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【短編小説】水晶の池

ある少年の死

  少年が急斜面の袂へ倒れていた。山中に似つかわしくない軽装であった。僕もまた軽装ではあったが、それは僕がこの付近の村に住んでいるからである。村民は全員が互いに顔を見知っている程に少なく、倒れている少年に見覚えのないのは決して忘れているからではない。
  近寄ってみると、頭から流血しているのが見えた。さらに近寄ると、目を見開いたまま倒れているのに気付いた。年の頃は10代前半くらいに思えた。生気のない、ガラス玉のような双眸と目線が合った。とうに死んでいた。
  僕はそこで、少年のさらに奇異な点を発見した。彼は何も荷物を持っていなかった。斜面を滑落する途中に落としたのだろうか。そう思い辺りを少し見回したが、何もなかった。もし本当に何も荷物を持っていなかったのだとしたら、彼は何故こんな所で行き倒れたのだ。
  僕はまた、少年の右手が握り拳を作っているのが気になった。致命傷はおそらく、頭を強く打ったことによるものだろう。それ程の衝撃を受けて尚、彼は右手を解かなかったのである。僕は恐る恐る彼の小さな手を開かせた。
  死人の手の感触に冷や汗をかきながら、僕はそれを拾い上げた。透明で、硬質で、中へ白く澱の散りばめられた水晶の欠片、それも、人の手の指先を象ったように見えた。第2関節から先を切り取った、というより折ったような断面をしていた。僕は水晶の指を暫く眺めていた。不思議な魅力があった。見れば見る程、その精緻さへ驚きと感心を覚えた。やがて僕はこの指の持つ魅力の正体を掴んだ。活力、生命力、ただの写実性とは性質を異にする生々しさを帯びている。それが妙に目を惹き、気味悪さや恐怖や不安を湛えながらも、畢竟美しいとある種の心酔すら生じるのである。不謹慎かもしれないが、そこで倒れている少年よりも寧ろ生き生きとして見えた。
  そうやって少年の方へ目線を滑らせて、僕はようやく我に返った。僕はまず、彼を村へ運ぶべきである。もしかしたら誰かの知り合いであったりするかもしれないし、そうでなくとも、村へ知らせぬことにはどうしようもない。僕は彼の滑落してきたであろう斜面を見上げた。そういえばあちらの方角には──
「禁足地があったな」

少年の謎

  少年の遺体を担いで帰り、事の次第を伝えると、村はたちまち騒ぎになった。やはりというべきか、村民の中に彼を知っている者はいなかった。僕と同様に、遺体を見た者は皆、彼の服装へ驚きを示し、また訝しんだ。村の警官は駐在所に1人だったため、ふもとの方から大勢の応援が寄越された。それから暫くの間、毎日警官がぞろぞろとやって来て、村や僕が遺体を発見した周囲を捜査していた。
  しかし、ある時を境に、警官たちはぱったりと、蛇口を閉めたように来なくなった。少年は何者だったのか、何処から来たのか、何故あのような場所で行き倒れていたのか、何1つ知らされないままであった。
  僕の胸中では、日に日に焦燥が募っていた。何故こんなにも逸るのか。何故こんなにも焦れるのか。遺体を発見したのが僕だから。無論それもあるが、それだけで理由と言うには足りない。僕を強く駆り立てるのは、少年の持っていた水晶の指であった。遺体の所持していた物であるから、当然警察へ渡さねばならないことくらい分かっている。だが、とうとう渡せぬまま捜査が打ち切られてしまった。そこへの罪悪感や後ろめたさはやがて、人の不幸へ無粋に踏み入り探ろうとする好奇心とない交ぜになり、邪な使命感へと変容していった。僕が彼の死に至った経緯を詳らかにせねばならない。そんな気概が確と芽生えていた。

