見出し画像

【短編小説】なげうった友

1.

  慌てて跳ね起き、時間を確認した辺りで、私は昨晩の自らの行動を思い出した。アラームを切っておいたのは他でもない私であった。しかし、自身の愚かさを恨む必要は生じなかった。これまでの生活のお陰で(あるいはせいで)、いつもアラームを設定していた時間の5分前に目覚めたから──ではない。私は今日、ハナから遅刻する気でいたのだ。
  逐一時間が目に入っては気が急いてしまうので、私はスマホの電源を切った。マナーモードや機内モードではなく主電源から切るのは久しぶり、どころか初めてかもしれない。電源の落ちた黒い画面には、額を濡らしてどこか落ち着きのない表情の男が写った。私は大きく深呼吸をした。
 いつもよりたっぷり時間をかけてシャワーを浴びた。冷や汗だか何だか分からない汗も、この焦燥も、洗い流せやしないかと思ってのことであった。
 果たして私の心拍数は上がるばかりであった。髪を乾かす最中にもう汗をかき始めていた。私は私の人間性がかくも卑小であったかと、落胆した。
 大丈夫、こんなことをするのは最初で最後だ。
 自身に言い聞かせながら、今度は電気ケトルのスイッチを入れた。そして、食パンをトースターに入れ、ダイヤルを回した。
 無意識にスマホを手に持っていた。時間が気になって仕方なかった。近くにあるから気になるんだ、とソファへ放り投げる寸前で、私は手を止めた。
 いや、いかに電源を切っていようが、目の届かぬ場所へ置いておこうが、使える状態である限りは、意識の何割かを常に持っていかれるのだ。
  で、あれば。私は鍋に水を溜めてコンロにかけた。
 ぶくぶくと泡が入れ替わり立ち替わり弾け始めると、私はスマホを手に取り、鍋へ向かって振りかぶった。が、そこから先へ手が動こうとしなかった。私のような人間は、やはり心の底から何も顧みずになりふり構わず全てを擲つことなどできやしないのだろうか。なけなしの勇気を、矮小で卑屈、それでいてねちっこく凝った理性が咎めている。
  チーン。
 トースターの音に驚き、私はスマホを放してしまった。画面に映った間抜けな表情が遠ざかっていき、盛大に飛沫を上げながら鍋へ落ちた。私は呆然と、文明の利器の煮られている様を眺めていた。
 「は、ははは、はは」
 自然と笑いがこみ上げてきた。もう笑うしかない、そういう消極的なものではない。私は清々しい解放感に満ちていた。また、革命を成し遂げたような、尋常ならざる達成感を得た。
 何だってできるじゃないか。
 全能感にまで昇華したそれらの感情は体を突き動かし、私はやがて鍋を床に叩きつけていた。
「あはははははは!!」
 私は小躍りしながらトースターを開け、パンを取り出し、なみなみとバターを塗った。電気ケトルの湯が沸き、インスタントコーヒーの瓶を見遣った所で、閃いた。
 瓶を開けてそこへ直接湯を注いだ。蓋を閉め、よく振った。
「あっはっはっはっはっは!!」
 何がかは分からないが、とにかく可笑しかった。瓶いっぱいのコーヒーをぐい、と飲んだら粉っぽくてむせた。それも堪らなく可笑しかった。
 会社に着いたのは、出勤時間の2時間以上後であった。電車内では、ひとりでに歌いそうになったり、隣に立っている青年の耳からイヤホンを引き抜きたくなったり、吊り革にぶら下がりそうになったりするのを必死に抑えていた。警察沙汰になっては、私の本懐を遂げられぬかもしれないと考えてのことであった。
 オフィスへ入ると、社員たちの奇異の目線が一斉に私へ注がれた。私はレッドカーペットを歩くかのような晴れ晴れとした心持ち、堂々とした足取りで課長のデスクへ出向いた。
「重役出勤、ご苦労様ですねえ」
 課長は嫌味ったらしく言った。不機嫌な時の特徴であった。
「うむ、くるしうない」
 私は会話になっているのか分からぬ返答をしつつ、脂ぎった禿頭を撫でた。課長は一瞬困惑した面持ちを見せ、
「どういうつもりだ」
 と凄んだ。私にはただ滑稽なだけであった。堪えきれずに私は吹き出した。課長の鼻息が鮮明に聞こえるほど荒くなっていた。
「どういうつもりだと聞いてんだ!!」
 課長はやにわに立ち上がった。私は間髪入れずベタベタの頭を掴み、
「うるせえ!俺は今日で辞めんだよ!!」
 と怒鳴り、椅子へ押し返した。そしてその勢いのまま、
「さようなら皆さん、ド三流な生涯をこれからも楽しんで!!」
 そう言い放ち、呆然とする元同僚たちの間をすり抜け、オフィスを後にした。
 ひとまず、私は大きなヤマを越えた。これまでの禿頭口だけ無能上司に平身低頭していた日々は、今日この日のためにあったのだ。私のうだつの上がらぬ人生、それは本日をもって結実するのである。避けようともせず雑踏を闊歩する私は、さながら戦果を上げて凱旋する兵士かの如く誇らしい心持ちであった。
 私はその雄大な歩調のままコンビニへ入り、ビールと唐揚げを買って、イートインの席でそれらを平らげた。
 こんなことをするのも、最初で最後である。
 その後、日が暮れるまで私はやりたい放題に過ごした。
 古本屋で梶井基次郎の「檸檬」の真似事をしたり、公園でブランコを思い切り立ち漕ぎしたり、風俗へ行ったりした。恥じらいもためらいも後ろめたさもなかった。全ての経験が新鮮で、色彩に富む愉快であった。
 さあ、やり残したことはあと1つ。それを終えたら──

 死ぬだけである。
                                               了
「で、昨日ここに着いて、その文章を書いてたってわけ」
 十数年ぶりに会う友の顔は夜の闇に遮られ、ぼんやりとした影になっていた。ごく、と生唾を嚥下する音が私の体内で反響した。そんな音すらもこだましそうな程に、辺りは森閑であった。今になって、吊り橋の揺れが少し怖くなってきた。

2.


