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所有・消費論

対談 國分功一郎×斎藤幸平「哲学は危機の時代にどう立ち向かうか」vol.2に参加した。
政治や社会問題に対する向き合い方は、分けられる、と。その線引きは感情の有無によると私は考えた。

 危機における哲学の役割は、理想と現実のズレを正しく気づかせることではないか。それは生活の構造を分類して、自らの立ち位置、行動にラベリングすることからはじまるだろう。その分類を提案する。

 國分功一郎は、浪費と消費と分類したが、さらに広く拡張して、所有と消費に分類する。例えば、所有は、お気に入りの車を持つこと、消費はトイレットペーパー持つことを想定する。これらは、ゴールの違いによって切り分けることができる。消費は目的を果たすことがゴールであるが、所有は喜びや感謝という感情がゴールである。このポジティブな感情は大げさに言うと世界の肯定となり、世界と接続することに繋がる。

水で例えると、ペットボトルの水は喉の乾きを癒やす道具として消費されるのに対して、地方の湧き水は地元の住民にありがたがられて、時には神への感謝のような所有の対象となる。他人の所有、感情を、目的で評価すると見誤る。例えば芸術のようなものも当てはまるだろう。

自らの感情による分類ゆえに、所有と消費は他者から明確には分類することは不可能である。また、所有と消費は、労働や情報、あらゆるものの分類に適用できる。所有を集団に拡張すれば、共有、コモンとなって、昔の祭りや土着信仰を当てはめることができる。

 では、消費を集団に拡張するとどうか?

適当な言葉が見つからないので、これを共消費と命名する。共消費はSNS社会で強化されたシステムである。物理的な目的、あるいは他人の感情が目的で、自らの感情がゴールでない集団の活動である。この共消費は、未だにラベリングされないので、なんとなく共有や連帯と勘違いされているかもしれない。
 
 過去、消費社会によって、個人の所有が消費にかわり、共同体は解体されて、危うく危険な無連帯に陥る危機があった。そこにSNSを通して、共消費という弱い連帯という救済システムが構築された。こうして共消費は、最終防衛線として社会になくてはならないものになった。共消費がもつポジティブな側面は、社会の安定化である。このポジティブな側面は見落としてはならない。
 一方で、消費と共消費によって、自分の感情が小さくなった。宮台真司のいう感情の劣化と対応できるだろう。無連帯まで落ちていないが、感情によってコントロールされやすくなっているといえる。

このような分類をもとに、日常の行動や社会課題に対して、自らの感情をモニターすることで状態をラベリングすることができるだろう。

この分類の問題は、ある情報をもとにうまれた個人の感情は、他人の共消費の活動によってうまれたものかもしれないということである。共消費には、能動者と受動者があるのかもしれない。この部分は、もう少し議論できるだろう。
 いずれにしても目指すべきは、他人の共消費に操られることなく、自らの活動によって生まれる所有、世界との接続を目指すことだろう。

 自らの感情は、他者からは判断できないので客観性が欠けているので哲学的でないのかもしれない。そもそも、感情はあまり哲学に馴染まないかもしれないが、このような分類とモニターによって、より良い未来の方向性を、個々人が示すことはできるのかもしれない。そこまで大きな力はないと思うが。

 このような分類をしたが、1970年にマニュアル・カステロが提示した集合的消費という言葉があるそうで、経済学、社会学ですでに議論されているようである。その集合的消費は、政府や企業主導から、個人の分散型に変わったといえるだろう。

対談vol.1も見てみるかと思ったらオンデマンド終了。残念。

これを読んでくれたら、私の所有する所有消費論についての、私の共消費活動がまずは成功したと言えるかな。

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