記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
見出し画像

20210607 日記158 劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライトの感想

観てきました。(※以下感情を失ったネタバレモンスターとなります)

2回目の視聴、死ぬほどメモを取ったのですが、発言等は全て完璧に正確ではないと思うので、その点は申し訳ありません。

オタクの感想としてお読み頂ければ幸いです。クソ長いです。

画像1

俺と少女☆歌劇 レヴュースタァライト2018-2021

思い返せば、俺自身も初めて少女☆歌劇 レヴュースタァライトのテレビシリーズを観てから約3年と言う月日が経過していて、私が華恋たちと同じく高校生なら、入学から卒業までを経験してるんだな……と改めて実感させられた気がする。

この3年間で、私は良くも悪くも、自分が大きく変わったと自覚するような時間を過ごしてきたのだけど、その始まりに大きく根ざしているのが、スタァライトというコンテンツだった。

スタァライトを観始めた2018年、私は生きるための目標を見失っていた。

2017年10月に豊崎愛生さんが結婚を発表されて、それ自体には本当に祝福の気持ちしかなかったのだけど、これまでの8年間、彼女に対する感情の答えが分からぬまま、豊崎愛生さんのためにというモチベーションを最優先に進めてきた人生を、きちんと自分のための人生として見つめ直さなくてはいけないと思わされる契機にもなった。

自分のためにどう生きていいのか分からず、1年近く迷走していた時に出会ったのが、豊崎愛生さんを大好きだったことをキッカケに知り合った友人から教えてもらった「少女☆歌劇 レヴュースタァライト」という作品だった。

主人公の愛城華恋「朝も一人じゃ起きられない。主役になれなくてもいい。そんな方はお呼びではありません」と言われ、かつての夢を見失いかけていたところ、運命の舞台に立つ相手である神楽ひかりと再会を果たし、再びその強い気持ちを燃やして、本気の想いを奪い合うレヴューの中に身を投じることになる。

抽象的な事象を除けば、アニメシリーズは「愛城華恋が一人で早起きできるようになる話」という話を良くしているのだけど、地の底に落ちそうになっていた彼女が、自分の夢を再定義して、強く、まばゆく、美しく生きていく物語に出会ったことを、どこか、私自身が地の底から一歩一歩這い上がるための道しるべのようにも感じていた。

教えてくれた友人とは、スタァライトをキッカケに良く話すようになって、そこから愛城華恋さんを演じる小山百代さんのことを知ることになる。

友人が小山百代さんやスタァライトというコンテンツについて語る言葉の中には、自分が最初の頃に抱いていて、忘れかけていたものが詰まっている気がした。

また、実はウチの姉がセーラームーンミュージカルを追っていた頃のメインキャストに小山百代さんがいて、姉が所持していたミュージカルのDVDを観て、アニメシリーズを観返すうちに、これまで仲良しではあったけど、深くは聞いてこなかった、姉のこれまでの人生の話や、大切にしているものの話を教えてもらうことになった。

この二人に向けて、私が返せる言葉は、やはり私が豊崎愛生さんと向きあってきた時間の中にしか無いんだなと話しているうちに気付いて、変わらない愛情を自覚した上で、彼女に頼るのではなく、彼女の声を聴きながら、自分の人生を良くするために精一杯頑張ってみようと思えたのだった。

私にとって、スタァライトは人生を動かそうと思えるキッカケをくれた作品だと思っているので、今回の劇場版もキチンと人生を懸けて対峙しなくてはならないと思っていた。

レヴュースタァライトの感想(序)

ここからが本題です。

2020年、再生産総集編であるロンド・ロンド・ロンドを観た時、次の映画は、聖翔音楽学園を卒業した後、それでも舞台に立ち続ける理由を、個々人が自らの中に問う(特に「ひかりちゃんと一緒にスタァライトする」という夢を叶えてしまった愛城華恋が、1人の舞台人としての願いを見つける)話になるのではないかと思いました。

ばななちゃんの選択に関してのジャッジはグレー(俺は4つのレヴューの中で唯一、純那ちゃんとばななちゃんの狩りのレヴューが「お互いに背を向ける」という選択を取り、一本道をお互い別の方向に歩み出したことから、この回答にベットしていいとは思っている)なのと、舞台少女という言葉を取り違えていた節は少しある(この言葉は作中において学校を卒業しても変わるものではない『信念』だったと思う)のですが、今回の劇場版がどういう映画であるのかという点に関しては、大筋間違ってなかったのではないかと思っている。(本当か?)