 先週、中学の頃仲の良かった友人から連絡があった。久しぶりに会いたいからここへ来てくれ、といった旨の文章と、旅館の住所が送られてきた。調べてみると、随分遠い山中であった。詳しく話を聞いてみると、どうやら彼の現在住んでいる場所と、私の住んでいる場所との中間辺りにこの旅館があるので、丁度良いとのことであった。中学を卒業して以降会っていなかった友から誘われたことが嬉しかったのもあり、私は快諾した。
 今こうして振り返ってみると、どう考えても怪しい誘いである。私は自らの浅慮を悔い始めていた。
 旅館は山の中腹に位置し、近くに店等もなく、何か入り用の際には1時間近くかけて山を下りる必要がある。絵に描いたような辺鄙であった。
 友人は中学生の頃とは随分変わっていた。当時はもっと陰気な感じで、口数もそれ程多くはなかったのだが、十数年の時を経て、彼は底抜けに明るくなっていた。
「散歩に行かない?」
 夕飯を食べ終わり、緩んだ空気の中で彼は言った。
「危なくないか?街灯らしい街灯もないだろ」
「だからいいんじゃん。都会じゃお目にかかれない、本当の闇、ってやつだよ。それにさ、運動した後の方が風呂も気持ちいいし酒もうまいって」
 こちらが折れるまで食い下がる雰囲気を感じ、私は早々に諦めて立ち上がった。こんなに押しの強い性格じゃなかったよな、と思いながら。
「俺さ、色々後悔してたんだよ」
 懐中電灯で地面を照らしながら、前を歩く友人は言った。女将さんに無理を言って借りたらしい。
「何て言うかさ、もっとやりたいことやっときゃよかった……って。でさ、やってみたんだ、色々。死ぬ気でやりゃ何でもできるって、自分のこと奮い立たせて」
 夜の山道を、彼はずんずんと進んでいく。気付けば舗装された道から逸れ、1歩踏みしめるごとに枝の折れる音や葉の擦れる音がした。
「すげえのな、人間って。心持ち1つで何でもできるんだぜ」
 お、ここだ、と言って彼は止まった。
 谷に渡された吊り橋であった。谷底の見えぬのは夜──都会じゃお目にかかれない本当の闇──のせいであろうか。覗き込めばそのまま吸い込まれてしまいそうな、危うい深淵である。そんな淵と淵を繋ぐ橋は、簀の子のように頼りない足場と、申し訳程度の綱が1本手すり代わりにあるだけの、人1人支えるのすら覚束なさそうなものであった。
「ほら、行こうぜ」
 彼は臆することなく橋へ乗った。橋は下へ弛んだ。私も恐る恐る彼へ続いた。橋はまた下へ沈み込んだ。だが、存外安定していて、今すぐに崩れることはなさそうであった。
「話の続きだけどさ」
 彼は唐突に立ち止まった。私はよろめき、綱を掴んだ。海上の船のように、橋全体が揺れた。それは気が早いって、と彼は笑った。
「やりたかったこと、全部やってみたんだよ。そしたら、なんか自分のことがすげえ誇らしく思えてきてさ。お前にも知ってほしくなって、ちょっと文章にしてみた。そういや、小説書くのも俺やってみたかったなって」
 彼は私に懐中電灯と1枚の紙を手渡した。

3.

「お、読めた?」
 彼の口調は今日会った時から変わっていない筈であったが、私には違って聞こえた。
「お前……」
「どうした?」
 彼は明るくなったのではない。
「ここに書いてあることって……」
「うん。全部本当だぜ。そこに書いてること全部やって、電車乗って、で、昨日ここに着いて、その文章を書いてたってわけ」
 全て捨てたのである。
「さっきは死ぬ気になったら何でもできるって言ったけど、本当は違う。死んだら何でもできる、なんだ」
 私は彼の足元だけを照らしていた。顔を見ることは怖くてできなかった。
「俺はさ、人間は皆、心の底では生きることに執着してると思うんだよ。死のうとして死にきれなかったりする人がちらほらいるのも、きっとそのせいだろうぜ。でも、たまに、本当に死ぬ覚悟が決まっちまう人がいる。俺もそうなんだけど、そうなったから分かる。死ぬ覚悟ができた時点で、もう人として死んでるって」
 歴史にはさ、と彼は続けた。
「そういう人いっぱいいるよな。主君のため、とか言って。ああいうの全部やせ我慢だと思ってたんだけど、違うわ。皆、こういう気持ちだったんだろうな。凄いぜ、何も怖くないもん、俺」
 彼の足が1歩、こちらへ踏み出した。
「やり残したこと、1個あるんだよ」
 靴の踵が板と板の間へ引っ掛かった。橋がまた大きく揺れた。
「俺さ、友達らしい友達お前しかいなかったんだよ。高校でも、大学でも、会社入ってからもずっと1人でさ。ありがとな、来てくれて。あんな怪しい誘いに乗ってくれて」
 彼の手が私の肩を掴んだ。懐中電灯は私の手を離れ、谷底へ消えた。1分もしない内に、私も同じ顛末を辿るであろう。私は震えていた。
「死ぬ気になったら、友達も殺せる」
 ぐい、と後ろへ押された。背中へ綱の擦れる感覚があった。それからは、すぐであった。あっという間に私の体は投げ出され、重力に委せて落ちていった。
 いつまでも死にたくなかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?