case1 フジモリメグミ <アラウンドスケイプ>
フジモリメグミのアラウンドスケープは彼女の視座を感じさせる。事物は並置されているという捉え方だ。女性だからかもしれない。男性は物事を相対的に二元論的に見る傾向があるのかもしれない。(あるいは、展示に添えられた言葉に導かれてかもしれないが…)
"日常の貴重さ"という彼女の言葉には日常と非日常の別がない様に思える。フォークロアでいうところのケの日とハレの日。ハレの日は膨大なケの日の時間に現れる特異点のようで、ハレの日の為にケの日を生きる。ハレの日によって連続するケの日は途切れ断続的にされる。ハレの日はケの日に対して優位にある。男はこんな風にケとハレを相対的に捉えがちかもしれない。しかし、アラウンドスケイプはそう語っているように見えない。
彼女の写真に衝撃を受けた日の事をよく覚えている。正直それまでは彼女の写真の価値を理解していなかった。ある一枚の写真を見た時、連綿と続いてきた日常の連続が脳裏を駆け抜けた。一枚の写真からある日のことを想起したのではなく、あらゆる日を想起したのだ。
並置という視座によってケとハレを眺めると、ケとハレに優位性も無ければ、相対的でも無く、断続でもない。ハレはケの内に、いやケとハレは等価にそこにある。貴重なケの日ではなく、ハレとケで日常となる。3.11、彼女にとってはケもハレも等しく奪われた日だったのだろう。
日常の一場面を切り取った写真は、点の様なものだろう。その点から膨大な時間を想起することは、一見不思議なことだ。しかし、ケとハレの並置によって、断続から連続へと変換した写真が見せるのは、点の集合ではなく、切り目の無い線なのだ。だから線となった日常を目の当たりにして、自身に刻まれた膨大な日常を想起することは、不思議のない事と言えないだろうか。ともかく、自分にこれを抱かせるのは、写真に現れた視座によるものなのだろう。私に衝撃を与えた写真とは、TAPで行われてた展示の中の一枚だった。展示にはギリシャ神話の神の名前が付けられていた。ギリシャ神話の神々は、現象を神格化したものが多く、当の現象は日常の中で起こる。日々の中で発見した現象に対して神が生まれていたとすると、日々の中の特異点を発見するという意味で、彼女の行為はそのような行為に相当するのではないだろうか。
では、どうやって特異点を連続に置き換えて撮っているのだろう。途方もない時間を想起させている並置という視座をどうやって獲得しているのだろう。
フジモリメグミは何をしているのか?
新しく住む街で何かしらを契機にシャッターを押して歩いている。見て回ることで、その町を知り、またその町に対する記憶を蓄積しようとしているのだろうか。それとも、写真を撮るために街を歩いているのだろうか。
この2つを混ぜ合わせた行為ではないだろう。カメラを介して見て周り、写真にすることで日常を物質的にストックしていく。一見するとそんな行為だろう。
では、それらの写真は何を契機に撮られたのだろうか。
自身が規定した日常が目の前に現れた時を契機にシャッターの瞬間はやってきているはずだ。普通何かを規定しようとする時、目の前にある物に対して判断するために自分が所有している概念を用いる。だから、今作の行為を言語的に推察すると、フジモリメグミの日常に対する規定や、概念や、そのされ方を見るということになる。しかし、おそらくこういうことではない。何故なら写真を撮る行為に没頭する時、言語的、概念的に撮るものが決定されていく訳ではないからだ。撮影する場所やコンセプトの設定を決定する時には、確かに言語的に概念的になされていく。しかし、現場ではそれが違ったことでシャッターの動機はやってくる。現場では撮影はその様に進んで行かない。現場ではシャッターの契機はこんな風にやって来ない。これは、写真を撮るという意識がシャッターを押すことの身体としての行動と一致してくることで起こっているのだと思う。身体的な行動とは、ただ概念による判断によって導かれて起こることではなく、概念を含みながらそれを超えて行われることである。だから、身体的なシャッターはただ概念した結果、行われるのではない。そして、身体性とは経験によって培われていくものだから、身体的なシャッターは写真を生み出す経験を重ねることで備わっていく。
その身体性によって受信するシャッターの契機はこんな風にやって来たのではないだろうか。言葉にしてみると、日常が現れている表相を認めたその時、指がシャッターを押すということになるだろう。その受信の状態とは次の様なことを複合的に同時に受信した時に起こるのではないだろうか。