禁足地

  何かあるとすれば禁足地であろう。僕はそう確信していた。遺体のあった辺りを発見した当時よりも詳細に調べてみたが、やはり彼の荷物らしき物は見つけられなかった。軽装の身一つで登山に臨んだとは考えづらい。つまり彼はこの近辺で暮らしていたのである。ここの村民でない少年が、村民に見つからず生活を送れる場所は禁足地をおいて他にない。あそこへ入ると祟りがあるだの、化物に食い殺されるだの、天変地異の災厄に見舞われるだのと老人たちは口を揃えて言うが、要は慣習的に誰も入っていないだけの場所である。路地裏や学校の旧校舎へなんとなく不気味で近寄りがたい雰囲気を感じるのとそう変わらない。
「立ち入り禁止」
  立て札の文字は掠れてほぼ消えかかっていた。申し訳程度の鎖はだらんと垂れ下がって地面を這っており、その上へツタが絡み付いていた。その先へかつてはある程度整備された道の続いていたことは窺い知れるものの、今となっては他の険阻な山肌と相違ない。僕は無意識にポケットの中で水晶の指を握っていた。そうして高鳴る動悸に衝かれ、草木の中へ分け入った。
  暫くの間、手足へ擦り傷や切り傷を作りながら進むと、唐突に開けた場所が現れた。
  池があった。
  5分もあれば徒歩で外周をなぞり切れる程度の小さな池であった。透明に澄み渡る水の、しなやかに陽光を滑らせる様に見惚れた。ところが、暫し眺める内に、ただ水面の燦めいているわけではなさそうに思えた。水中でも何かが光っているように見えるのである。僕はほとりまで歩み寄った。
  覗き込むと、透明の細かな欠片が夥しく沈んでいた。内壁の浅い位置へそれが1つ刺さっていたので、手を伸ばしてつまみ上げた。水晶であった。
  無数の水晶が沈んでいる、否、誰かがここへ捨てたのである。誰かが、誰が……そう思いながら僕は振り返った。僕の見遣った先にはみすぼらしい木造の小屋がひっそりと建っていた。キィ、と風でドアが軋み、小さく開閉を繰り返している。
  小屋の鍵の掛かっていないことへの違和感はない。村にも鍵を掛ける習慣がないのであるから、この禁足地で暮らしている者なら尚更そんな意識はないであろう。寧ろ鍵を掛けない方が自然なくらいである。
  こんな場所で少年が独り暮らしなど考えられない。となれば当然家族や同居人のいるはずである。警察はここへ立ち入り、少年の死を彼、彼女、あるいは彼らへ伝えたのであろうか。村の老人たちは皆、自らが禁足地へ踏み入ることも、また誰かが踏み入ることも一様に嫌がっていた。村の人間でない者であればその気持ちも一入ではないか。ここのことを話さなかった可能性は大いにある。ならば、少年の死を知らぬまま、未だに身を案じているのではないか。不躾な好奇心と正当化のための義務感でここを訪れた僕は少し安堵した。僕がここへ来る意味はあったのだ。伝えてやらねばならない。少年の死を、彼の家族へ。
  僕は風に揺られているドアを1度律儀に閉めた。そして、2、3度ノックした。
「すいません、どなたかいらっしゃいますか」
  しかしながら、返事は一向に返ってこない。それどころか、人のいる気配すら感じられない。全くの沈黙が響いていた。数度ノックと呼び掛けを繰り返した後、僕は意を決してドアノブを握った。イィ、と濁った音を立てながらドアはたどたどしく開いた。
「うわあああああ!!」
  まず目に飛び込んできた光景に僕は思わず声をあげた。
  水晶でできた人間がこちらを向いていた。生きてはいない。像のようである。ただ、その姿態、表情の恐ろしく写実的リアルであるために、余分に慄然としてしまった。息を荒げながら数歩後ずさると、手がドアへ触れた。1度外へ出て落ち着こうとしたのだ。そうして、気付いた。
  ドアの室内側にはノブがなかった。施錠されていないので押せば容易に開く。だがもし、外から鍵を掛けられていたら。
  恐怖、不安、気味悪さ、そういった様々の感覚は僕を硬直させ、自ずと水晶像を凝視する格好になった。
  年齢も、体格も、おそらく僕と同等である。口は半開きで、何かを言う途中のような形になっている。軽く右手を前に出しているが、これもまた、動作──例えば頭を掻くために手を上へ持っていく、といったような──を中途半端に切り取ったようだ。誰かが、少年が、これを作ったのだろうか。池の水晶は、この像を作る過程で出たゴミなのだろうか。
  待てよ。
  僕は大きく深呼吸をした。強張っていた体もようやく動くようになった。僕はポケットをまさぐり、少年の持っていた指を取り出した。
  まず、目につきやすい右手。五指は揃っている。それにしても精緻である。指の皺まで作り込まれている。次いで、左手。こちらもまた、動作の途中、といった感じである。ポケットへ半ば突っ込まれており……
「小指が、ない」
  少年の持っていた指をその断面へあてがうと、ぴたりと断面が噛み合った。間違いない。少年はここから来たのだ。流石に高揚していた。が、何か奇妙な感覚があった。少年がここから来た、それは確かであろう。そうではない。少年ではなく、この像そのものに由って来る感覚なのだ。
  精巧、狂的なまでに緻密な作り込みである。シャツの皺やヨレに至るまで……
「……そうだ」
  僕は、像の半袖を覗き込んだ。やはりである。脇が見えている。いくら繊細で精密に手指を動かせたとしても、ここまで出来るのであろうか。シャツを掴んで揺すると、カタカタとシャツだけが揺れた。つまり、この像は、文字通りシャツを着ているのである。続いて僕は半開きの口を観察した。歯が1本1本あり、舌も確認できる。指を差し入れてみると、しっかりと根元まで入った。大口を開けているならまだしも、半開きの状態でそこまで再現するのは不可能である。なら、この水晶の像は──
──本物の人間なのではないか。
  僕は小屋の中を捜索し始めた。手掛かりを、僕のこの半ば戯言のような説を裏付ける何かを見つけたかった。とはいえ、他に部屋のあるでもなく、机もなく、あるのは薄い布団と毛布、床へ転がる腐ったパンくらいであった。僕は布団の前へしゃがみ、申し訳程度に毛布をめくった。
「何だこれ」
  果たしてそれは手帳とスケッチブックであった。 

