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【短編小説】カラス

 

1.


 スマホに表示された日付で今日がゴミの日であることに気付いた私は、急いで体を起こした。
 まだハッキリとしないままの頭を覚ますために、カーテンを開けた。朝日が目に沁みる。
「アァ」
 その鳴き声を聞き、私は身震いした。窓から下を覗くと、ゴミ捨て場にカラスが群がっている。私は即座にカーテンを閉めた。そして、今日ゴミを捨てることを諦めた。
 私はカラスが怖いのである。
 今のように、ゴミ捨て場にたむろするカラスには迂闊に近付かないでおこう、という程度の警戒心であれば多くの人が持ち合わせているだろうが、私の恐怖はその比ではない。見るだけで身体が震え、動悸は激しくなり、底冷えするような悪寒が走る。恐怖症フォビアと言って差し支えない。
 契機となった出来事は、どうやらあるらしい。祖父母の住む田舎を訪ねた際、私はカラスに襲われたのだそうだ。私が10歳にも満たない頃であるから、もう20年近く経つことになる。私はそれ以降祖父母の家に行くのを拒むようになり、祖父の亡くなる15年前までは、祖父母の方が私の家に来ることになっていたのである。当の私はその時のことを全く覚えていない。カラスへの恐怖心だけが私の中に蟠っているのである。
 思い出せないということは、恐らく脳が意図的にその記憶に蓋をしているのだろう。つまり、思い出すだけで精神に多大な負担がかかる程の襲われ方をしたことになる。ならば傷跡などが残っていやしないかと自身の身体を見回してみたが、それらしいものは1つもない。祖父が亡くなった直後、程なくして祖母も亡くなっており、両親も「カラスに襲われた」以上のことは教えてくれないので、最早知る由はない。
 そのくせ、カラスへの恐怖はしっかりと今も残っているのだ。陰気に光を反射するぬらついた羽毛。こちらからは確認できないのに、見られていることだけは感じる目。柳の葉を重ねたような翼。そして最も私が嫌うのは、あの「アァ」という嗄れた声である。
 ようやく落ち着いて時間を見ると、いつも家を出る時間はとうに過ぎていた。私は急いで支度し、部屋を飛び出した。

2.

「そういや、彰兼寺の住職さん、亡くなったそうよ。何とかいう病気で」
 突然電話口の母が知らぬ寺の名を出すので、私は驚いた。
「ショウケンジ?」
 私が聞き返すと、母はまあ、と大声を上げた。
「忘れちゃったの?おばあちゃんの近くにあったお寺よ」
「え?」
 頭が痛んだ。芯からじわ、と外側に向かって広がるような痛みだった。その広がりに伴い、彰兼寺、という響きがどうにも耳に馴染んできた。
「ほら、あんたおばあちゃん家に行った時はいつも遊んでもらってたじゃない。夜遅くまでずっといて……」
 胸が陰湿に高鳴った。彰兼寺、その言葉を今の今まで忘れていた自分が空恐ろしくなったのだ。
「それに、あんたがカラスに襲われたのも、彰兼寺から帰ってくる途中だったのよ、ホントに忘れちゃったの?」
 私は言葉を失った。どの母音でもない曖昧な音が口から漏れた。私は深呼吸したが、
「カラス……」
 ようやく出たのはそれだけだった。
「そうよ、カラス。あの時はびっくりしたわ。あんたが物凄い勢いで家に入ってきたと思ったら、カラス、カラスって泣くんですもの」
「……待って、母さんはその場にいなかったの?」
「いなかったわよ。ていうか、誰も知らないのよ、あんたがどういう目に遭ったのか」
「なら、なんで襲われたって……」
「そりゃ誰だって思うでしょ。帰ってくるなりカラスカラス言いながら泣いてたら」
「……じゃあ、襲われたところは見てないんだね?」
「……そうだけど」
 何よ、あんたのことでしょ、と母は怪訝そうに言った。その時であった。
 バサバサッ
 突然脳裏に羽音が響いた。次いで情景が浮かぶ。
 赤い夕暮れの空、影絵のような木々、こちらを見下ろす巨大な……カラス。
「ああっ!!」
 私は思わず叫んだ。
「何、どうしたの?」
 母は困惑していた。しかし、私に相手をする余裕はなかった。
「ごめん、切るわ」
「え、ちょ―」
 母の返答する前に私は通話を切った。
 スマホを机上に放り、私はベッドに腰掛け、俯いた。
 私はあの日、何かを見たのだ。いや、何かではない。カラスだ。私の身の丈を遥かに超える、巨大なカラスだ。
 その姿態はまだ脳裏に浮かんだままだった。濡れた羽、どこにあるのか分からぬ目、掠れた「アァ」という鳴き声……。
 私の呼吸は震えていた。ポタ、と雫が落ち、ズボンに染みた。冷や汗をかいていた。あの日の恐怖が鮮明に甦り、再び私を苛んだ。
 しかし、私はまだ全てを思い出せてはいなかった。先程脳裏に映し出された情景は、ほんの断片でしかない。私は己に問うた。あの巨大なカラスと私との間に何があったのか。目を背けたい衝動に耐えながら、必死に記憶を反芻した。
 果たしてそれは、新たな記憶の道筋を開拓するという目的においては全く無意味だった。私はそれ以上のことを何も思い出せず、思考の海にて漂流するのみであった。ただ、1つ得たものもある。
 ―彰兼寺に行けば何か分かるかもしれない。
 漠然と、思い至った。