夢が叶ったその先のお話というのは、舞台#2でも描かれていたけど、今回の劇場版は、求めても、求めても、すぐに飢えて、渇いて、新しい舞台を求めて、そういう舞台に生きるものとしての業を背負いながらも、糧を得ながら舞台に立ち続ける意味を問い続ける、舞台に生きる意味そのものを個々人の中に問う話だったように思います。

また、アニメのレヴュースタァライトについては、あくまでも聖翔音楽学園という超高倍率の音楽学校に合格した中で、99期生の成績上位9人が争っている話だと思うと、前提条件から、閉じた世界の中で、さらに選ばれた側の物語ではあるよな……という気持ちが無くはなかった。(いいとか悪いとかではなく)

対して、今回の劇場版では第101回聖翔祭に向けた決起集会があり「私、この女神のセリフ言ってみたい」と、9人以外の生徒たちも、第101回の未完成の戯曲スタァライトで、セリフ付きの役を求める描写がしっかり描かれているように思えた。

そして、そのシーンで流れるBGMが『舞台少女心得 幕間』のインストで、前回の第100回で女神を演じた7人を中心にカメラに写しながらも、セリフを喋っているのは7人以外の舞台少女という描かれ方をする。

このシーンは、アニメ第11話の同曲が使われたシーンの「舞台で待ってる」というメッセージを、さらに広く、みんなが聖翔音楽学院を卒業した後の願いとして再定義したものでもあったのかなと思っていて、非常に好きなシーンの一つでした。

また、愛城華恋の視点を通じて、13年前、6年前、3年前の回想が描かれることによって、聖翔音楽学園の外にも目線が向けられたことも、大きな違いだったのではないかと感じている。

特に、3年前の修学旅行のしおりを作っているシーンでは、舞台人ではない同級生の立場からみた愛城華恋の凄さ「舞台のプロって何やるの?」という果てない渇望にも繋がる問い、そんな舞台に立つ愛城華恋にも「普通に不安とかあるんじゃないかな」と語られる目線が描かれていた。

この2つのシーンが描かれることで、選ばれた側だけの物語なんかではなく「(この世界を生きている)あなたもまた舞台少女」というメッセージを、より切実なものとして伝えるものになったのではないかとも感じている。

0.皆殺しのレヴュー

タイトルが物騒すぎる。

もう1度引用するのだけど、前回のロンド・ロンド・ロンドと同じく、今回の劇場版においても、大場ななはキリンと同質の存在としても描かれていた。(第100回の戯曲スタァライトにおいて再定義された視点でもある)

共演者2人のうち「あなただけの舞台」に華恋ちゃんを電車で送り込んだのがばななちゃんで、ひかりちゃんを電車で送り込んだのがキリンだったことが一番ハッキリと描かれていた対比だったと思う。

同時に、皆殺しのレヴューに関しては、ワイルドスクリーンバロックとしても明言されている。

このステージに関しては、大場なながポジション・ゼロに立つステージで「なんだか、強いお酒を飲んだみたい」のセリフを始め、再演の果てに、舞台少女たちの死をも観てきた大場なな自身が脚本を書いたステージであったと解釈している。

普段は「輪(めぐる)」「舞(まい)」の二刀流だが、電車に届けられるまで「輪(めぐる)」の一本だけで、セリフを話さずに戦っていたのは「舞(まい)」という演者としての武器を使用せずに戦っていたことを示しているのではないかと感じている。

そして、電車に一人残された華恋ちゃんに対して「バナナマフィン、バナナプリン、バナナンシェ、たくさん食べてもらったな」と話したのも、舞台少女の『糧』の姿として描かれたキリンと同じく、与える側の視点が明示されたものだったと思う。

皆殺しのレヴューは、タイトルとは反転して、その与える側の視点から、苦しみ、飢え、渇き、求めながらも、命を懸けて舞台に立ち続ける覚悟(トマトとして描かれた)を与えるレヴューだったのではないかと感じている。

1.怨みのレヴュー

特に考えたこととか発表するつもりがあまりなく、ふたかおが最高すぎて、俺の中では最初からクライマックスみたいになってしまった。

「舞台少女のきらめきに、舞台装置が応えてくれる」というレヴューの基本設定で、物語的な説得力を担保しながら、アニメーション映画でしか出来ない表現を超やりたい放題やるという、単純に劇場でのアニメーション体験として最高すぎたよね……。

