なぜ医療を経済学で語ろうとするとモヤっとするのか?

大学院でミクロ経済学を学び始めたのだけど(学部の一般教養では経済学の授業がなかったので学ぶのは初めて)、医療提供者が官僚や財界人の医療制度に関する発言にしばしばイラっとする理由は、財・サービスが希少である(Scarceである)という経済原理をなかなか受け入れることができないからではないだろうか、と最近思う。

希少性(Scarcity)、つまり世の中の財・サービスは有限であることは人間社会の原理であって、経済学という学問があろうがなかろうが、世の中がそうなっているから仕方がない。医療サービスの総供給量も限られているわけである。だから最適な配分とはどうあるべきが考えざるを得ない。

しかし医療サービスの配分を考えることは、医療提供者からすると医の倫理に反しているのではないかという気持ちにさせられる。助ける・助かるべき患者とそうでない患者を分けることではないのか?それは差別ではないのか?目の前の患者を救うためには医療資源の投入をためらうべきではない、と考える医療者のほうが圧倒的多数だろう。もちろん医療者は実際には医療サービスを適切に配分しようとしているのだが、それは『医学的妥当性に基づいて』であることがほとんどだろう。社会経済的要因により必要な医療が受けられないという状況は、望ましくないと考えられている。

こうした考え方の前提(Assumption)は、恐らく、歴史的に医療における配分の問題のほとんどは『不公正さ』だったからだと思うのだ。つまり世の中には人々のニーズを満たすだけの医療サービスの総供給はある。しかしその配分が時の権力者や資本家に偏っていて、社会的弱者や労働者への配分が少ない。しかし貧しく・差別され・社会的に虐げられているような人々の方が不健康になりやすく、医療ニーズが大きい。医療サービスの需給ミスマッチがおきており、これは不公正である。そして社会的弱者を診療する機会が多い医療者は、公正な配分を目指して声を挙げるべきである。WMAの医の倫理マニュアルにも「これらの資源が患者の要求にとって不十分ならば、医師にはさらに資源の拡大を求めて主張し続ける責任がある」と書かれている。

ただこの前提条件は、医療技術が進歩し、高齢化が進んだ高所得国の国では崩れかかっている。ミクロ経済学では技術の進歩により供給能力が上がることが多いとされているが、革新的な医療技術のほとんどはより多くのinputを必要とする。Inputあたりの供給は下がってしまう。しかし生活水準(医療水準?)が上がれば、医療に対する需要は増加する。ここにきて我々は医療の希少性に直面せざるを得ない。

さらに配分の問題もより複雑になっている。今までは富者vs貧者というわかりやすい対立構造が多かったように思うが、先進国では高齢者vsその他といった世代間対立や、保健医療vs他分野(教育や産業振興など)との対立も加わっている。日本の医療財政についても、保健医療支出の内訳について議論するのと、国家の歳出の何割を保健医療に支出するべきかという議論は別である。

ちなみにグローバルヘルスの業界でも「安全で衛生的な水へのアクセスは人権である」(※ 水ではなくてお産などの例でもよい)という発言はよく聞く。おっしゃる通りなのだが、その人権を保障するためのコストは0ではない。誰が、どれだけそのコストを負担するのか、そもそも負担できるのか現実的に検討しなければいけない。

何にどれだけ配分するべきか、その判断が難しくなっていると感じる。答えは簡単には見つからないが、まずは現場の医療者も考えてみるところから始めてみてはどうだろう。そうした点でオプジーボの薬価について現場の医療者が警鐘を鳴らしたのは正しかったと思う。それは現場の医療者の役割ではないという意見もあるだろうが、我々が考えることを放棄すれば、それは別の誰かに判断を委ねるということだ。それは厚労省かもしれないし、経済財政諮問会議のような政財界の有力者かもしれない。彼らに任せてもよいというのなら、そのようにすればよいが。

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