上海ハニー①〜2015年、夏〜

旅行が好きだ。特に海外。知らない国で、知らない人だけがいる国で歩き、風景を見るのがたまらなく好きだ。異国の土と空気は日本での退屈な日々を忘れさせてくれる。よく旅に出る人に使われる「自分探し」という揶揄は、いまいちピンと来ない。「自分」なんていう曖昧なものはそう簡単に探し出せるものではないし、それを旅に求めるのは色々と荷が重い。なぜ旅に出るのかと問われれば、刺激が欲しいからだ。人間は安定と安心を求める生き物である一方、不安定とスリルを求める欲深い生き物だ。それ以上でも以下でもない。

ふと、「今まで一番楽しかった旅行はどれか?」と考えてみた。

「上海だな」

我ながら驚くほど即答だった。

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2015年、6月。当時、大学1年生だった僕は必修科目である第2外国語に中国語を選んでいた。親戚の叔父がシステムエンジニアとして働いており、数年前に中国に単身赴任をしていた。中国の工場(?)で現地の人に技術を教えるという仕事だったという。数ヶ月の出張の末に帰ってきた叔父と会うと、大学に行ったら中国語を勉強することを強く勧められた。中国マネーがどんどん大きくなること、そもそも中国語の人口が圧倒的に多いこと、中国には日本の工場が沢山あり市場も大きいことなどを説明された。

第2外国語の選択肢の中には中国語以外に、朝鮮語(韓国語)、ドイツ語、フランス語、スペイン語があった。どうせ勉強するなら実用的なものがいいと思っていたので僕は迷わず中国語を選択した。

授業は週2回、火曜日と土曜日。どちらも中国人の教授で、火曜日の先生は60歳前後の男性。日本にいる中国語の教授の中でも名の知れた人だということを後から知った。土曜日の先生は女性で40代半ばぐらい。火曜日の先生が、特別な教室で生徒全員にヘッドセットを着けさせて中国語の文章を発音させ、それを先生の方にあるマザーコンピュータの方で聴き一人一人発音を直していくという考え抜かれた授業システムであるのに比べて、土曜日の先生は教科書に沿って淡々とレッスンをこなしていく退屈な授業形態だった(火曜日の先生のすごいところは日本人の特性である「人前で喋るのが苦手」な部分を、ヘッドセットを使って全員の耳を覆って発音しやすくしたところにあると思う。今考えてもよく思いついたなと思う)。

6月の半ば頃、土曜日の先生が授業が終わる時間が近づいた頃に、上海への短期留学に関するチラシを出してきた。黄色い紙に黒い文字が並べられてる紙を出して、夏休みの2週間で中国は上海に行き現地で中国語を勉強し、また中国の文化に触れるというありふれた内容を説明し、希望者は紙を渡すから授業が終わったら取りに来てと言った。授業終了後、紙をもらいに来る生徒が一人もいないことに痺れを切らした先生が、教室で昼飯について喋っていた僕たち数人に話しかけてきた。

「どうですか?上海」

友人たちは「いやいやご冗談を」といった感じで、全く取り合わない。そもそも中国語を勉強する理由なんて、社会で役に立つという理由よりも「漢字がベースだし、日本人ならいけるっしょ」という短絡的な考えで選んでる人が多い。しかし実際は漢字と言っても「簡体字」という通常の漢字を簡略化したものが普通だからパターンを覚えないといけないし、何より発音が鬼門だ。中国語には4つの異なるアクセント(声調)が存在し、声調によって同じ読みでも4つの意味と異なる漢字がある(※)ので一つ発音を間違えると意味不明な文章になるという結構高い壁がある。

そんな中国語だから僕も友人たちも「こんなに難しいなんて聞いてない」とうんざりしていた。まして第2外国語の必修期間は2年ある。夏休みぐらい離れたくなるのは当然だった。

先生は「楽しいですよ!中国語もしっかり学べます!」とハイテンションで食い下がり、期待の眼差しを僕たちに向けてきていた。

気づくと僕は手を差し出し「ください」と紙を一枚もらっていた。友人たちが「えっ、行くの?」と驚いていたが「まあ、一応もらっておこうかな・・・」と軽くいなした。

そもそも僕は中学の頃から留学がしたいと思っていた。英語圏でそれなりに発展している国に1年くらい留学して、世界を見て、英語がペラペラになりたいと思っていた。中3の三者面談の時、留学できる高校に行きたい旨を伝えると先生と母親が少し困惑していたのを今でも覚えている。結局普通の高校に行ってラグビー部に入り、その間海外にすら行かなかったが、僕の中には留学の志がまだ残っていた。

大学は国際系の学科だったので留学や青年海外協力隊を希望する人が多く、既に英語がうまい人や帰国子女なんかもいて、目の奥がキラキラしている人がたくさんいた。きっとクラスの1軍だった奴が多いんだろう。入学当初のアメリカンハイスクール感さえ漂うキラキラパワーで充満した講義室の光景を今でも覚えている。

「こいつらとは仲良くできないな」

僕の中の劣等感が無意識にそう呟いていた。

結論から言うと僕は留学をしなかった。大学2年の夏休みにバイトで貯めた金を使って1ヶ月間東南アジアの国々を見て回った時に「結局俺は、日本を離れたかっただけなんだな」と痛感したからだ。

話を大学1年の夏に戻そう。

先生からもらったチラシには、簡単な行程や費用、応募用の記入欄などがあった。実家暮らしの僕は家に帰って母親にお願いし、なんとか行かせてもらえることになった。翌週の土曜日に必要事項を記入した紙を先生に渡し、日本を発つ前の手続きと留学メンバーの顔合わせを含めたオリエンテーションの詳細が書かれた紙をもらった。

思えば先生が授業で「短期留学」というワードを出した時点で、僕は行くことを決めていたように思う。とにかく一刻も早く日本から離れて外国を見に行きたかった。それはほとんど衝動みたいなもので、確かな理由は無く、僕はただただ日本での生活に退屈していた。仲のいい友人もいたし、家族との仲も悪くなかったけど、僕の魂は新しい刺激を渇望していた。

「大学に行ったら学生というモラトリアムを享受したまま自由な時間が増えるし、絶対海外に行きたい」

「でもまだまともにバイトしてないし、そもそも浪費癖があるから行くにはまだまだ時間がかかる・・・」

そう考えていた時に不意に現れた「短期留学」というめちゃめちゃ強い口実。

僕はそれまで親にあまりねだったりすることは少なかった分の貯金を活かし、ここぞとばかりの親の脛をかじって貪った留学費用16万円とパスポートを手に、iPodでオレンジレンジの『上海ハニー』を流してオリエンテーションが行われる会場に向かった。


※声調の例(Mt.ian Radioさんのnote 中国語note 第二课「声調」より引用 https://note.com/mt_ian_radio )

「ma」の1声は、お母さんという意味の「妈妈mā mā 」の「妈mā 」
「ma」の2声は、日本語の麻布と同じ意味「麻布má bù 」の「麻má」
「ma」の3声は馬の「马mǎ」が代表的
「ma」の4声は罵るという動詞の「骂mà」

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