  以上が、この後掲載する「水晶の池」を執筆するに至った経緯である。僕は禁足地の小屋にて発見した手帳及びスケッチブックを読み、その内容を小説という形で纏めようと思い至った。何故小説なのか、その理由は単純である。それらを読んでも全てが明らかにはならなかったのだ。僕は事の真相を垣間見たに過ぎない。勿論、それらの内容をそのまま載せることも考えた。だが、それでは終われないと感じた。勝手で恐縮であるが、少年の死の謎を解き明かす、なまじそういう大義で動いていたため、区切りをつけねばどうにも据わりが悪い。そこで、僕の言葉で、僕の物語とすることで以て晴れて一件落着としたいのである。
  改めて断っておく。以降の文章は真実ではない。

水晶の池

  死に場所などどこでもよかった。ただ見つかりたくなかった。
  首吊り、入水、飛び降り、エトセトラ……そういうことは私にはできない。理由は明白、怖いのだ。私は死ぬのが怖い。ならば何故死のうとしているのか、曖昧なのはむしろそちらであった。
  強いて言うなら、魔が差したのである。針がフッとそちらへ振れたのである。これからどう生きようか、よりも先に死んでしまおう、という意志の固まったに過ぎない。決めたからにはそちらへ進もう、進むより他はないだろう、そういった決断の惰性で、私は山中を彷徨っていた。死に場所を探していたら、いつの間にかここへ足が向いていた。餓死にしろ動物に襲われて死ぬにしろ、それらはその他の死に方と比べて自分の力ではどうしようもない、言い換えるならば踏ん切りの必要ない方法であった。更に、見つかりたくない、という要望にも適っていた。私は、死に切れなかった時のことを憂慮していた。先に挙げた、踏ん切りの必要な方法を試みて失敗した場合、そしてそれを誰かに発見されて一命を取り留めた場合、私には家族にも友人にも合わせる顔がない。だからこの山へ足を踏み入れたのだろう。その実ふらふらと流れ着いただけの私は、そう理由を後付けた。
「立ち入り禁止」
  その奥へ道の続いていないであろう場所に、ぽつねんと看板があった。文字は掠れて読みづらくなっている。かつては何かがあったのだろうか。
  看板がある、それはこの辺りにそれを読む人たちのいるということを意味する。村や集落があるのか、登山目的で訪れられているのかは知らないが、人に見つかる可能性は大いにある。ならば、と私は看板の奥へ進んだ。
  看板などなくとも誰もここを通らないだろう。奥へ広がるのは鬱蒼としたただの山であった。ああ、うってつけじゃないか。私は黙々と足を繰った。
  暫く歩くと、開けた場所が現れた。遭難した挙句の行き倒れを期待していた私は少々拍子抜けした。半日程飲まず食わずで歩き回っていた体は相当疲れていた。私は池の縁へ腰を下ろした。
「だれ?」
  水中へ沈んでいた透明の欠片を手に掬ってチャリチャリと弄くっていると、背後からそんな声がした。私はびくり、と肩を跳ねさせ振り返った。
  少年が立っていた。体格や雰囲気から10代前半くらいだと察せる。肩辺りまで伸びた黒の直毛と、前髪からサラサラと見え隠れする透き通った眼が印象的であった。
「係の人?」
  澄んだ声をしていた。私は無意識に手のひらの透明な欠片を見た。
「……」
  少年は真っ直ぐこちらを見据えていた。暫しその視線を受けた後、私はそういえば誰何されていたのだと思い出した。
「あ」
  口を開くや否や、少年は慌てて私に飛びかかり、両手で口を押さえた。
「ダメだよ」
