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不思議な喫茶店

陽太が重い扉を押して入ると、シャラシャラと不思議な音が鳴った。どこから鳴っているのだろう、といつも思う。ここは陽太の秘密基地だった。木製の壁に、赤いソファーに、ステンドグラスの窓、レースのカーテン。カウンターには不思議な形の道具が置かれていて、マスターはそれを「天球儀」だと教えてくれた。お父さんに連れられて初めてこの喫茶店に来た日だった。ここは陽太のお父さんの秘密基地でもある。優しく大きな手に引かれてここに初めて来たとき、学校に通えなくなった陽太は、学校の代わりにここに来ることを決めたのだ。


「喫茶店」も陽太には不思議な場所だったが(たまに行くファミレスとは全然違う)、マスターも不思議な人だった。年齢も性別もよくわからないし、さようならと喫茶店を出るとすぐに顔を思い出せなくなる。思い出せるのは、地毛なのか染めているのかわからない銀色の髪と、背の高い花や草みたいに背筋がすうっと立っているところだけだ。

喫茶店の中で会うと、ああそうだ、こういう人だった、とわかるのだけれど。


陽太がいつもの席に座ってカバンから勉強道具を出していると、マスターは軽い足取りで(ほとんど音を立てずに)陽太のテーブルに来てくれた。少し皺のある目尻を緩ませて、ご注文は、と低く通る声で言う。土日以外はほとんど毎日通ってくる陽太にも、マスターは毎回律儀に注文を取りに来る。

「オレンジジュースをひとつ、ください」

マスターはなんだかいつも少し笑っているのような、朗らかな雰囲気で頷くと、カウンターの中に戻っていった。カウンターの中はマスターの定位置だ。

(続)