現役だけど、勤務形態が現役でもなく防衛でもない、ちょっと変な制度だった。住所が達城郡だったので、そこの予備軍部隊で勤務した。現役の時は、付帯行事の時に歌で休暇ももらったし、将校たちの呼びかけを受けるのが常だった。少し遅く入った軍隊だったので、個人的な困難もあったし、感情的に軍隊という体制についての会議など悩みも多かったけど、その中でも歌い続けた。

最初のアルバムを出したのが1999年だ。

1991年に大学に入ってから作った歌が溜まっていた。その中で選んで1集のアルバムを出したら、大邱じゃなくてむしろソウルの京畿・仁川の方から注文が入ってきた。その当時は大学の近くの書店でもレコードを売ってたから、直接レコードを包んでソウルに公共交通機関に乗って行って販売先を掘ったりもした。徐々に招待公演が入り始めて、そうやってソウル大邱を行き来する活動が始まった。

2集を出した時も大衆的な反応はなかったけど、マニア層ができ始めた。韓国大衆音楽賞というところで上半期の推薦アルバム賞ももらった。そんな中、活動領域が少しずつ広がり始め、寺院山寺音楽会をはじめとする各宗教団体、環境団体などの招待公演も入ってきた。大道芸、環境文化祭、ラジオ放送活動などが続いた。

公演で大衆と気兼ねなくコミュニケーションをとるのは、パク・チャングンの長所の一つだ。提供=n.CHエンターテイメント



宗教が仏教ではないと知ってるけど。

気づかせてくれる全ての教えが好きで愛してる。カトリックの洗礼を受けたけど、牧師とも親しいし、僧侶とも親しい。その他の宗教も尊重する。起伏的な宗教としてではなく、哲学的に感動するのが好きだった。聖堂でも歌ったし、プロテスタント教会でも、お寺でも歌った。もっと特別には個人的にすごく尊敬する法倫僧、法文の時に直接要請して歌も歌ったことがある。そうやって縁になって今まで繋がってきている。

公演しながら生活する時大変じゃなかったっけ?

大学の時に初めてもらった10万ウォンから始めて、着実に公演しながら値段が上がった。活動を長くしてみたら、あるところは行ってみると、むしろ助けてあげたい気がするところもあったよ。仁川、京畿道、ソウル大学路...私のお金を使いながら路上公演もたくさんした。大邱では長い間ボランティア公演も続いてた。そして毎年コンサートをした。大邱だけじゃなくて全国を回って自分で作ってやる公演だった。創作者として、歌手、音楽人として自生力を重要視した。そんな雑草のような活動の中で、様々な文化団体人たちから認められるようになり、招待公演が続いてきた。身近な人たちの物心両面支援も頑固な一人のアーティストにとって大きな力になった。

歌も歌だけど、歌に対する哲学とかに共感したからファンができたんじゃないかと思う。

そうだ。ある時は環境歌手で、またある時は生命歌手、民衆歌手と呼ばれた。その中で民衆歌手という概念は私の考えと人々の考えがちょっと違った。すごく狭隘に意味を規定してたよ。私が思う民衆はもっと包括的だ。もしかしたらもっと広い意味の大衆になるかもしれない。とにかくお互い違う意味付与で歪曲されるような表現は得たくなかった。

私は環境歌手でも、生命歌手でも、民衆歌手でもない、ただ「歌う人」でありたかった。私たちはジョン・レノンやニール・ヤング、ボブ・ディランのようなシンガーソングライターを探して聞くだけで、生み出せない大衆的な雰囲気だと思った。創作者に表現できない内容はない。画家に表現してはいけない絵はない。芸術家はだから芸術家だ。誰が規定しておいた枠に閉じ込められないこと、自分の枠に閉じ込めないこと、これと戦って行く義務と権利があるのが創作者だと思う。もちろん、自分で合うスタイルの服でこそ、もっと見栄えがいいのは当然じゃないかな。

大邱を中心に活動してソウルに上がってきたきっかけが気になる。

キム・グァンソクの歌で始めたアコースティックミュージカルがもっと直接的なきっかけになった。当時の小劇場公演では一番ホットだった。有名じゃない主人公なのにそれなりに知られた。だからKBS、MBCのような大きな放送局からインタビューを要請されたりもした。前は広報してくれって言っても門前払いに遭ってたのに。

それが何年度ぐらいかな?

2011年の冬に大邱のキム・グァンソク通りの小さな小劇場でとても小さく始めた。その後、2015年1月まで公演を続けた。



2021年に国民歌手で優勝して以来、人生に多くの変化が起きたと思う。

最初は歌自慢みたいに競演さえすれば終わりかと思った。ところが分かったら全てが絡んでいた。その時はコンテストが終わったら放送局で何かの任務とかが与えられた。コンテストよりもっと忙しく続く状況の中でストレスが大きかった。一日一日、夢中でただ連れて行かれたみたい。少しずつ目を開けて分かるようになると、おかしいと思われるものと喧嘩する部分もあったし....変化は確かに大きかったけど、生活面での変化はほとんどなかった。

環境は少し変わったかもしれないけど、私はその時も今も似ている。ありがたいのは、とにかく私が1位になってから会うファンが拡張されて、もっと多くの方が私を見てくれるという点だ。どんなストレスも会場でファンに会ってコミュニケーションすれば、その時間だけは忘れられる。

ソウル瑞草区のスタジオでギターを弾くパク・チャングン。写真=ホ・ヨンハン記者younghan@



財政的にちょっと余裕になったんじゃない?