  ちょっと待ってて、と言い少年は背後のボロ小屋へ入っていった。少しすると、小屋のドアが開いた。ドアの軋む音がよく響いた。ところが、ドアからまず見えたのは少年ではなかった。白く半透明な人間である。その人間が、地面と平行にスライドしながら少しずつ全貌を露わにしていく。やがて開いたドアの陰から少年が見えた。人間の像を彼が押しながら出て来たのであった。少年はそのまま像を押して私の隣までやって来た。
「しゃべっちゃダメだからね」
  はい、これ使って、と少年は小脇に挟んでいたスケッチブックとポケットから取り出したペンを私へ手渡した。
  私は少年の押して来た像を見た。私よりも年上、おそらく40代程であろう。それが一目で分かるくらいの精巧さであった。スーツや革靴も細部まで凝っており、皺や傷や汚れまでもが再現されていた。私は少年に渡されたスケッチブックを開いた。
『君が作ったの?』
  そう書いて少年へ見せた。少年は困ったような表情で、
「うーん、作った、とはちょっとちがう、かも……」
  と歯切れ悪く答えた。
「ぼくとしゃべるとみんなこうなっちゃうんだ」
  そうして少年の語り始めた内容は俄かには信じがたいものであった。
  少年と会話をした人間は水晶になってしまうという。といっても、いくつか条件があるらしい。まず、声を介した会話でないとそれは発動しない。私へ筆談を求めたのはそれが理由である。そしてもう1つの条件は、「発言の内容が嘘でない」ことだそうだ。大仰に言うならば、純粋な心を持つ人間程、水晶になりやすいということである。
   妄言だ、と一蹴してしまいたいところであったが、少年の運んできた像がそれをさせなかった。人間を象った水晶、というよりはやはり生の最中さなか水晶に固められたと言われた方がよっぽど腑に落ちる生々しい説得力があった。
   一旦この超常現象を嚥下すると、差し当たって生じるのは幾分かの疑問である。私はスケッチブックへペンを走らせた。
『この人は誰?』
   水晶像を指差しながら、私はその文面を見せた。少年は首を傾げて私の字を覗き込んだ。私は「誰」にルビを振った。少年は小さくああ、と声を漏らした。
「わかんないよ。多分、えらい人なんじゃない?」
  思わず声に出しそうになったのをすんでのところで堪えて、私はまたスケッチブックへ書いた。
『どういうこと?』
   少年はまた首を捻ったが、今回は考える間であった。
「ここには人が来るんだ。ぼくに水晶にされるために。おじさんに言われてつれて来られるんだよ」
『おじさんって?』
「名前は知らない。でも、ぼくがここに来る前にいたところを作った人、って聞いたから、おじさんもえらいんじゃない?」
『君の家族は?』
「……この人と同じになっちゃったんじゃないかな」
   水晶像を見上げる少年の表情は、その年に不相応な諦観を湛えていた。とうに隠居した老爺の、過去を思い遣り、感傷を噛むような哀愁を滲ませていた。彼はもう既に、両親を殺した事実を遠くへ眺めているのである。その心中は察するに余りあった。
   私がそうやって、自らのここへ来た理由など忘れて少年を憐れんでいると、当の彼はあ、そうだ、と小屋の中へ戻っていった。十数秒の後小屋から出てきた少年の手には、小さなハンマーが握られていた。
「危ないよ」
   少年は私を手振りで退けた。私が立ち上がって離れると、間髪入れず少年は水晶像の顔面へハンマーを振り下ろした。小屋を出てからかつて人であったそれを粉砕するまでの一連に淀みはなかった。即ち、その行為は彼にとって行住坐臥に含まれた平生であることを意味する。
   ガッ、ガッ、と鈍い音の鳴る度に、水晶像はその輪郭をなくして無機質な欠片を散らす。私はそれをただ見ていた。少年の表情は全く凪いでいた。私たちが呼吸の一つ一つに逐一意気を込めぬように、彼の一振り一振りに万感の気配などあろう筈もなかった。