3.

「なるほど、そういうわけでございましたか」
 隆寛りゅうかんと名乗った僧は丁重に私を迎えた。
「お1人、なんですか?」
「ええ、泰邦たいほう和尚が亡くなられてからまだ日が浅いですし、ご覧の通り小さい寺ですから」
 私は彰兼寺に来ていた。祖父母が亡くなった際、私は風を引いて高熱が出ていたため、葬式に参列できなかった。つまり、ここに来るのは20年振りである。
 隆寛の話によると、先刻も口にした「泰邦和尚」というのが、私が幼い頃遊んでもらっていた人物のようだ。
 泰邦和尚は亡くなる数ヶ月前から入院しており、その間にこの隆寛は彰兼寺の担当となったらしい。そのため、泰邦和尚とも少し話したことがあるそうだ。
「こんなことを聞くのも何なんですが、何か心当たりのようなものはありますか?」
 私は彰兼寺に来たはいいものの、全く取っ掛かりを掴めていなかった。特に記憶が揺さぶられたり、新たに何かを思い出すようなこともなく、茫洋と寺を眺めていたところ、本堂から出てきた隆寛に出会い、経緯を話し、現在に至った。
 とはいえ、隆寛から何かが得られるとは思えなかった。私は早々に話を切り上げ、この場を去るつもりでいた。
「あの、そういえばお名前は?」
 ふいに隆寛が尋ねた。
「ああ、棚旗明仁たなはたあきひとといいます」
 私の名を聞いた隆寛は俄然表情を曇らせた。
「あなた、もしかして泰邦和尚にアキ坊、と呼ばれていませんでしたか?」
 アキ坊。隆寛の声は、頭の中で誰かの声と重なった。アキ坊、アキ坊……。振り返り、声を辿ると、禿頭の好々爺が莞爾として私を見つめていた。
「ええ、今思い出しました。私は確かにアキ坊、と呼ばれていたように思います」
「……そう、ですか」
「何故、あなたがそれを知っているのですか?」
 いえ、実は、と隆寛は歯切れ悪く間を置いた。
「カラスとは関係ないのですが、泰邦和尚は病床でアキ坊、アキ坊、とうわ言のように繰り返しておりましたので……」
 ぞくり、と身体が粟立った。母から彰兼寺の話を聞いた時と似た感覚だった。
 彰兼寺、泰邦和尚、アキ坊……。だが、まだ繋がらない。やはり私の脳は巨大なカラスに出くわした瞬間しか上映しない。その前後は未だ補完されないままである。
「それ以外に、何か泰邦和尚についての情報はありますか?」
 隆寛は目を伏せ、考え込んだ。
「……いえ、他には特に無いかと」
「そうですか」
 私はでは、と言いながら立ち上がった。
「突然伺ってしまってすみませんでした」
「もう、いいんですか?」
「はい。泰邦和尚のことと、私がアキ坊と呼ばれていたことが思い出せただけでも、収穫ですから」
 実際はそうでもなかったが。
「お送りしましょう」
 隆寛も次いで立ち上がった。
 幼少期と変わらない、鬱蒼と木々が立ち並ぶ景色に、私は少し懐旧を感じていた。夕暮れ時であれば、おそらく逃げるように駆け抜けていくだろうが、まだ日は高く、感傷に浸る余裕も少しあった。そして、この風景は私にある確信を持たせた。
 私が巨大なカラスを見たのは、この場所に間違いない。
「変わりませんね、この辺りは」
「そうなんですよね、きっと。私はここに来てまだ長くないのですが、そんな私にも、そう思わせるだけの説得力がありますね、ここの景観は」
 本堂を出てすぐ、隆寛は立ち止まった。話し好きな性分のようだ。彰兼寺を訪れる人は少ないのだろう。
「……そういえば」
 隆寛は呟いた。
「どうやら土地開発の話もあったそうですよ。20年程前に」
「そうなんですか?」
「ええ、なんでも市議の方で特別な委員会が発足されるくらいには、本格的に進められていたとか」
 この間お葬式がありまして、その時に聞いたんです、と隆寛は静かに言った。
「何でも、その委員会の委員長が急に亡くなられて、計画が頓挫したのだと、聞きました」
 記憶を映すカメラは、突然下方へ動いた。
「―もしかして」

