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男性コミュニティに苦しめられる男性たちとその末路

 日本社会の多くの部分が男性優位なコミュニティで構成され、そこに出入りを許可される女性と、許可されない女性がいることは、書いた。ここでは、そこに所属している男性たちがどのような経緯をたどるかを考えてみる

 女性の多くはこの排他性を感じつつ、告発してもいいことはないのでそこに適応するか、適応できていない女性を攻撃することでコミュニティ内での地位を獲得する。「こいつはわかってる女」と思ってもらえれば、そこでの地位が保証される。

 が、このような排除の論理の主体者である男性たちはどうか。彼らの多くは悪人でも差別主義者でもない。ごく普通に目の前の関係性を大切にしているに過ぎない。そうであるがゆえにそのコミュニティの特性を告発されると蜂の巣をつついたような騒ぎとなる。

 非常にわかりやすい例をあげると、潜在的ミソジニーに陥ってる男性は「自分の中で恋愛はそれほど優先順位が高くない」「それほどの情熱をパートナーに傾けられない」「仕事が大事だ」と口にする。当然だ。彼らにとって、パートナーは人ではない。戦利品であるからだ。獲得しコミュニティ内で誇示することが目的であってパートナーとどのように歩んでいくかはまったく思考が及ばない。だから、それは往々にして「モラハラ」として女性側から告発されることにもなる。そこにある病理は、ハラスメントをしてしまうやばい男性がいるという単純なものでなく、このように男性コミュニティにのみ目を向ける視線を疑うことをしないことが原因だ。

彼らの多くはパートナーに憎しみや嫌悪を持っているわけではない。かろうじて自らの子どもたちに対しては愛情をむけることがあっても、パートナーに強い関心を示すことはない。それは「愛されていない」という実感につながり基本的には経済的利害のみで結びついた関係に収斂していく。

男性コミュニティでの競争は終わることがない。一定の地位を得たら得たでさらに上の地位を得るために、競争が続いていく。そのコミュニティは彼らにとって安心できるように思えるものでもあるが(そのためにわきまえない女を排除する)、同時に、その安心感の裏で耐えず焦燥感を煽る関係性でもある。

家に帰れば「戦利品」が待っている。たまにはそれに愛を向けることがあっても、そこで彼らの自尊心が認められることはもう、ない。結果、パートナーに対して自分を昔のように承認するように、わきまえるように誘導していく。

日本人男性の平均寿命がいつまでも女性より低いのは、こういった関係性とも無縁ではないだろう。心安らぐ場所がどこにもない。そして死ぬまでコミュニティ内での争いに巻き込まれ続ける。

男性たちがその苦しみに気づき、コミュニティのありかた、関係性そのものを問い直すことこそが大きな社会の進歩になるだろう

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