通帳にお金はちょっとできた。(ハハ)

振り返ってみると、何かちょっとやりがいもあると思うけど。

guni(自分)はまあ....環境が変わっても凄く変わる人じゃないみたい。元々これじゃなくても、私は歌って死ぬというような人だったと思う。ただ必要な何かを買ったり注文したりする時、心が少し寛大になったみたいで、時々びっくりする。自分で変だと言いながら、私がこんなにのんびりしすぎてもいいのか、少し心配もする。そうしながら施すのもちょうど大きくなる。お母さんに一番たくさん解いたみたい。

長男としての役割をちゃんとやったのか?

お母さんは(お金が)あっても使えない、昔のことを考えて使えない、そういう方だ。家を拡張工事してあげたけど、今も行ってみると30〜40年前のものをそのまま使ってる。ある時はちょっとイライラする。ちょっと笑える話だけど、しかもお母さんがこんな話も言ってたよ。私は静かに生きてる。私の行動があなたにちょっとした害でも及ぼすのではないかと思って。私も同じだ。優勝する前の僕も今の僕も変わってないみたい。天性が解かれる行動が苦手。幼い頃からそれがうまくいった。

それなりの哲学や主観を持っているからじゃないかな?

同感だ。放送仕事はもっとあるようだけど、今は私が拒む状況だ。ファンはすごく残念で嫌がる。「あの人はなんであんなんだろう、できること全部やるよ」って言うこともある。私は体が疲れているという言い訳をするんだけど、実はそれが私が望む、欲しかったものとはちょっと違う気がして。これから人気が落ちて探してくれるところがなくなっても大丈夫。それが私の価値とは関係ないことだからだ。もちろん、キャラクターとよく合うあるコンセプトが与えられたら、それを拒むわけにはいかないと思う。

善良な影響力を発揮したいという話もしたけど。

そういう方で使われたらいいなと思う。ファンは例えば私が唱えてきたことに対する内容的な面、環境やこういう部分について考えているようだ。

何が「善い影響力」だと思うのか?

例えば、会場で私と会ったり、歌を聴くとイライラする事も変によく笑うとか、そういう余裕が生まれるのだ。私は好きな歌手の音楽を聴いたり、好きな人の話を聴くと心が広がる。うざい、私もただこれは大したことないのに、というふうに心の余白が生じる。

「誰かの歌がこんなに心に響いたのは初めてだ」「家族の誰かがこの世を去り、荒唐無稽な心情で寂に暮らして、パク・チャングンの歌を聴いて新しい人生が始まった」「家族と喧嘩してもパク・チャングンの歌を聴いてから仲直りして、今はコンサート会場に通う」「子供が思春期なのにコミュニケーションが取れなかったがこの方たちは私から何かを持って行ったのだ。いい何かを...、

パク・チャングンは大規模な公演もいいけど、率直に交感する小規模公演も考えている。提供=n.CHエンターテイメント


ポグニー(パク・チャングンファンクラブ)がボランティア活動をたくさんしてたよ。

美しい姿だ。誇らしいし。こんな影響力なら私がもっと広げてあげたいと思う。伴侶ビーチって聞いたことある?ポグさんたちが海辺のボランティア活動をしている。その他の地域ごとに近所のボランティア活動が絶え間なく続く。あるいは、初めて会ったお互いが友達になり、絆を分かち合い、食べ物を分かち合う。そうやって歌を通して縁になっていく姿はとてもきれいだ。

音楽以外に他の趣味とかがあったら何?

少し怠け者であること以外は....そうしても、すぐにまたこうやって何をしなきゃいけないし、そんなこと以外にはない。コンテストの前にコンテストを支えてくれた力はランニングだった。コロナの時に仕事が全滅した時にやったことが3つある。まず、他の人が「知るべきだ」というのに、私はあまり関心がなかった経済について「なにこんなに大騒ぎだ」して勉強した。株の本をたくさん読んだし、とても少ないお金で実習もしてみた。2つ目は気になったけど、やったことないギター奏法演奏だ。ギターを抱いて寝て目が覚めたらまた練習するくらいやってみた。最後は体を動かすことだった。数時間歩くことで始めてからランニングに移った。毎日ランニングをしながらコンテストに出るべきかどうか悩んだ記憶がある。ランニングがいろいろ力になった。こういう過程がコンテストと噛み合ったのがある時は本当に不思議だった。

ファンは私に「もうちょっと楽しんで幸せに暮らしてください」と言う。これからは分からないだろうけど、それも味わった人が味わうんじゃない?私はまだ何か不便だ。ただ、こういう考えはする。「家がもう少し大きくなってほしい」とは。私は家で長く生活する。いつも家でギターを弾いて一人で録音して、あれこれ雑多に遊ぶ。欲張りなのがちょうどそれ一つだ。

