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20210315 日記74 あの頃。の感想

健康診断

休み。朝から先延ばしにしていた健康診断を受けに行った。

血圧が前回最高90から、今回最高110に爆上げしていたので、問診の時にこれってヤバいやつですか?と聞いたらめちゃくちゃ大丈夫ですと言われた。ネットで調べたら、そもそも最高90が低血圧すぎるという話だったっぽい。

運動しなさ過ぎて懸念していた体重に関しては、むしろ1キロ減っていた。この運動不足生活で体重減となるの、普通に不健康という話でしかないので、これはこれで気をつけなくてはいけない。

視力検査、これまでは見えなくても心の視力で25%を引き続けるためにチャレンジを続けていたけど、今回は素直に「見えません」と言っていた。少し大人になったということなのかもしれませんね。(これまでがバカなだけ)

健康診断には胃のレントゲン検査が入っていて、バリウムを飲んで、無重力訓練みたいな診察台の上をぐるぐる回りながら撮影されるやつをやるのだけど、半日近く食事を禁じられてる脳で指示に従う形になるため、大体レントゲン技師の先生の指示を守れなくて、情けない気持ちになる。

あと、バリウムを排出するために下剤を服用することになるので、腹に爆弾を抱えた1日を過ごすことになる。

今日は観たかった映画が、健康診断終わりにちょうどいい時間に上映となっていたので、果敢にも腹に爆弾を抱えた状態で鑑賞したのだけど、途中でトイレに立ってしまった……(分かり切っていた結末)

休日としては、好きなものを食べ、観たい映画をみれて、ポケットWi-Fiを忘れたためウマ娘をやらず、充実した一日でした。

あの頃。

例によってネタバレはあります。

Twitterでプロモーションが流れてきた段階で気にはなっていたのだけど、あとから、去年観た『mellow』という映画がめちゃくちゃ刺さった今泉力哉監督の作品であることを知り、観に行こう観に行こうと思っていて、ようやく観に行くことができた。

いわゆるアイドルオタクモノで、これまで、自分の一次創作として書いてきた小説の半数くらいは、カテゴライズするならば、このアイドルオタクモノだったため、今後の勉強という意味でも気にかけているジャンルの一つだったりもする。

私がアイドルオタクものばかりを書いているのは、スフィアという声優ユニットを観客席の側から追いかけてきた時間と、その時間の中で変わった人生が、私にとっての青春と呼べる一番大きなものだからなのだと思う。

ただ、このジャンルの作品とは、意外とオタク観の違いで、勝手に解釈違いを起こすことも多かった。

アイドルと声優の現場は共通項も多いけど、全部が全部同じというワケではないというのと、そもそも俺がアイドルオタクとして描かれるもののマジョリティ側ではない(拗らせ散らかしているため)という2点が原因だと思っている。

この話をすると、普通にカドが立つのだけど、ライブ会場の前で開演前にオタクたちが円陣組んで掛け声叫んでるやつとか、ライブ終演後にオタクが主導する3本締めとかがあまり好きじゃない。

この2つが好きじゃないの「誰のため」にやっているのかという視点が、演者ではなく、オタク自身に向いていると思われるからという1点に尽きて、そうじゃない人もいるのかもしれないけど、集団に所属すること自体に価値を見出している人がいたり、オタクの集団で影響力を持つことに価値を見出している人もいるんじゃないかなと思う。(その構造からトップオタクなんて言葉が生まれたりもする)

だから、わざわざ他のオタクに見せつけられて、なおかつ演者に届くわけではない、会場の外という場所で大きな声を出して円陣組んだりしてる(チクチク言葉)と思うのだけど、そういうものにあんまり興味がなかった。

それよりも、俺は1人1人がここまでどんな人生を歩んできて、どんな生活の中でその人と出会ってココにいるのかという話だけに興味があって、それは集団で居ることでは十分に知れることではなく、あくまでも1人1人と膝を突き合わせた時にだけ知り得ることだと思っていたので、スフィアで繋がっている友人たちは、いずれもそういう関係性を積み上げていった先にある関係性だと思っている。

ただ、俺が横目で見ていた円陣の輪は、俺の周りのコミュニティよりも大きなもので、オタクという概念において、圧倒的にマジョリティ側なのはあちら(だからカドが立つのだが……)なので『あの頃。』も、このオタク観の違いが怖いな~とは思ってはいた。

この映画のキービジュアルである、オタクが肩組んでる感じがあんまり好きじゃないという話なので……。

話が逸れるけど、私の拗らせたオタク観の極論を煮詰めた映画が『アンダー・ユア・ベッド』で、アイドルオタクの話ではなく、たった一度、自分を見つけてくれただけの女性を神格化して追いかけ続ける男の話なので、客観的にみても俺が異常者という感じがある。