デコトラをアニメ表現に使うの、新しい発明の一つであると同時に、もともと好きだったふたかおにヤンキー萌えという属性を付随するの、マジでやめて欲しいと思った。(よすぎるので)

そして、それに輪をかけて、クラブのシーンがあまりにも最高すぎる。観ましたか?皆さん……。

このレヴュー、双葉と香子が、それが勝手なわがままだったとしても、噓偽りのない言葉をぶつけあうという前提があった。

京都で生まれ育ち、嫌味をいう時にも、表向きに出てくる言葉遣いはキレイなままだった(本当か?)香子が「なあ」「おい」「他の女なんてどうでもいいわ」「本音さらせや」「表出ろや」と、剥き出しの感情を偽らずに晒すのが、演出としても、単純な俺の萌えとしてもめちゃくちゃ良かったね……………。

香子が「大ウソつき」と話していたのは、双葉が新国立を受験することではなく、反対すると決めつけて「自分に1番に相談してくれなかった」ことに対してだったのだと思う。

これで縁を切ろうとする香子に対して、双葉の解答が「やだ」という子供のわがままのようなもので、これまで子供のようなわがままを聞いてきた積み重ねがあるからこそ、シンプルなたった2文字が大きな積み重ねとなって迫ってくるんですよね……。

「ずるい。やっぱり香子ばっかり私を独り占めして。ずるい」ききましたか?皆さん……。

そして、子供時代から続く約束という姿は、華恋とひかりちゃんにも繋がっていく。

その一つの解答として、香子に後部座席に乗せていたバイクのカギを預けて、4つに割れたガラスの破片で、あの日とは逆に、今度は香子のボタンを双葉が切る。

そして、香子も託されたバイクを一人で運転できるようになった(と思える)姿がEDで描かれていた。(香子教習所編スピンオフでやってくれ!)

2.競演のレヴュー

競演のレヴューは、かつて自分のきらめきを見つけることが出来ずにいた露崎まひるさんが「舞台に立つ喜びを歌い、舞台に立つ覚悟を踊って、強く、愛しく、美しく、演じ続けることを誓います」と宣誓して、同じ舞台に立つライバルとしてひかりちゃんと舞台で向きあうものだった。

ミスターホワイトの首がぶっ飛ぶ生々しい描写とか、大っ嫌いというセリフとか、ひかりちゃんを心理的に追い詰めたトイレやエスカレーターの描写とか、全部含めて、舞台少女として露崎まひるが身に着けた自信と実力として描かれたのが、本当に素晴らしかったなと思う。

アニメシリーズ第11話で、一人で罪を背負い込み、華恋が迎えに来た地下に行こうとするけど、橋はもう架かっていなくて、対岸にいる東京タワーでの約束から逃げようとしながら、まひるちゃんに突き落とされる。

そして、そのまひるちゃんの演技は、ひかりちゃんから「華恋から逃げてごめんなさい。怖かったの。だから逃げたの」という心からの言葉を引きずり出す。

それに対して、まひるちゃんも「私も怖かったんだ。上手に演じられるかなって」と、本心からの言葉を返す。

最後はライバルから奪ったボタンを「金メダル」として再定義し、ひかりちゃんの首に下げて「走れ、神楽ひかり」と、優しくその背中を送り出す姿は、陽だまりのようにみんなを温める露崎まひる本来の性質でもあったように思う。

別の友人を経由して、私の中で小山百代さんの次に情報量が多いのが、露崎まひるさんであり岩田陽葵さんのことだったりする。

俺は、その友人とお互いに話してきた時間と、自信と覚悟を手にした露崎まひるさんの立派な姿を交互に重ねて、涙が止まらなかったという個人的な事情があったね……。

オリンピック、絶対にやって欲しいという気持ちになってしまった。(そこか?)