歌は上手いけど、自分のヒット曲がないと言う人もいる。

ある面ではすごく大事な話だ。感動が来て、すごく歌いたいし、ファンや観客に聞かせた時に恥ずかしくない、本当にいい歌が私に来るなら、それはとてもありがたいことだ。私が作ってヒットしてもいいことだ。しかし義務感で、ただ歌手が職業だから商売になる歌を歌うわけではないみたい。ヒットができなくても、それは私が耐えなければならない部分だ。とにかく私は「自分で満足できる、恥ずかしくない、そんな歌を歌う歌手」で、自ら一生自然発生的自己検閲をしながら歌いそうだ。

戦略的に緻密に、存在感を持って行くためには1人だけでは難しいと思う。それは会社の分みたい。そんなに行かないなら、とんと行くべきだと思う。今は私がそうしている。コンサートをしても、私が1人でワンマンショーをするしかないと感じた。だからエンターテインメント会社は本当にお金だけ稼ごうと誰でもやってはいけないと思った。

本当にちゃんとやれば面白そう。人に対する全てを抜き出して、生かすべきことはもっと生かして価値を高め、余計なものは削って、より良いアーティストに成長させるようなプロジェクト....それがダメなら、私は真正性一つでファンと会って話しながら、お互いに疎通して共感する道を行く。

「今も心の状態はアウトサイダー」と言う歌手パク・チャングン。写真=ホ・ヨンハン記者younghan@



歌に対する哲学(?)は何なのか気になる。

放送で、多くの方に会いながら、あの人は本当にあの歌を自らインスピレーションが来て、好きすぎて歌うのかという問いを投げかける時がある。私が大学の時から持っていたのは、私自身が感動する歌を歌ってこそ、聞く方々が受け入れるということだ。ただの歌手だから歌を歌うというのは私と合わない。体から反応がそのまま来る。ダメなことを無理やりやったら乗っちゃう。

こう言うとファンが嫌がるだろうけど、私は今も心の状態がアウトサイダーだと思う。無理やりするつもりはない。私が思う価値がアウトサイダーとしてやるしかないとしても、それを耐える。ある程度感情的な妥協もちょっとして、こういうのが私にはダメだと思う。でも、私が知らなかった部分を受け入れるのは好きだ。開放的でも自分の中心を捨てる、そういうのは俺は望まない。

自分の歌をキーワードで説明したら?

お決まりでつまらないけど、真正性だ。私が表現する歌は全部私でなければならない。ただ歌を伝えるだけの、職業としてただ歌う人ではない。私はちょっと違う気がする。真心を込めてやる、それがむしろ魅力があるみたい。

個人的な夢が何なのか気になる。

単純な夢は体がちょっとよく耐えて、ライブでファンとよく会うことだ。また、私がもっと感情的に自由になって、もっと余裕が持てたらいいな。だから、もっといい影響力を発揮して、他の人からストレスを少なく受ける、内面が深い人になってほしい。

ビッグヒット曲を出すとかそういうのとはちょっと違う。

誰かは出すだろう。(ハハ)

彼が尊敬する歌手はカナダのアーティストニール・ヤングだ。提供=n.CHエンターテイメント


歌手の中で誰のようになりたいか

本当に好きだった、韓国の舞台でのロールモデルは歌手のキム・グァンソクだ。でも彼の人生はとても残念だ。キム・グァンソクに似てるって言ったら多分ファンが大騒ぎするだろう。一番尊敬するアーティストはカナダのアーティストのニール・ヤングだ。年を取ったことに対して自分で貶めたり、がっかりしたりせず、ありのままの姿をそのまま見せ続ける、どんな場所でも歌ってハーモニカを吹いて話して、これがただの私のロールモデルだ。

そうしたい先輩が多いけど、韓国はそんなに活動するのは簡単じゃないみたい。私はファンに話す。起きなきゃいけない夢があるなら、早く起きて会おうって。だから本当にいい夢を見ていこう。

他の歌手と違うという感じを大衆にずっとあげられるかが大事だと思う。

そうだ。ある人が幸せになって曲が書けなかったって言ってたけど、私は幼い頃からそれを感じた。気楽に何が与えられても、ただ散らかれない性格だ。そういうことに価値を置かないから、すごいものが与えられても、もう少し楽でいいというほどだ。それが全部だ。

ときめきがなければ、創作者は死んだのと同じだ。私からときめきが消えたらどうなるんだろうといつも思う。ときめきをずっと持って行きたい風がある。100%満足できたらときめきが消える。だから私は知らないけど、自分を少し不便にさせながら生きることになりそうだ。部屋が広くても一人で隅にこんなに曲げて寝るような。ちょっと笑える話だけど、そんな私をたまに発見したりする。



ソ・ジョンソプ トレンド&ウィークエンド マネージングエディタ kumkang21@asiae.co.kr

<c経済を見る目、世界を見るウィンドウアジア経済>


原文↓

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?