「その方のご遺体は、そこで見つかったのでは?」

 私は丁度隆寛の立っている辺りの地面を指差した。先程見た記憶でも、人が横たわっていた場所である。
「え……ちょっと、棚旗さん!?」
 私は隆寛の返事を待たず走り出した。
 おおよその予測はついた。私は何故カラスが怖いのか。記憶の蓋は、沸騰した薬缶のようにカタカタと揺れている。幼少期の微かな記憶を辿りながら、私は図書館へ向かった。
「すみません、この地域の地方紙を見たいのですが……20年前の記事を」
 汗だくで駆け込むなりそう声を掛けた私に面食らいながらも、司書は案内した。私は矢庭にファイルを取り、乱雑にページを繰った。
「……あった……」

『S市開発委員長 遺体で見つかる』

 ようやく見つけたその記事を見て、私は完全に思い出した。被害者は神原洋一かんばらよういち。私はこの男を知っている。名前は今初めて知ったが、私はこの男の顔を見ている。私がカラスを怖がるきっかけになった、あの日に。

 あの日、私は彰兼寺の本堂で泰邦和尚と話していた。何を話していたかまでは覚えていない。
 トントン、と扉が叩かれた。泰邦和尚が声を返す前に扉は開き、スーツの男が入ってきた。ぴっしりと整えられた髪と眉、四角い眼鏡、小綺麗で胡散臭い男だった。神原洋一である。
「今日はもう帰りなさい」
 その声が泰邦和尚のものであると気付くのに数秒要した。いつもの、柔らかく朗らかな声色ではなかった。重苦しい、鉛のような質感を帯びていた。恐る恐る泰邦和尚を見上げ、私は更に怯えた。表情もまた、普段の好々爺然とした様子から一変、険しい顔つきであった。ただならぬ気配を察した私は、大人しく本堂を出た。神原洋一の横を通る時、嫌な香水の匂いがした。
 帰路の途中、私はずっと胸騒ぎがしていた。泰邦和尚の初めて聞く口吻、見る形相、子供ながらに感じた、神原洋一の好漢ではない雰囲気……。家までの道程を1歩踏む毎に、不安は募っていく。私はやがて踵を返し、彰兼寺へ駆け戻った。
 寺の前に人影が見えた。その足元には何か大きな塊が転がっている。近付くにつれ、塊は輪郭を鮮明にしていく。
「わあっ!!」
 私は思わず叫んだ。神原洋一が、頭から血を流し横たわっているのだと気付いたのだ。
 私の叫び声を聞いた人影は、びくり、と小さく跳ね、こちらを向いた。夕日を背負い、周囲の木々と同様に影絵になっている。表情は見えないが、確かにこちらを見ていた。
 風に靡く法衣、手錫杖から滴る血、濡れた袖……。血濡れのカラスがそこにいた。

「アァ……」

「アキ坊」

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