《読書日記》【かか】宇佐見りん

 
 

《あらすじ》

 うーちゃんの〝かみさま〟だったかかは離婚をきっかけに心を病み、すっかりおかしくなってしまった。かかの痛みはうーちゃんの痛み。SNSだけを心の支えにしながら、哀しく、にくらしい毎日を何とかやり過ごしていたうーちゃんは、ある決意を胸にかかのために旅に出る。一番愛しているけれど、一番にくんでる。抱えきれない淋しさや理不尽な不幸、家族のつながりの残酷さ、女性であることの運命…。誰もが感じたことのある、思わず目を背けたくなるような、〝生きること〟の暗い側面を、物凄いエネルギーの筆力で突きつける、傑作。
 
 

《人間は心を病むとどうなるか・人間の心の遺伝子》

 始めに、このお母さん〝かか〟は心を病んでいる。まず、溢れることから始まる。自分では抱えきれなくなる。自分の抱えきれない痛みを語り、それを起爆剤に感情を爆発させ、周囲に撒き散らす。何が原因なのかというと〝コレ!〟という大きな一つの問題は単なるきっかけに過ぎず、一つ一つは些細なことに見えても、本当にたくさんのことが複雑に重なって現在の状態を作り出しているのである。彼女の言動が、うーちゃんを通して回想などを挟みながら、終始事細かに描かれるが、それを読んでいると現代に蔓延るメンタルヘルスの問題の片鱗が見えてくる。心を病むということは一体どういうことなのか、病んだら実際にどうなってしまうのか、近くの人間にどのような影響を与えるのか…。もちろんこの問題は大変繊細で、人の心の数だけカタチがあり、こうなったらこう!と一概には言えないのだが、その様々ある中にも、人間という生物の心というものに潜んでいる法則性があるような気がしてならない。人間の心というのはこのようにして壊れていくのか、と、うーちゃんの心を通したどこか冷静なコンテクストを読んで、愕然とする。

《一番大好きだけど、一番にくい》

 一番痛々しいのは、そのかかから溢れたものをうーちゃんが同じように心で痛みとして受け止めてしまうという事実である。
絡まり合った糸をほどくのは、絡まり合う時間以上の時間が必要で、その作業は先が見えず、途方もなく、本人も側にいる人たちもたちまち絶望に飲み込まれていく。しかしうーちゃんは、解決とは真逆の方向を行くようなことを言う。母の痛みは自分の痛み。かかと自分の境目は曖昧だと。うーちゃんの場合、かかが〝かんしゃく〟や〝はっきょう〟を起こし、過去を思い出して自らを傷つけるように傷ついていくたび、同じ痛みを自分の心で感じている。状況に振り回されながらも、その痛みやつらさを同時に感じているので、全てを〝理解〟できてしまうのだ。
 では果たして、かかの痛みを自分の痛みとして感じるのは優しさからなのか。否、そうではないと私は思う。そのような、血の運命であり、宿命なのだ。両親、残されたかか、いとこの親子…彼女の境遇が彼女の中に無意識のうちに作り出した、ひとつの逆らえない思想であり、性質なのである。周りに〝痛み〟が多すぎたせいなのかもしれない。
そんな2人だからこそ生まれる、〝一番大好きだけど、一番にくい〟という矛盾した感情。これがこの物語の大きな象徴になっていると思う。

 《不幸の背比べ》

 生きるということは、不幸を抱えることでもある。
 かか、うーちゃん,明子…。この物語に出てくる人たちも皆、それぞれの不幸を抱えていて、一緒に暮らす中で、その不幸で背比べしようとする様子が描かれる。かかは自分が誕生した理由や、〝とと〟との関係、離婚。明子は母親の死。うーちゃんは日々かかによって与えられる痛みに加え、SNSで嘘をついてまで不幸を背負おうとする。
 うーちゃんは家族の中で、かかより明子の方が〝かわいそうだ〟と思われていることが気に食わない。かかはいつでも自分の不幸にどっぷりと浸かって出てこない。明子は不幸を信仰する強い瞳で周囲を見つめている…。とにかく本作では誰もがこの中で一番不幸だと思おう、そして思われようとして必死なのである。
 〝不幸に耐えるためには、自分が一番不幸だという思い違いに浸るしかない〟とうーちゃんは言う。なるほどと思う。見たくなかった真実を目の前に突きつけられたような気持ちになる。かわいそうだと思われることこそが最強で、一番幸せなことだと思う〝思い違い〟。どうしてそのような思考になるのかというと、人間は人生の物事が自分の思い通りにならなかったり、大きな不幸を突然背負わなければならなくなってしまった途端に、心が激しく動揺し、見える世界がぎゅーっと狭くなって、思いやりを忘れるからだと考える。すなわち、自分自身のことだけで精一杯になってしまうということだ。
 不幸自慢が虚しいことだとわかるのは、不幸を背負っていない人だけだ。たとえ不幸だとしても、自分をしっかり持って、目の前の相手の気持ちも考えて、不幸の中にもあるささやかな幸せに感謝して…。はっきり言ってそんなの全て理想論だ。本作で著者が描く人たちは皆、とても人間らしく、紛れもなく正直だと感じる。誰だって〝かわいそう〟と思われたい、〝かわいそう〟と思われることが羨ましい…そんな一瞬が長く苦しい人生の中にあるように思う。憂鬱な真実だが、だからこそ、彼女たちに大きく共感できる。

