キャンセルカルチャーへの対抗策は「隣人愛」|ジョジョ第4部はスタンドバトルだけじゃあない
語り尽くされたジョジョについて感想を書くことはためらわれるのだけど、どうしてもこの4部の魅力を語りなくなるほどにハマってしまった。
数ヶ月までのジョジョへの私の印象は「画が苦手」「巻数多いから今さら手を出すと大変そう」というもので、漫画にもアニメにも全く触れたことがなかった。
ふとしたきっかけで3部を読み(漫画)、4部をアニメ(『ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない』)で観たところ、その魅力にとりつかれた。
4部の魅力、それは作者の荒木氏も語っているように「(本作のテーマの1つは)『街を描く、街を創る』ということ」だろう。
街とはどういうものか。様々な定義があると思うが、ジョジョ4部で描かれている街とは「”隣人愛”と”隣人への恐怖”が併存する世界」なのではないだろうか。
隣人への恐怖とは、4部のラスボスである吉良吉影に他ならない。
彼は「街を恐怖に陥れる」とか「私の力で支配する」といった大きなことは言わない。逆に「静かに暮らしたい」と主張する。
しかしひっそりと殺人を犯し、その平穏さを壊す者には容赦をしない。
パット見普通の住人なのだが、静かに殺人を犯すところが、まさに「街の中における怖さ=隣人への恐怖」なのである。
「隣人への恐怖」が4部をサスペンス・ホラー作品にしあげているが、一方で裏側には「隣人愛」も通底しているように感じる。
よくある能力もの作品の構造だと、主人公サイドは固定、敵サイドが次々に現れ倒していく、というものだろう。だが4部は異なる。最初は敵サイドだったスタンドを持った街の住人たちが、一度戦った後には仲間になっていくのだ。
仗助らは、一度はぶっ飛ばす・ボコボコにするものの殺しはしない(殺人鬼は別)。そして「お前のことは気に入らない(が街にいることは認める)」というスタンスを取るのだ。
※互いに反りが合わない仗助と岸辺露伴が助け合うエピソードなんかはその最たるもの
隣人愛とはそのような「多少気に入らなくとも、相性が悪くとも、存在を認める、街の中で共存する」ことであり、杜王町は(4部を通して)隣人愛のある優しい街になったのだ。
そして仗助のスタンド「クレイジー・ダイヤモンド」に、4部にある隣人愛のコンセプトが反映されているように感じる。
クレイジー・ダイヤモンドは壊す。ただ治すこともできる。
ケンカを売られたからって、攻撃されたからって、恨みを買われたからって、拒否し続けるわけではない。
一度(ネガティブな感情含めて)壊して、(関係を)修復する。
最初の壊す・戦うというスタンスがストロングスタイルではあるのだけど、その後のスタンスには優しさがある。
漫画は1995年までの連載でかなり前(なんと27年前)だが、今この「隣人愛」のスタンスが求めれている気もする。
何かあったら叩く、そして叩かれる対象者が再起不能になるまで叩き続ける。所謂「キャンセルカルチャー」的なものや、SNS上でのネガ発言に対しての過剰な攻撃は、ジョジョ4部で描かれている「隣人愛」のスタンスが必要なんじゃないか。
ジョジョ4部はエンタメ要素が強くあり、一方で「隣人に対する姿勢」という点で普遍性もあり、つまりはグレートな作品だった。
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