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『ノマドランド』|ノマドは悲惨なのか、それとも自由なのか

自身の車で寝泊まりし、時にAmazonの年末商戦スタッフとして、時に観光地の清掃員として働き日銭を稼ぎ生活する。

そんな人がアメリカで増えていることを知っているだろうか。

日本の感覚だと考えられないかもしれない。
日本だと寝泊まりする家である車を停めるスペースがあまりない。
また、そもそも社会保障制度が充実しているのでどこかしらの家に住むことはできる。

日本から見ると、ノマド(定住する場所を持たない人々)は「アメリカの悲惨な現実」。

そうなのかもしれない。

アメリカでは、リーマンショック以降仕事は少なくなっていった。特に多くの内陸部の工場勤務者は仕事を失った。
そんな工場労働者が職を失い、家を失い、ノマドになっていく。

本作の主人公ファーンも、そんな厳しい状況に追い込まれてしまった。
1つの工場を中心になりたっていた街で教師をしていたが、工場がなくなり、街ごと閉鎖されることになったのである。

夫も亡くなり彼女はノマドという生き方を選択し、冒頭にあるように自身の車で寝泊まりし、時にAmazonの年末商戦スタッフとして、時に観光地の清掃員として働き日銭を稼ぎ生活している。


どうしようもなくて、悲惨な現実。
お金も家もないなんて、ノマド達は人生真っ暗。


そう思うだろうか。


だが、ノマドたちは自由だ。
少なくとも『ノマドランド』はそういう描き方をしている。


国土が広いアメリカ。
砂漠、荒野地帯で車を停めて寝泊まりしてようと誰も気にしない。
目の前は広大な自然だけ、何にも囚われることはない。

地平線にから上がる朝日や地平線に沈む夕日、人工の光がほとんどない中で見ることができる満点の星空。
ノマドでいることによって見ることができる自然の姿である。
※本作を映画館=大スクリーンで観たほうが良い理由はここにある。大自然に圧倒される。

またノマド同士の結びつくもある。
仕事や土地に縛られていないからこそ、彼ら彼女らには「しがらみ」がない。しがらみがないことによって、付かず離れず、対等で程よい距離感での関係性を築くことができる。

Amazonの年末商戦勤務が終わったら「また来年会いましょう」と声を掛け合い、旅の途中で出会ったら声を掛け合い、助け合う。
彼女らの関係性を見ていると、日々人間関係に思い悩んでいる自分に対して「いったい何に縛られているのだろう、もっと自由でいいんじゃないか」という気がしてくる。

もちろん厳しさもある。
次の仕事にありつける保証はなく、病気をした時に助けを求めるハードルは高い。温かい時期はよいが、寒い時期は過酷だ。劇中でも、車の中で1日毛布にくるまってじっとしているシーンがある。

ただ、代償はあるが、ノマド民は自由なのである。
焚き火を囲いながら、ヒュウという風の音、パチパチという火の音に耳を傾ける。なんと豊かな時間だろうか。

なかなかできない生き方だと思いつつ、彼女らのように、色々なことに縛られている自分を開放できたらとも思う。


決してノマドという生き方を全肯定する作品ではないが、被害者という描き方もしていない。そうならざるを得なかったという受動性があり、一方で、自由に生きるという能動性もある。


アメリカの現実を知るという点で冷静な視点で観る作品であり、ノマド民の生きる力からエネルギーをもらえるという点で心揺さぶられる作品だった。

アカデミー賞に作品賞含む6部門ノミネートされており、そちらも注目である。

Photo by Mostapha Abidour on Unsplash

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