 

不幸に耐えるには、周囲の数人で自分がいっとう不幸だという思い違いのなかに浸るしかないんに、その悲劇をぶんどられてしまってはなすすべがないんです。

【かか】P.58より

《信仰と信仰からの自立・人間の弱さが生み出す歪み》

いつから、信じてはいけんものになったんでしょうか。あの言いつけを真に受け続けることの、なにが、いけんのでしょうか。

【かか】P.113より

 母親への信仰、不幸への信仰…。人の数だけ信仰が生まれる。いつでもその対象は脆く、不確かで、そこからの自立は人生における永遠のテーマの一つかもしれない。信仰を捨て、自分の身一つで立ち上がって歩く時の戸惑いや、なにかに裏切られたような気持ちや悲しみ、突然よりどころを失う喪失感に震える小さな魂は、いつかのあなたや私なのだろう。そして、生きていれば誰もが抱えることになる不幸や寂しさとは、どのように付き合っていくべきなのか。正しいカタチや理想はあれど、私たちは弱いから、いつでも正しくいられない。時に心を病み、酷く自分勝手になり、自分が一番不幸だと思い込む。この世界の暗闇は、この物語に生々しく描かれた、そんな歪みが絡まり合って生まれているのかもしれない。

《文庫書き下ろし短編 「三十一日」について》

 言葉の力を見せつけられたような気がした。そこに書かれている文字の羅列が、心に直接問いかけてくる。どしんと低音のように響いてくる。そして気がつけば、私は尚子である。涙している。心が慟哭している。寿司を食べ、汚れをこそげ落とし、がははと笑う。恐ろしく、取り返しのつかない黒い穴にかなうものはないと著者は言う。果たして日常や生活というのは、恐ろしい黒い穴を隠すためだけに存在する〝ごまかし〟か。それを前に人間は無力なのか。ぽっこり開いた、暗闇を、カーテンで隠すことしかできない無力さを突きつけられ、そして尚子は笑う。
 

〇コラム〇

 《勝手に評価》★★★★ 星4つ
 さすが宇佐見りん!期待を裏切らない!やっぱり名作すぎる。何度読んでもあのラストの畳みかけで感情が高ぶり、泣いてしまいます。私たちが生きていくにあたってみんながそれぞれ抱えていくことになる、不幸や淋しさとは、どのように付き合っていくのが正しいのか、ということについて深く考えました。正しいカタチや理想はあれど、いつでも正しくいられないのが人生ですね。
《これもおすすめ ―母と娘をテーマにした本―》
「母性」 湊かなえ
 母目線で描かれているこの本を読むと、母にも母なりの苦悩があることがよくわかります。自分の娘をどのように愛すか、愛をどのように表現するか…世界中の〝母〟が手探りで、大きな責任を背負いながら日々奮闘しているのですね。
「八日目の蝉」 角田光代
 娘を守るためならば、どんな嘘でもつくし、土下座も厭わないし、足が千切れるほどに走るし、犯罪さえも…という母が登場します。その親子の関係はいろいろと〝訳アリ〟なのですが、そこに娘がいれば、女性は母になり、そして母は強くなる。心震える一冊です。
《硝子のヒトリゴト ―親が私の〝かみさま〟だった頃―》
 幼い頃から、本当につい最近まで、親は私の〝かみさま〟でした。すなわち、親の言うことが絶対だと信じ込んでいたし、親が喜ぶことが正しいこと、悲しむことは正しくないこと、何をするにも親の許可をとるのが自然で、そこには確かに〝信仰〟が存在していたように思います。それが果たして良いことなのか悪いことなのかは別として、たまたま私はそういう家庭に生まれ、そのように育ったというだけのことですね。でも、結婚して夫と二人で暮らすようになり、親と物理的に距離をとったら、その〝信仰〟は本当にあっけなく、頼りにならないものになりました。そこでは私が何をしようと自由だし、何でも自分で決めていい。その代わり、責任も自分にある。そんな状況にとても戸惑いました。これが大人になるということかもしれませんね。時々子供の頃の私が顔を出して、心許ない時もあるけれど、最近はずいぶんと大人を楽しめるようになってきました。
 

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