3.狩りのレヴュー

皆殺しのレヴューと違うのは、このレヴューは一人の舞台少女としての大場ななの、個人的な執着によって開催され、それにケリをつけるためのレヴューであったと感じている。

劇場版ではが星見純那本体の武器で、そこから放たれる「過去の偉人の言葉」というメタファーとして描かれている。

「言葉が私の力」と語る純那ちゃんに対して「そんな言葉じゃ、あの舞台には届かない」と、あっさり組み伏せ、弓の宝石を叩き割る。

そこから切腹用として、ばななから渡された「舞(まい)」に、弓の心臓部であった宝石を再定義して「他人の言葉じゃダメ」と、他人の言葉では誤魔化せない短刀で「殺してみせろよ大場なな」という自分の剥き出しの感情を叫ぶ。

ボタンを取らずに、切腹を迫ったのは、ばななから純那ちゃんに対する「せめて苦しまずに死ね」という優しさだったのだと思う。

これは、第99回聖翔祭の再演を繰り返し、先に進むことで生まれる苦しみからみんなを守ってきた大場ななだからこそ「星の眩しさで何も見えなくなった」純那ちゃんが、これから先に苦しむことを分かっていて、だから舞台少女としての純那ちゃんを殺して、普通の女の子として幸せに暮らしてもらおうという思いだったのではないかと感じている。

それに対して、純那ちゃんは、もがき苦しみながら、何度でも立ち上がり、その姿をこそ「眩しい主役」「燃える宝石のような輝き」として再定義して、ポジション・ゼロの向こう側へ足を踏み出した。

4つのレヴューの中で、狩りのレヴューは唯一、演じた二人が「一本道をお互いに背を向けて反対の道を歩き出す」という結末を迎える。

「終わったのかもしれない。私の再演が今。私も、私だけの次の舞台に」と語ったように、一人の舞台少女として執着していた星見純那と対峙して、奪い合った果てに、中学時代に1人で劇を演じた大場ななが、今度こそ孤独の荒野に足を踏み入れてでも、舞台に立ち続ける覚悟を決めたのが、狩りのレヴューだったのではないかと感じている。

あと、メモには「大場なな、三島由紀夫か?」と書かれていた。

4.魂のレヴュー

舞台と演技を通じて、互いの剝き出しの本音をぶつけあうというのは、ここまで1~3のレヴューでは全て共通している部分であり、それこそがワイルドスクリーンバロックという言葉の持つ意味であるとも、個人的には感じている。

最近、どこかでそんな舞台を観たばかりだったな……と思ったのだけど、真矢クロの「舞台を通じて弱さをさらけ出す」魂のレヴューを観て完全に思い出した。明日のたりないふたりです。

ご時世の影響もあって無観客ライブだったのだけど、若林さんが観客席に回って、10年以上隣で観てきた山里さんの才能に対する嫉妬や、自分の至らなさを客席からさらけ出したことで、舞台の上に立つ山里さんの弱く、醜い感情にまみれた心からの言葉を引き出した姿に、本当に胸を打たれたんですよね……。

若林さんと山里さんも、漫才という鋳型が無いと心からの言葉を吐くことができなくて、舞台の上だから、たりないまま生きていくことを誓って、全てやりきって「たりないふたり」というユニットを解散するに至った。

正直、ここまでで、俺が魂のレヴューについて話したいことの8割を完遂したと、映画を観た人ならわかると思います。(本当か?)

実は、どうぶつしょうぎが弱すぎて、舞台の上の最高のライバルである西條クロディーヌに勝てない天堂真矢。

それでも、勝つまで諦めずに挑戦し続けることをやめず、彼女が頂点に立ち続けている理由は、才能や血筋などではなく、挑戦することを諦めない気高さであることが描かれている。

そんな姿と対峙して、西條クロディーヌは「生まれ変わるわ。あんたとケリをつけて、次の舞台に行くために」と決意し、ACT3まで及ぶ長いレヴューが幕を開ける。

何も絵が入っていない額縁の中に「無限の私」を写すのは、感情とも本能とも無縁な空っぽな器であると語る天堂真矢。

一度は、天上にも届きそうな無の器に圧倒され、屈しそうになる西條クロディーヌだったが、天堂真矢と同じく、ボタンが弾き飛ばされても諦めることは無く、舞台の理を曲げて、「あんたは神なんかじゃない」「傲りも誇りも妬みもパンパンに詰め込んだ、欲深い人間だ」「何度でもアンタをねじ伏せる」と、天堂真矢は、地に足のついた自分と同じ人間であると定義し続ける。

自らを殺して再定義し、上下を転換させ、かつて見上げた天堂真矢の口上をも上書きして、空虚な器なんかでは到底ない、激情に塗れた天堂真矢を引きずり出すことになる。

「あんた、今までで一番カワイイわ!」
「私は、いつだってカワイイ!」
「あなたでなければ、暴かれることは無かった!」
「あたしだけが、あんたをむき出しに出来る!」
「英雄には試練を」
「聖者には誘惑を」
「私には悪魔(あなた・あんた)を」
「私たちは燃えながら共に落ちていく炎」

