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勉強は何のため?

勉強は何のためにするのですか?と子供に聞かれたらなんて答えますか?

私は、「生活を豊かにするため」と答えようと思っています。

以前は、勉強ができれば「良いところに就職して、楽ができるんだよ」って思っていました。私の親もそういっていました。でも、それでは幸せとは限りませんでした。別に不自由ない暮らしはできました。でもなぜか「豊か」だと思えなかった。

東京で働いていた時、お金には困っていなかったし、食事にありつけなくて困るなんてことはなかった。それどころかお店には何でもありすぎて何を食べていいか困っていた。でもそういうときって、何を食べてもあまり満足できなかった。贅沢なことだと思う。

人の生活は「衣食住」とはよく言ったもので、現代は「衣食住」にかかる、面倒であり大変な部分をお金で買う。ファッションを気にして、外食を楽しみ、マンションを借りて暮らす。さらに、楽しさというものをそれ以外のところに求めて、そのためにまたお金を払う。

「衣食住」にもお金がいるし、それ以外にもお金がたくさんいるから、たくさん働かなければいけない。そうして過ごしているうちに、企業はどんどん新しいものを見せびらかして買わせようとしてくる。すべてを買えるわけはないから、必死にそれらに我慢しながら過ごす。でも新しいものを買っても一時的にはうれしいけれど、いっこうに幸せな気がしない。

トップの写真のような風景のある郡上という、都会からはちょっと離れた街に暮らすようになったら、電車に乗らなくなった。

電車のつり革広告とか、ホームの看板とか、外に出ればいやというほど見せつけてくる広告を見せられることがなくなった。ネットショッピングはするので、広告が全くなくなるわけではなくなるけど、自分の意志でシャットアウトできるようになった。

毎日、電車の帰り際に外食店の並びの通りや、コンビニの中を通り過ぎるようなこともなくなった。自然と、食事は家族で作るものになった。

今は賃貸ではなく、親の家に住まわせてもらっている。とてもありがたいことだけど、もし何かあったらすべて自分たちの責任というのも怖い気がする。古くなってきて、ドアが壊れたりすることもある。エアコンも古くなっていく。コンロも古くなれば火がつかなくなったりする。そういった場合自分で治せるものは治すようになった。車の冬のタイヤの交換も自分でするようになった。

ただ、衣服に対しては、東京のころから、周りの影響を完全にシャットアウトして好きなように(つまり無頓着に)していたので、そのままだった(苦笑)でも、多少は変わった。お店が通りがかりにあるわけでもなく、そのために出かけるのも面倒なので、穴の開いた服を自分で縫い直したりするようになった。別に生活には支障がない。

生活は180度とは言わないまでも120度ぐらい変わっているのだけれど、確実に言える。「生活が豊かになった」なあと。

食事を作ろうと思えばいろんな知識が必要なのだけれど、パンを焼こうと思うと発酵だとか水分とか温度だとか、科学的な知識があると納得することも多い。

台風が来た時に吹っ飛んだ庭の板を拾って釘で打ち付けたりもした。雪が降れば、朝いちばんに雪かきをしないと車が出られない日も、年に数回あったりする。

それらをやるたびに思う。

「ああ、これらのために勉強していたのかもしれない」と。生活の様々なことを自分でやろうとするとそのために知識であったり、科学であったりの情報が役に立つことが多かった。

そして、その心地よい疲労感というか、幸福感というか、お金を払ってやってもらって、出来栄えに文句をたれていたころとは違う。やっぱりサービスを受けるだけでは、所詮、分け与えられるものを受け取るにすぎず、自分で湧き出るものとは比べ物にならない。

結果的に、「衣食住」(私の場合は主に食と住だけれど)のサービスを受けなくなり、かけるお金が下がって、生活のためにかける時間が増えたけれど幸福感は増えた。今、過去の自分のイメージで言う「楽」じゃない生活をしているように思うのだが。

