夜叉ヶ滝
その小さな山にはなかなか立派な滝があって、しかも滝の裏側へと入り込むことができた。大量の水の壁と、濡れた岩肌に挟まれたそこには、隠されるようにして千手観音のような石仏が彫られてあった。菊のような花が絶えず手向けられ、水しぶきに濡れてはいたが汚れはなかった。ただ、その石仏の貌は、烏にも狼にも似た獣の貌だった。
そうか、石仏はこの村の隠された神なのだ、と村を離れ大人になってから私は気が付いた。海と山に挟まれるようにしてある小さな村が、ひそやかに信仰する古い神。幼い私は人間の貌ではないその石仏を見ても何も疑問に思わず、滝の裏側に来られた、ということばかりに気を取られ、はしゃいでいたと思う。ただ、幼い私の手を引いて、あの滝の裏側への道を教えてくれたのは誰だったろうか。大きくしなやかな白い手の、背の高い大人で――あとは思い出せない。たぶん思い出さなくていいのだろう。
目を瞑ると浮かぶ滝の裏の赤い菊
(211109)