実際に、このお話で描かれていたのは『円陣を組む側』のオタクだったなと思っている。

その上で、この映画は『円陣を組む側』のオタクにも、わざわざ言葉にせずとも、それぞれの人生の中でアイドルに救われた瞬間があって、形は違えど、同じく青春を燃やしていたのだという、当たり前のことを教えてもらったような気がした。

映画の中で『恋愛研究会。』というバンドを結成したおじさん6人が、モーニング娘。の恋INGという楽曲をカバーして、ステージで熱唱する印象的なシーンがある。

それは、決してモーニング娘。に届くわけでなく、届けようとして歌ったものでも無かったのだけど、音楽で食べていくという夢を諦めかけていた時に、松浦亜弥と出会って救われた劔くんが、もう一度音楽をやろうと思えた先にあるステージが、松浦亜弥と出会ったことで繋がれたおじさんたちと全力で歌うモーニング娘。のカバーだったという景色は、私にとって、ものすごく『美しい』ものだと感じたのだ。

終盤のコズミンの在り方も良かった。

オタクとしても人間としても、決していい人間ではなく、外からみたら笑ってしまうような棺の様相や、最後の死に際だったと思うのだけど、死んだ姿やブロンズ像になった姿をみて「笑ってしまう」ような人生を貫き通したコズミンと、彼と過ごしてきたあの頃の日々が、どうしようもなく美しかったから、泣けてきてしまうんですよね。

あと「ライブ」という行為が、ステージに立つ側からも、観客席の側からも、徹底して生きることのメタファーとして描かれていたからこそ、コズミンの死との対比が際立って、逆もまた然りという構造は見事だったなと思うし、この映画を美しいと感じた根底の意志は、この「ライブ」という概念の解釈にあったように感じている。

最後、現代の剣くんが、橋の上でコズミンと話すシーンが非常に良くて、劔くんはかつて松浦亜弥のCDを買いに行った方向と同じ方向へと歩み出す。

これは、新しい始まりを意味していると思っていて、同時に「今が一番最高」という、道重さゆみさんの意志や、かつてナカウチさんが銭湯で語ったことを、今の劔くんが体現しることを示していたのだと思う。

橋と橋で川が受け渡され、今を生きている劔くんは、その橋の上の想い出に捉われるのではなく、そこで得たあの頃の思い出を胸に、新しい日々を歩んでいく。

そして、葬式でも笑ってしまうような人生を全うしたコズミンは、誰に知られるでもなく、人知れず、かつて仲間たちが語っていた「オタクとして最高の死に方」を遂げる。

それは、コズミンが今が一番最高の日々を生きてきたからこそ、至れた境地なのだと思うし、きっと、それぞれの人生を生き始めた『恋愛研究会。』のメンバーも、その想いを胸に、それぞれが思い描く最高の死に方へと行き着くのだと思う。

構成としてめちゃくちゃキレイにまとまっていたかというと、なんとも言えないのだけど、このラストシーンだけ抜き出しても抜群に美しかったので、これを描きたかったんだろうなと感じ、オタク観の相違があっても、その愛や信念のようなものは共通していたように思えたのだ。

俺がその輪の中に加わることは無いと思うし、この映画を観た上でも、そのコミュニティを羨ましいとは思わない(自分の周りの友人たちを誇りに思っているため)のだけど、それは別として、その人たちの在り方も『美しい』と思えるものであると気付かせてもらったのは、ありがとう……という気持ちだった。

NKJK

親友が病に倒れた。悲しみに暮れる日々の中、少女は知る。自分が親友の為に出来る唯一のこと、それは、笑わせること。「笑い」により、人体の免疫力を高めるという「NK細胞」を活性化させる為、少女は「笑い」の研究と実践を始める――。生死の狭間を笑いで描く友情の物語。

帰りの電車で読んだ。買ったまま読んでない漫画が溜まり過ぎている……。

意識したわけはなかったのだけど、奇しくも「笑い」「死」の話で、映画と内容が重なった感じがあり「笑うこと」というのも、生きることの象徴の一つなのだなと感じる。

お笑いモノ、説得力をもって作中のキャラクターを笑わせるために、読者を笑わせるネタと漫画のクオリティが求められ、極めてハードルが高い題材だと思うのだけど、この作品はネタの面白さというよりは、切実な熱量をもって、漫画としての素晴らしさと、笑いという題材の必然性を担保していたのがすごかった。

2巻のあとがきでその切実さの在処が明かされていた。いい漫画だったぜ。

今日の一ツイ

よろしくお願いします。

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