ひょえ~~~~~~~~~!(※燃えながら一人堕ちていくオタク)

そして、真矢様が「無限の私を写し出す」ためのモチーフとして描かれた、中身のない額縁を通して、額縁の先にある実態の天堂真矢を貫き、真矢様からみると、額縁に収まった絵画のような構図になったのに対して西條クロディーヌ、あなたは美しい」と語るシーン、完全にあれをやるために魂のレヴューがあったと言ってもいいくらい、美しく、完璧なシーンの一つで、痺れまくってしまった。

悪魔の契約の上で、手を繋ぐ二人の構図は、アニメシリーズ最終回の華恋とひかりを思い出されるもので、99回のフローラとクレールが交わした「私たちは舞台を愛し、舞台から離れられない」という一生の契りでもあったのだと思う。

魂のレヴュー、流石に良すぎてズルだろと思ったけど、ここまで全部良かったから逆にズルにならなくてよかった。(?)

画像2

クロちゃん、怨みのレヴューにも関与しているので、俺のあなたは美しいという気持ちが呼応して、入場者特典の色紙が2枚とも西條クロディーヌさんという事態になりました……。

終幕 レヴュースタァライト

回想を交えながら、愛城華恋の物語が縦軸として進行してはいるのだけど、1人1人のレヴューが濃く、愛城華恋と神楽ひかりのステージに至ったのは、時間的には残り15分くらいのことだったように思う。

トマトを口にして、自分の本心を剝き出しにし、命を懸けて舞台に立ち続ける覚悟を決めた8人に対して、愛城華恋は、自身の後ろに置かれたトマトと向きあわず、過去の自信がみた夢を語り「舞台少女」という枠を外れて、トマトが破裂し「舞台少女としての死」を迎える。

かつて「届かないなら、目指すのを諦めよう」とした神楽ひかりの手を取り「二人で一緒にスタァになろう」と生き返らせたのは華恋だった。

同時に、ひかりちゃんは、なんども手を差し伸べてくれた華恋ちゃんのまばゆいきらめきから、怖くて目を背けていもいた。

「また、私からお手紙を送るね。この舞台を終わらせるために」

と誓い、舞台少女としての彼女を蘇らせるため、過去で孤独な荒野に身を落とし、何度もトマトを託す。

華恋ちゃんの先には「舞台に立つことを選ばなかった過去たち」が広がっている。

そんな過去も、約束の手紙も、かつて遊んだゲームも、空間も、全てを燃やして燃料にして、列車は次の駅へ、そして舞台少女・愛城華恋は次の舞台へと再び立つ。

愛城華恋は神楽ひかりのきらめきから、神楽ひかりは愛城華恋のきらめきから、もう目を逸らすことは無い。

互いのまばゆい光に負けないように、塔の上に燦然と煌めく、二つの星として並び立つため、二人が持っていた運命の舞台のチケットはもぎられ、前掛けは宙に舞い、塔を降りて、それぞれの舞台へと地平を歩き出していく。

***

この物語には、観客である「私たち」も人生という舞台を通じて、同様に命を燃やして戦い続ける舞台少女であるというメッセージが込められていたと思う。

同時に、初めに愛城華恋を演じる小山百代さんのことを書いたのは、何よりも、この劇場版がスタァライトという作品の制作に関わった全ての人たちの、この先、続いていく人生に対する賛歌であったように感じたからだった。

その中で、少し知っていたのが小山百代さんのことで、これはスタァライトという作品の主演を務めた小山百代さんに対して、愛城華恋というキャラクターを通じて、次の舞台に立ち続けることを願った、メッセージであるようにも感じた。

セーラームーンミュージカルに憧れて舞台に立ち、セーラームーンには選ばれたなかったけど、セーラーマーキュリーとして夢の舞台に立った後、少し燃え尽きたようにもなって、今度は主演として出会ったキャラクターが愛城華恋だったという。

レヴュースタァライトを演じきった愛城華恋「世界で一番空っぽかも」しれない。

それでも、本日、今、この時、オーディションは開かれ、傷つき、苦しみながらも挑戦し続けて、自分だけの舞台に立ち続けていて欲しい。

願わくば、またその先で「私たち」が会えたのなら。

その時が来るまで、私も自分だけの舞台で戦い続けていようと思える、渾身の一作でした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?