それが"この距離の中に"、"写真という表面上に現れるであろうこの関係性の中に"、"この場所でこそ撮る意味の中に"、"事物の配置の中に"、"関係性を生む色の配置の中に"、"それらの組み合わせの中に"、"光と影の中に"。
隅々まで言葉に出来ないが、撮り手としての自分にも同じ瞬間があり、写真を見る時、表された表面だけでなく、撮り手のシャッターの有り様を見る気がする。
何かを眼前から感じ取った時、撮影の時いつもやってくる。これだという、強く希薄なあの感覚を他者の写真の中に見ている時がある。カメラが自分の一部になっているような、自分がカメラの一部になったような。ギリギリでカメラを御している様な、そんな時、景色の中にある現実を抽象化したかのような部分を発見するのではなく、カメラの中で、抽象化された後の光景を感じとっている。写真になる前の写真を見ているという、奇妙な時間軸の中で、それは起こる。そこに立っている今、写真になった過去になる今、今を過去にした写真を手にする未来を同時に見る。
これらがつまり、写真を作るうちに備わった写真を撮る身体性だろう。カメラを手に持って事物に向かう時、カメラの見えざる手に身体の内から撮ることを掴んで引っ張りあげられる。そうして普段の自分は裏返り、撮る人になる。その撮る人を写真の中に見ている時がある。
アラウンドスケイプのシャッターの契機は、景色の中に彼女を惹きつける美点を捉えることで始まる。次に意識は背景に及ぶ。そして、発見した美点をクローズアップしていくのではなく、背景の中に溶かし込むようにして、美点とその他の部分を並置する。このようにして美しい部分とそうでない部分との優位性を崩す。この2つの部分は連関しているということを現してくる。美しさは平凡さによって美しさを与えられ、平凡さは美しさによって平凡さを与えられる。すなわち、ケとハレの連関である。
一枚の内にこの連関を見ることによって、日々の連続性を想起させられるのではないだろうか。この連続性の中では、特定のある日の日常を想起できない。想起されるのは膨大な日常の記憶である。アラウンドスケープ、そこに写っているのは、その写真を見る者の膨大な時間である。
写真に写されているもう一つのこと
更にここに、上記した撮影者が撮影時に立っている奇妙な時間軸のことを導入すると、アラウンドスケイプに写されたもう一つのことが見えてくる。この奇妙な時間軸の発生は、記録的意志と表現的意志への同時の指向性によって生まれていると考えられる。これらの背後にあるのは、"自己と他者"ということではないだろうか。記録にしろ表現にしろ、それを向けているのはこの"自己と他者"の両者へであり、それがこの写真特有の時空を生んでいるのだろう。そもそも写真(少なくとも撮り手としての写真は)は"自己と他者"を取り外すことが不可能か、もしくは困難なのだろう。それ故撮られた写真は撮り手の手から離れていくのではないだろうか。
アラウンドスケイプは彼女の街の固有の景色でありながら、それと解る情報は無い。無いというより、我々には発見できない。けれどもそれは、どこにもない唯一のものであることは確かだ。この唯一であるはずのものを見ている時、我々は自分の風景の中で過ごした日常を思い出している。これはとても奇妙なことだろう。事実として存在しているはずの固有さを発見出来ないばかりか、自分の風景を推し当て、日常であることに同意しているのだから。
固有さを発見出来ないのは、記録的意志への指向性の低さからきているのではないだろうか。意識の振り分けとして、記録的意志が低くなると自ずと表現的意志は高まる。そうして考えると、アラウンドスケイプは日常を他者へ向けて表現されたという意味合いが強くなる。或いは、それが念頭に置かれた作品であるのかもしれない。
とすると、フジモリメグミは自身の固有の風景が、他者が所有する風景へ変換されることを狙い制作しているということになる。言い換えると、写真を介して起こる撮影者と鑑賞者のその様な関係性を念頭に置かれた作品とする事が出来るだろう。つまり、フジモリメグミのアラウンドスケイプに写されているもう一つとは、写真における撮影者と鑑賞者の関係性である。
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