   やがて少年の前へ堆く水晶の欠片が積もると、彼は足でそれらを池へ掻き落とした。以上の流れで以て、水晶の池は完成していた。
「そろそろ暗くなるし、中で話そうよ」
   少年は私を促した。
   小屋の中は非常に簡素であった。布団と、椅子と、箱だけがあった。箱の中には食料が入っていた。
『だれが買ってくるの?』
「おじさんからたのまれたべつのおじさんが持って来るよ」
   ていうかさ、と言いながら少年は床へ座った。
「お兄さんのことも知りたいな。おじさんたちじゃない人がここに来るなんて初めてなんだ」
   私は無言で頷いた。
「お兄さんは、どうしてこんなところに来たの?」
   私は逡巡した。死のうとして、しかし自ら死ぬこともできずフラフラと迷い込んだ、とありのままを伝えて良いのであろうか。こんな無垢な少年に、そう思った私の脳裏に先程の水晶像を叩き壊す彼の表情が過った。彼は否応なしに人を殺めてしまう性質を持っている。そして、自らの殺めた人を自らで処理できてしまう。そんな彼が、今更人の死に執着もあるまい。
『死のうと思って』
   少年は眼を大きく見開いた。若さに起因する澄んだ青白さが、ドアの隙間から射し込む斜陽に煌めいた。
「ぼくに水晶にされに来たの?」
   慌てて手を動かす私を少年は不思議そうに眺めていた。
『ごめん、分かりづらいこと言って。そうじゃなくて、たまたまここに着いたんだ』
   ふうん、と少年は言った。
「なんで死のうとしたの?」
   ……
『なんでだろうね』
   吊り上がった少年の口の端から、フッ、と息がこぼれた。
「生きていたくないの?」
『分からない』
「じゃあ死にたい?」
『そんなこともない』
「死にたくない?」
『分からないけど、死ぬのはこわいと思ってる』
「じゃあぼくと同じだ」
   ぼくもね、と少年は言葉を継いだ。
「死ぬのはこわい。ぼくはほら、人とまともにしゃべれもしない。しゃべったら相手が死んじゃうからね。そんなぼくが生きていちゃいけないって、頭では分かってるんだ。でもね、死ねないんだよ。ここまで生きてきちゃったから」
   無垢な諦念の馴染んだ痛々しい笑顔が、私の胸にぎゅっと染みた。己の愚にもつかぬ人生を顧みたのである。私と彼の「死ぬのが怖い」には雲泥の差がある。生きていちゃいけない、私はこれまでの生涯においてそんな想念を得た試しはない。ただフラついていただけである。生きていようが死んでしまおうが変わらぬだけである。対してこの少年は、自らは死ぬべきだと思いながらも、それでも生への執着を捨てられないという葛藤に喘いでの「今」であろう。同じであるわけがない。
『ここから逃げよう』
   私は初めて、心底から立ち上る義勇を感じた。この少年へ積極的に生を望ませてやりたいと強く衝かれた。
「だめだよ。ぼくはみんなと同じように暮らせない」
『ここにいたって何も変わらない』
「それでいいんだ。何かを変えたいなんてぼくは思ってない。おじさんにとってぼくがいらなくなったら、おじさんはきっとぼくを殺す。それがぼくの最後なんだ」
『そんなことだれが決めた?』
「知らないよ。でも、決まってる。ぼくに生きていてほしい人なんて、おじさんくらいだと思う。でも、そのおじさんだって、ぼくに生きていてほしいんじゃなくて、ぼくが死んだらぼくの力がなくなっちゃうのがイヤなんだろうね」
『利用されてるだけじゃないか』
「知ってる。こんなだれも来ない場所につれて来たのはお兄さんみたいな人とぼくが知り合わないためだってことも、学校に行かせないのはぼくにかしこくなってほしくないからだってことも。かしこくなったら逃げようって思っちゃうかもしれないから」
