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夢で逢えても

あれは確か四月だったと思う。
私はおろしたばかりのネイビーのジャケットを着て、東京ディズニーランドに行っていた。

他の喫煙者の例に漏れず、私はいつだって限界だ。ディズニーリゾート内の喫煙所が何処にあるのかもきちんと覚えている。
眠たくなるような陽気の午後、私が入ったのはウエスタンランドに位置する喫煙所だった。
前にどのアトラクションに乗ったのかはさっぱり覚えていなかったし、これからの宛てもなかった。
ただ、私の味方でいてくれるピースライトを吸いたかった。

喫煙所の壁際に陣取って寄りかかり、白く小さな革のリュックから出した煙草を咥え、当時使っていたサロメのガスライターで火を点ける。
煙を長く吸って口に貯め、僅かに漏らし、肺の奥底まで入れ、鋭く吐いた。

彼がそこに入ってきたのはその時だった。

前の夫だった。
昔と何ひとつ変わらない。私があげたディーゼルのパーカーをまだ着ていた。
心臓が跳ね上がり、しかし理屈無く納得する。
きっと“これ”はそういうふうになっているのだ。

彼の方も私に気付いて、驚いたように見えた。元々大きく、眦の垂れた目が大きくなり、しかし撓まずにそのまま伏せる。
正しく他人だった。もう私たちは他人なのだ。しかし彼は何をトチ狂ったか、私の隣に来る。
コロナ禍真っ最中。ソーシャルディスタンスを無視した距離。
彼はパーカーのポケットから、オプションの五ミリを出して、咥え、百円ライターをカチカチやり始めた。なかなか点かずに苦労している。

関わることもないかなと思い、しかし“これ”はきっとそういうことなので、私は予備の百円ライターを黙った彼に突き出した。何色だったかは覚えていない。

「ん」
「ありがと」

彼は不自然なくらい当たり前に受け取り、ちゃんの火を付け、甘く冷たい煙を吐いた。

私の煙草の長くなりすぎた灰が床に落ちて、私は慌てて灰皿に意味もなく灰を落とす。
喫煙所の中は不自然に人が少ない。

「ひとり?」

沈黙に耐えかねたのか、彼が聞いてきた。ここで話しかけてくるのかよ、と私は少し愉快に思って、「うん」と角の無い声を出す。

「ひとりって楽しいよ。もう怖くない」

彼は自分で話を振ってきたくせにそれには答えず、私たちは黙って煙草を吸い続けた。煙草は何メートルもあるわけでもないのに、延々と吸い終わらない。そういうものなのだろう。

彼はそれに納得したように頷いて、ぼんやり煙草を吸っていた。私も黙っている。
私は彼といた時、煙草を吸ってはいなかった。不自然な状況だ。運命の袂を分かった私たちは、それを象徴するようなものを手にして、今こうして二人でいる。

「…………、」
「…………」
「……子供が生まれたんだ」

彼は独り言みたいに言った。

「……そう」

私も独り言みたいに返す。

彼と離婚して一年と三ヶ月。いつお相手が妊娠したのかわからなかったし、いつお相手と付き合い始めたのかもわからなかった。
私は結婚当時から彼に別の女性がいたであろうことを想像していたし、いつから交際していてもおかしくない。

いつから私を裏切っていたの?、聞きたかったけれど聞けなかった。今更蒸し返せなかった。
それで裏切りを噛み締めるのは当たり前に苦痛だったし、勿論彼が私を裏切らずに離婚後に交際を始めたこともあり得る。不必要に彼を糾弾する意味も無い。
彼は目鼻が強い。子供の顔が気になった。奥さんの顔が気になった。
彼にもきっと、多少なりとも私を愛していた時期があるはずだ。私が彼を愛していたように。
彼が次に愛した人が気になったし、だけど聞けなかった。彼女の姿形も、為人も、聞けなかった。

彼に聞きたいことよりも、話したいことがたくさんあった。

実家のバスルームで、あなたの死体を解体した。血と臓物に塗れ、あなたの左手の薬指を切り取って、ポケットに入れて大事に上から押さえた。

パキラの鉢しかない、窓も何も無い白い部屋で、あなたと話し合った。二人とも、あのときを考えれば信じられないくらい、穏やかに声を荒げずにゆっくりと話した。あなたの何が悪くて、私の何が悪かったか。あなたはどうなりたくて、私はどうなりたかったか。

それらは間違いなく、私が夜に眠っている時に見た夢だった。

そして今これも、絶対に夢であること。しかも、私がよく見る明晰夢であること。

本当は私がディズニーランドに行くのは明日であり、やはり一人で行くこと。眠りにつく前、あなたに出会したらどうしようかと悩んだこと。

聞きたいことはあった。話したいことはあった。
でも、話す必要のあることは何ひとつ無かった。
私たちは他人であり、もうあの夢の中で話し合いを済ませた。これ以上の話し合いは必要ない。

彼はそれ以上何も話さなかった。
私も何も言わなかった。

不自然に長く感じられた煙草は、もう短くなっている。根元まで吸った私は灰皿の中に煙草を落として、喫煙所を出ようとした。

途端に、肩をトントンと叩かれた。彼がライターを差し出している。

私は僅かに笑った。

「持ってて良いよ。無いと困るでしょ。私は他にライターあるから」

それだけ言い残して、私は喫煙所を出た。背中には視線すら感じなかった。



目が覚めて、少しだけ泣いて、私は身支度を整えて満員電車に乗って舞浜に向かう。
ひとりで耳を付けて楽しんで、美味しいものを食べて、アトラクションに乗って。
ウエスタンランドに行くのは怖かったけれど、何処か期待もあったかもしれない。

でも、私は知り合いには誰にも会わなかった。
彼は来ていたかもしれないけれど、会うことはなかった。

私たちは既に正しく他人だった。もう、きっと会うことも無いだろう。


私と前の夫の暮らしぶり
DV離婚エッセイ


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