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『ヤクザと家族 The Family』感想|寛容ってそう簡単なことじゃない

あなたの職場にとても人当たりの良い人がいて、その人が元ヤクザと何かしらの関係性を持っていたしたら、あるいはその人自身が服役を終えた元ヤクザだったら、どう思うだろうか。
そして、その人にどう接するだろうか。


『ヤクザと家族 The Family』は綾野剛演じる山本賢治(愛称ケン坊)のヤクザとしての一代記である。
ヤクザの子どもとして生まれ、ヤクザとして育ち、暴対法施行後の世界でひっそりと生きた、ヤクザの話だ。

監督は藤井道人。
近年『デイアンドナイト』や『新聞記者』などのクオリティの高い作品を短いスパンで作っている、1986年生まれの若い監督である。

藤井監督はインタビューでこう答えている。

Q:この作品について、以前あるインタビューで「これは僕たちの話だ」と発言していましたが、それはどういった思いだったのですか?
藤井:映像を作るときは“他人事”ではなくて、どう“自分事”としてこの映画を語れるかなという風には考えるんですけど、どんな時代にも、時代が進むにつれて、その社会に適応できなかったり、こぼれ落ちてしまったりしてしまう人というのは絶対に存在していて、それが自分だったら、もしくは自分に、明日なりうる姿かもしれないと思いながら、この作品の綾野剛を撮り続けたという思いがあったので、そういう風に言ったのだと思います。(日本テレビ『news zero』インタビューより)


本作内では、暴対法施行後の世界、3部構成の最後のパートにそういったシーンが多く出てくる。

元ヤクザと関係を持っていること、元ヤクザ自身であることによって、社会に適応することができない。
正確に言うと、彼ら彼女ら”が”適応できないというよりも、彼ら彼女ら”を”社会が排除すると言った方が正しいだろう。

今までは親しかったのに距離をおかれ、その場からいづらくなる。
また、時には職も追われ、居場所がなくなっていく。


自分が排除する側の立場にいるとして、どう思うのか、接するのかは難しい問題だ。

「元ヤクザであること、元ヤクザと関係があることなんて関係ない。今はヤクザではなく、普通に仕事をして生活しているので怖くない。」
きれい事を言えばそうなのだろうけど、全員がそういった考え方を持つことができるかと言えば、それは無理だろうと思う。

ではどうあるべきか。
「寛容であること」が1つの姿勢なんだと思う。

『現ヤクザを尊敬しているかもしれないし、そんな人たちの考え方を受け入れることはできないよ』
そう言うかもしれないが、寛容とは「相手の考えに敬意を持つこと」ではない。


『不寛容論 アメリカが生んだ「共存」の哲学』という本がある。
この本の中で、寛容はこう説明されている。

・彼は「みんなちがって、みんないい」などと能天気に多様性を祝賀したのではなく、お互いが最低限の「礼節(civility)」を守るべきことを説いたのである
・ウィリアムズは、誰かを批判する際にも、あくまで礼節と礼儀をもっていた。社会的生存を脅かしたり、彼らの宗教行事を妨害したりすることは、けっしてなかった
・「評価しないけれど受け入れる」「嫌いだけれど共存する」という態度だった。〜 自分から見て「誤っている」と思われることを容認するのが寛容である。
※ウィリアムズ(ロジャー・ウィリアムズ。17世紀アメリカで宗教の観点から寛容論を、政教分離原則を提唱した神学者)


冒頭の問いに戻ってみよう。

あなたの職場にとても人当たりの良い人がいて、その人が元ヤクザと何かしらの関係性を持っていたしたら、あるいはその人自身が服役を終えた元ヤクザだったら、どう思うだろうか。
そして、その人にどう接するだろうか。


その人の考え方を受け入れられなかったり、尊敬できなかったり、どう思うかは自由だ。
一方でどう接するかに関して、仕事をやめさせたり、その人の居場所を追うようなことをする行為は「不寛容」な行為だと言える。

「寛容であること」とは、「嫌いだけれど共存する」ことだ。


現実はそう簡単には行かないよ、という話もあるだろう。

上記の書籍内にこうある。

このような寛容理解は、現代人にはあまり評判がよくないだろう。いかにも恩着せがましい。上から目線に聞こえるからである。
それよりも大切なのは、お互いが同じ地平に立って、違いを尊重し、受け入れ合うことではないか、と思う人も多いはずだ。
もし自分の同類や仲間だけで徒党を組んで固まるなら、それも可能だろう。
しかし寛容論が繰り返し問うてきたのは、そんな生易しい違いではない。
とても受け入れられそうにない深刻な断絶に直面したときにどうするか、ということである。
その時にこそ、本来的な意味での寛容が問われるのである。


つまり、寛容になるということは簡単ではないということだ。

ただ、0(尊敬できないから排除する)か100(尊敬できるから受け入れる)だけではなく、30(尊敬できないけど排除はしない)という態度があるということを知っておくだけでも意味があると思う。そういう考え方があれば、今よりも少しは、優しい社会になるかもしれない。
そう思った。

※主題歌はKing Gnuの常田大希率いるmillennium parade。ゲストVocalはKing Gnuの井口理。映画のエピローグとしてみてほしい映像&音楽作品になっている。


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