『そこまで分かっていて、なんで何もしない?』
「今のままでいいからだよ。もし逃げたのがバレてつかまったら殺されるし、殺されなくたって、ろうやみたいな場所にとじこめられたりすると思う。なら今のままで十分だよ」
『ここにいたらずっと人を殺さなくちゃならない』
   少年は硬直した。
『殺すのがイヤなんだろ?』
「……イヤだよ。ぼくはお母さんもお父さんも殺した。2人のことは写真でしか見たことない。ぼくがこれまでに殺してきた人も、だれかのお母さんやお父さんだったんなら、その人の子どもを、お母さんやお父さんのいない子にしてるってことでしょ?ぼくはそれがイヤだ。だから考えないようにしてるんだ。水晶になった後にこわす時も、もうこれは人じゃないって思いこんで、できるだけ顔を見ないように、すぐこわすようにしてる。でも、夜ねる時とか、考えちゃうこともある。お兄さんは見たことないよね、水晶になっていくとちゅうの人。みんな苦しそうなんだ。体の中のほうから水晶に変わっていくから。布団に入って目をつむるとね、うかぶんだ。顔が。目をつむっても見えるものって、見ないようにすることはできないんだね。1度思い出しちゃうと、ねるまで消えない。そういう時はね、」
───すごくつらいよ。
   少年の目尻から涙がこぼれた。涙は少年の頬を滑らかに伝い、重力に委せて滴り、やがてシャツへ染み込んだ。流れ落ちたのはその1粒のみで、目に溜まった涙がそれに続くことはなかった。
「お兄さん、どうすればぼくはここから逃げられる?」
『ここへ来る時、立ち入り禁止の立てふだを見た。たぶんこのあたりには村か何かがあるんだと思う。まずはそこへ行こう』
「ぼくの言うこと、信じてくれるかな?」
   私は少し考えた。自分と話した人間が水晶になるなどという珍妙奇天烈な話を、はいそうですかと即刻受け入れる方がむしろおかしい。小屋の様子から見ても少年以外の出入りの寡少は明白であること、池に沈んだ大量の水晶片をどこから何のために運んできたのか説明のつかぬこと、勿論それらも根拠ではあるが、私が彼の言い分を信じたのは、何より実際に水晶に変えられた人間を見たからである。実際に変えた瞬間を見てはいないものの、あんな精巧な像をこの少年が道具なしに作れよう筈もない。私と同様に考える者がいるかは分からないが、少なくとも水晶像を見せぬことには説得力に乏しい。
   要は、水晶像があればいいのである。
『殺してくれ』
   私の手は自ずと動いていた。少年は明らかに狼狽えた。
「どういうこと?」
『君の言うことを信じてもらうためだよ』
「だからってお兄さんが死ぬことはないじゃないか」
『もともと死にに来たんだから別にいいさ。それに、明日になったら気が変わってるかもしれないだろ。君が逃げたいと思った、今じゃなきゃいけない』
「でも……」
『もう死ぬのは怖くなくなった』
   私の方だって、明日になれば死ぬのが怖くなっているかもしれないし、はたまたこの少年のことをたかだか他人だと見なしてしまうかもしれない。この少年のためなら死ねると、偽善だか蛮勇だか分からぬ全能感にどういうわけか満たされている今でないと、少年の逃げられる目はない。少なくとも私の関与できる形では。
『これを最後の殺人にすると、約束してくれ』
   私は左の小指を立てて少年へ差し出した。
「本当に、いいんだね?」
   私は莞爾として頷いた。
   少年はまだ決心のつかぬ様子で自らの手を見ていた。私はその手を掴み、彼の小指を自分の小指と絡ませた。陶器のように白く、細い指には初め力を感じられなかったが、やがてきゅっと私の指を握った。それを確認し、私は立ち上がった。
「ぼく、がんばってみるよ」

