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蛮勇と平和

「蛮勇」について固執しこだわっていた時期があって、それは自分の中に存在する火や争いの記憶と繋がっている気がしている。

「おまえはわたしより劣っている」という眼差しを、何度も受けたことがある。だからいまでもそういう視線や気配を過敏に感じることがあるし(おそらく被害妄想を含めて)、少し前まではひどく傷つくことも怒り狂うこともあった。

自分の大切なものを守るための戦いを、決して否定したくないと誰かが言うのだ。
わたしの心が埋まっている場所から。あるいは、わたしの耳元で。
おまえも戦え、と。剣を持ち、敵の首を落としてしまえと。

ただ、平和に生活できているいま、別のやり方があるはずだ、と感じている。戦って血を流すのではなく。木の実や花の種をまくようなやり方。鉢植えに水を注ぐような。平和ボケといわれても、そういう状態にあるからこそ見えるものもあるはずなのだ。

視界が、戦場の熱気と土埃と、血と膿、絶望と奮い立たせる心、怒りに染まっているときには見えないものを、見ることができる。

「蛮勇」は美しい、その戦いこそ尊ばれるべきものだ、と誰かが言う。
わたしの中で。わたしの外で。

でも。いまは。
抱きしめるのではなく、そっと、指先に触れるように。
隣に座って、何も言わずに、そのひとの言葉や嗚咽に耳を澄ませるように。
そういう勇気が欲しいと思う。

いつか戦火に巻き込まれればまた違う想いを抱くだろう。わかっている。でもいまはこれでいいと思う。

「蛮勇」の火を、自分を誰かを大切な人をあたためるための火にしたい。
きっとできる、と思う。