見出し画像

肺が凍るほどの寒い土地で生きるための「強さ」とは|映画『ウィンド・リバー』より

「強さってなに?」

高校時代の自分は、そう聞かれたらこう答えただろう。

「肉体的に強いこと」

そう思っていた自分は、一瞬ラグビー部に入ろうと思ったこともあった。
結局その時の自分とのギャップが大きすぎて断念はしたけれど、自分はなれない存在である強い人の像を、肉体的に強い人においていた。

「強さってなに?」

社会人になって数年頃の自分は、そう聞かれたらこう答えただろう。

「戦い抜く精神力」

毎日電話営業、そして遅くまでの残業、結果を求め続けられる日々。
折れてしまいそうになる自分の弱さが恨めしかった。
「もっと耐えて耐えて、戦い抜く精神力が欲しい」と思っていた。
自分と同じように考えていて、折れてしまう人を何人も見た。
自分の考え方の方向性に違和感を感じ、外の世界に飛び出した。

「強さってなに?」

今聞かれたらこう答える。

「受け入れること」

『ウィンド・リバー』は「受け入れるという強さ」を表現している作品である。

もちろん『ウィンド・リバー』を見たことによって「真理を得たり」ということではなく実感として持っているものを映像化/言語化してくれたのが『ウィンド・リバー』ということだったのだけど。

『ウィンド・リバー』はテイラー・シェリダン氏が監督/脚本(初監督作品)を務め、アベンジャーズ出演のジェレミー・レナーとエリザベス・オルセンがダブル主演の作品である。

テイラー・シェリダン氏のことは『ボーダーライン』というメキシコの麻薬戦争を巡る闇を描いた作品の脚本家として知っていた。
一切笑いと救いのないハードな作品だった。闇を闇のまま伝える脚本で、映画で伝える最大限の恐怖が感じられるものになっていた。

その『ボーダーライン』から始まる3部作の最後が『ウィンド・リバー』だ。 ※Netflixで公開中の2作目『最後の追跡』は未鑑賞

※この作品の魅力は、こちらのページに詳しく書かれている
http://wind-river.jp/about.php

『ウィンド・リバー』は現代アメリカの闇、ネイティブアメリカンの居留地を舞台としている。

ストーリーはこうだ。


なぜ、この土地(ウインド・リバー)では少女ばかりが殺されるのかーー
 アメリカ中西部・ワイオミング州のネイティブアメリカンの保留地ウインド・リバー。その深い雪に閉ざされた山岳地帯で、ネイティブアメリカンの少女の死体が見つかった。第一発見者となった野生生物局の白人ハンター、コリー・ランバート(ジェレミー・レナー)は、血を吐いた状態で凍りついたその少女が、自らの娘エミリーの親友であるナタリー(ケルシー・アスビル)だと知って胸を締めつけられる。コリーは、部族警察長ベン(グラハム・グリーン)とともにFBIの到着を待つが、視界不良の猛吹雪に見舞われ、予定より大幅に遅れてやってきたのは新米の女性捜査官ジェーン・バナー(エリザベス・オルセン)ひとりだけだった。 死体発見現場に案内されたジェーンは、あまりにも不可解な状況に驚く。現場から5キロ圏内には民家がひとつもなく、ナタリーはなぜか薄着で裸足だった。前夜の気温は約マイナス30度。肺が凍って破裂するほどの極限の冷気を吸い込みながら、なぜナタリーは雪原を走って息絶えたのかーー監察医の検死結果により、生前のナタリーが何者かから暴行を受けていたことが判明する。彼女が犯人からの逃走中に死亡したことは明白で、殺人事件としての立件は十分可能なケースだ。しかし直接的な死因はあくまで肺出血であり、法医学的には他殺と認定できない。そのためルールの壁にぶち当たり、FBIの専門チームを呼ぶことができなくなったジェーンは、経験の乏しい自分一人で捜査を続行することを余儀なくされ、ウインド・リバー特有の地理や事情に精通したコリーに捜査への協力を求める。

このウィンド・リバーという土地、とにかく寒い。
どれだけ寒いかというと、寒すぎて、外の外気を肺に直接多く吸い込むと、肺胞がその場で一瞬で凍結して死に至ってしまうほどだ。

作中、そんな厳しい土地には2つのタイプの人が住んでいる。

一方は、厳しい環境を受け入れられない人である。
その土地のワルは、トレーラーハウスで大音量で音楽を流しながらクスリをヤッている。仕事もせず、外の過酷な環境から目をそらし、現実逃避をしている人たち。事もせず、外の過酷な環境から目をそらし、現実逃避をしている人たち。

もう一方は、その環境を受け入れてできることをする人である。
白人ハンターであるコリーもそんな「受け入れている」存在だ。
元妻がネイティブアメリカンだったためその土地にやってきたわけだが、
野生生物局のハンターとして働き、寒いものは寒いものとして受け入れ生きている。

コリーはかつて娘を亡くしているのだが、同じ境遇にあるナタリーの父にこう声をかける。

”二つの知らせがある。悪い知らせは、君が決して元に戻れないこと。善い知らせは、事実を受け入れて苦しめば娘がくれた愛も喜びも覚えていられる。”

アラスカという自然が自然のまま残る、人間にとっては過酷な環境で長い時間を過ごした星野道夫氏は、自身の著作の中でこう記している。

妻が流産するかもしれないという不安の中で、やはり生命が内包する脆さをぼくは感じました。
「流産するときは、どうやってもしてしまうものよ。自然のことなんだから、それにまかせなさい」
と言ったつの母親の一言ほど、私たちを安心させてくれる言葉ありませんでした。
そういう脆さの中で私たちは行きているということ、言いかえれば、ある限界の中で人間は生かされているのだということを、ともすれば忘れがちのような気がします。 -星野道夫『旅をする木』より『その知らせ』-

ウィンド・リバーやアラスカのような過酷な環境で生きるためには強さが必要だ。

マッチョであれば生きれるのだろうか。力だけではどうにもならない寒さであるし、精神的にやられてしまってはどうしようもなくなる。
「戦い抜く精神力」があればどうにかなるのだろうか。「我慢!」と心に念じて耐えられる環境ではない。きっとどこかで折れてしまう。
稀に超精神的マッチョな人もいるかもしれないが、多くの人にそれを期待することは難しい。

そう、ウィンド・リバーで生きるために必要なのは「受け入れること」なのである。


まず自分のいる境遇、環境を受け入れることが、生きていくために必要な強さなのだと思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?