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《読書日記》【月と六ペンス】サマセット・モーム

《あらすじ》

チャールズ・ストリックランドは、平凡で退屈な男のはずだった。そんな彼がある日突然理由も言わずに家族を捨ててパリへ旅立ったという。ストリックランド夫人に頼まれて彼の様子を見に行った作家が聞いた、驚愕の真実とは?他人を傷つけ、自らを傷つけ、残酷に自分の〝挑戦〟に没頭する獣の狂気。究極の〝中年青春人生やり直し劇場〟ここに開幕!

《〝退屈な男〟が獣へと変貌したとき》

この世に生まれた誰かにはある。内に秘めていた狂気が顔を出す瞬間が。恐ろしいことに、その衝動の前にはどんな人間でもなすすべがないのである。全てを捨ててやりたいことを極めれば…というのはもはや平凡である。ストリックランドはそのようなことはしようとしていない。ただ、それをしたいだけ。ストリックランドというのは本能なのだ。本能で生きている人間ではない。本能という名前の獣なのだ。

《人間と獣》

モームが描く人間たちは皆、体裁を異常に気にしていたり、嫉妬深かったり、妻に縋りつく夫だったりと、強烈な人間臭さがあるが、その中でストリックランドは異彩を放っている。彼はこの物語に登場する人物の中で唯一人間ではなく獣なのである。ただ、そこにあるだけ。ただ、そこで息をして、絵を描いているだけ。その事実だけ。
登場人物たちの人間臭さとストリックランドのあまりの無味無臭さのコントラストを楽しむのも本当に面白い。無味無臭すぎて逆にフレーバーがあるくらい…(?)ストリックランドが、人間である彼らが必死で縋りついているものを嘲笑し、無下に足で踏みつける様子がたまらない…。彼らにとって命より大切なものが、ストリックランドにとってはゴミのようなもの。しかし彼はそのズレを全く気にしない。
つまりこの物語は、〝人間〟である私たちにとっては、全く共感を呼ばずに、反感や嫌悪感ばかりを呼ぶ伝記である。悪いところを、悪いようにしか書いていない。彼のその偉大さが、稚拙な感動エピソードや名言で彩られていないところが、私は大好きである。

《何もかもから解放されて〝自由に〟生きるということ》

私たちがタヒチでのストリックランドのように自由に生きるということは、現代社会では難しいだろう。彼でさえ、ロンドンやパリでは自らを解放しきれなかったのだから。ストリックランドの場合は周囲が原因であったが、私たちの場合のそれは社会のせいではなく、深層に刻み込まれ続けた、意識の問題なのかもしれない。この物語を読むと普段の生活でいかに私たちがいろいろなものに縛り付けられているかがよくわかる。家族、パートナー、SNS、常識、体裁…。全て悪ではない。これらを投げ出して生きるということが、究極の〝自由〟。それがストリックランドの強火すぎる思想である。

だからこそ彼の生き方や思想が衝撃的で、誰もを魅了するのかもしれない。他人にどう思われるかということが主体となりがちな今、自分を見失いそうな時、彼を思い出したい。ストリックランドという男が、この本の中に生きているというだけで、勇気が出るように思う。

《ストリックランドが望んだ〝自由〟》

無駄なものを、剥いで剥いで剥いで…最後に残ったのは幸福と満足だったのだと魂が宿った絵画が語っているような気持ちがした。彼はずっと孤独だったが、孤独ばかりが浮き彫りになるような悲哀溢れる結末ではなかった。それが意外だった。彼は誰にも愛されず、嫌われて、ひとりぼっちで死んでいくのだと私は思っていた。彼はタヒチで本当の自由を手に入れたのだ。彼が望んだ自由とは、〝放っておいてもらうこと〟。愛や社交はその対極だ。ストリックランドが心から憎んでいたものである。

《本当の幸福は本人が決める》

彼はその波乱万丈な人生を通して、まぎれもなく幸福だったと語り部の作家はいう。しかし、周囲からはそうは見えなかったようだ。
本当に幸福な人生だったかどうかというのは、本人が決めることだ。他人にその人の幸せを推し量ることはできない。自分の本当にやりたいことを、本当にやりたいように成し遂げた。たとえ他人を傷つけても、自分を傷つけても、動揺したり恐れたりせずに、理想や美しさを追い求め続けた。その幸福は彼の中だけで生まれ、彼の中だけで完結したのだ。

〇コラム〇

《勝手に評価》★★★★★星5つ
面白い!とにかく面白いんだ!!この物語の惹きつけるような力強さは一体何だろう。読み終えてしまうのが寂しいくらいで、ページを閉じたらすっかりモームのファンになっていた。素晴らしくドロドロとした不穏なパリ編も、南国の風が感じられるような味わい深いタヒチ編も、それぞれの良さがあって大好き!

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