昔から人は、危険であれば、何とかして安全に暮らせるようにしようとして、おいしいものがなければ、食べ物を探し、おいしく食べようと工夫し、寒ければ、何とか寒くないようにするなど、いろいろな試行錯誤をしながら生きてきていて、それでおいしいものが食べられれば幸せだと思ってきたのだろう。

やっぱり現代になっても人の幸福感の根本は変えられないのかもしれない。

好きだと思って仕事をしているのならばまだ良いけれど、お金を稼ぐために決まった時間だけ働き、会社の都合で理不尽に怒られながら仕事をして疲れて帰って、お金を払って食事をしても満足できなかった場合どうするか。日本の経済活動からすると、さらに高いサービスを受ければ満足させますよ、と言う。私もその方向しかないのだと思っていた。じゃあ、そのためにもっと働くのが正しいのか?

逆に考えてみて、サービスを受けるのをやめてみたらどうか。例えば自分で食事を作る。既に作っている人は、より時間のかかる料理に挑戦してみる、そうすれば外食の費用は減る。出ていくお金は減るから、仕事を減らす。余裕ができるから、その分を生活にあててみる。

私は40過ぎて、やっとその方が幸せと感じることに気づいた。自分で畑で作ったイチゴやスイカは、手間の時給を考えれば、コンビニでバイトしてスーパーで買った方が何倍もの量が入手できる。しかし、育てる過程で、受粉させたほうがいいのか、何か敷いた方がいいのか、伸びすぎたらどうすればいいのか、いろいろ無償で世話をして育てたスイカを食べたときに感じる幸福感と達成感は、仕事で働いて買ったスイカとは比べ物にならなかった。必ずしも「楽をする」ことが幸せを増やすことではないということが分かった。食べる行為と食べたもの自体は大差ないはずなのに満足感が違う。おいしかったときはまた作ろうと思い、あまりおいしくなかったときは、次はああしようと未来の目的ができてくる。

最初に戻って、なぜ勉強するのか。

この時点で、楽をするため、ではないと思う。決してそれは幸福とは限らない。自分で苦労を伴って得た「楽」であるから、幸せを感じるのであって、サービスで得た楽は、物足りなさを感じる。

やはり、生活のため、ではあるのだけれど、生活をするお金のため、というと違うと思う。自分の生活をよりよくするための能力を身につけるため、と言うと近い気がする。

既製品に囲まれた生活がおしゃれといわれたこともあったが、それではみんな物足りなくなって、DIYだ、とか言い出しているのだと思う。でもDIYも商売の道具になってしまって、DIYのために素材を買うとより多くのお金がかかったり、DIY講座とか、いったい誰が何のためにやるのかよくわからなくなっている。DIYってのは自分でやるからDIYなのであって、教えてもらってやったら工作教室だ。ある意味、その工作ができるような生活に役立つスキルを学生のときに得られなかったから、大人になってから講座をお金を払って受けなければならない。

長々と書いてしまったけれど、世間も気づいてきているように、サービスを受けているだけでは満足できなくなってくる。提供側はどんどんお金を払わせようとしてくる。湯水のように儲けている人はそれで満足できるかもしれないが、一般庶民はいいようにお金を取られて幸福感も奪われるということになるような気がしている。

子どもたちには、勉強するか迷ったときは、「生活を豊かにするか」と考え、そうであればしておいたほうがいいし、そうでなければしなくていいと伝えたい。当然、「好きであること」は、止める必要はない。知的好奇心を満たすことは幸福感につながるし、きっと将来どこかで役立ってくる。けれど、将来、楽するためとか、お金のために勉強しろ、とは言わないようしよう。どうせ、子どもも納得しない。

ちなみに、わたしのやってる小中学生向けの「郡上ロボットクラブ」は楽しくて、かつ身近な電気のこと、工作の知識、その他生活に関わる「役立つスキル」を磨くのに最適です。将来、生活を豊かにするのにためになります。現にその辺の知識が自分の生活に役立ってるんだから間違いない。

宣伝もできたところで、この辺で終わります。


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