「うん、頑張れ」

補足

   以上が僕の考える事の顛末である。以降は僕がどのように思考を巡らせたのかという補足のようなものである。どこまでが実際に手帳やスケッチブックへ実際に書かれていたもので、どこからが僕の創作なのか、それを明確にするつもりはない。
   スケッチブックに関しては、言うまでもなく青年──僕が禁足地にて邂逅した水晶像──が、少年と会話を交わすために使ったものである。おそらく、「おじさん」の用意したものであろう。
   そして手帳の方であるが、これは青年の私物であると思われる。内容は青年の日記であった。少年と出会った日以前の彼のことはここから想像するより他なかった。日付は飛び飛びで、1回1回の長いわけでもない。ただそれでも、彼の生きる気力の希薄であったことは知れた。生きていようが死んでいようが変わらない、そういう旨の記述が随所に見られた。何故彼がそれを持ち歩いていたのかは知る由もない。死ぬ前に読み返そうとでも思っていたのだろうか。
   少年は、青年の『明日になったら気が変わってるかもしれない』という言葉を真に受けて、日の落ちているにもかかわらず禁足地から逃げ出したのだろう。夜の山道は危ない。足元もロクに見えぬままガムシャラに走り、斜面から滑落した、そう考えるのが最も妥当である。
   最後に、少年が禁足地で暮らしていた理由であるが、調べてみた所、とある政治家がうちの村出身であることが分かった。そして彼が孤児院を運営していることも。彼にとって都合の悪い人間──例えば記者とか対立している政治家とか──があそこへ連れてこられ人知れず水晶にされていたのかもしれない。
   村の老人たちが禁足地を避けていたのも、もしかしたら具体的な内容は知らないまでも何か感じる所があっての、触らぬ神に祟りなし、の精神だったのかもしれない。
   僕に残ったのはやるせなさと水晶の指だけであった。

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