ショートショート 「死のニオイ」
死の匂いが分かる。もうすぐ死ぬ人から発せられる独特な匂い。例えるなら、泥水の様な。あまり良い匂いではない。
初めて死の匂いを嗅いだのは、約12年前。祖母が亡くなった時。いつも石鹸の良い匂いがした祖母から、急に不快な匂いを感じた。心不全で亡くなったのは、それから2日後のことだった。父が亡くなった時も、不快な匂いを感じた。泣きながら「死なないで…」なんて言って、何も知らない父を困らせた事もある。
超能力と言ったら大袈裟かもしれないけど、恐らく私にしかない能力。こんな能力を持ったところで、嫌な気分になるだけだから要らないと思っていた。街中でこの匂いと遭遇したら「あぁ…」と心の中で手を合わせる。勿論、良い気持ちではない。見知らぬ死を無駄に知ってしまうだけだ。ただ、この能力に意義があるとしたら、恐らくこの時の為。私自身から“死の匂い”が発せられるようになった。
いつもの様に、大学へ行く為満員電車に揺られている時だった。匂いがしたのは、かなり近く。そっと目を閉じ、心の中で手を合わせた。違和感を感じたのは、電車を降りてから。匂いが遠ざからない。「まさか…」と思いつつ確認の為トイレの個室に入った時、疑念は確信へ変わった。
〈来週の土曜日空いてる?映画見に行こう!〉
〈良いよ!帰りはパスタ食べに行きたい!〉
高校時代からの親友、友美とのラインのやり取りを見返して涙を流した。
〈久しぶり!元気にしてる?たまには帰って来なさいね〉
〈時間に余裕が出来たらね〉
淡白な返事ばかりになった母とのやり取り。県内の大学に進学したため、帰ろうと思えばバス片道1時間30分で帰る事が出来るが、少し時間を置いて、立派になった私を見て欲しかった。
〈急だけど、今日帰るね〉
最初で最後の無断欠席。初めてやる悪い事はワクワクするらしいが、残念ながらワクワクは出来なかった。
改札を出てバス停へ向かう途中、同じ大学へ通う篠山君とすれ違った。話したことはなく、同じ講義を受けてるだけの関係。一瞬目が合い、“はっ”とした様な表情をしたかと思えば、すぐに怪訝な表情を大学とは真逆の方向へ歩く私に向けた。バスの時間まで余裕が無かった私は、気付かない振りをして、早歩きで逃げる様に立ち去った。
バス停に着いた9時32分、空模様は怪しくなってきた。仮に大雨に打たれたとしても、この匂いが取れる事はない。大雨の中、傘もささず、ずぶ濡れになりながら忌々しい匂いを発する小学生を見たときは、洗い流せない運命の残酷さを知らしめられた。
9時35分にバスが到着し、乗ってすぐ出発のアナウンスが流れると、“ポツ、ポツ”と、窓を引っ掻く様な小雨が降ってきた。
〈今日は休みなの?〉
〈そうだよ〉
次の停車場所に着くまでの間に、小雨はバケツをひっくり返した様な大雨となっていた。エンジン音が静かな分、煩すぎる雨音は余分に耳に響いた。
一言「今までありがとう」と、自分の声で言えればそれで十分だと思う。本来であれば、感謝なんて伝えられず死んでいくのが普通だ。この能力のおかげで死ぬ前に言葉を伝えられるのだから、やはりこの能力には感謝するべきかも知れない。
自分の死の匂いに気付いてから、約1時間程経つが、こんなに長く死の匂いを嗅ぎ続けたのは初めてだ。おかげで死を意識しない瞬間がない。
外であればまだ我慢出来るが、行動範囲が限られているバスの車内でこの匂いは気が滅入る。オマケに実家の最寄りのバス停は終点。本来であれば、「寝過ごす心配なく寝られる」と喜ばしい事だが、今回は話が違う。狭い座席で、死に抱かれる1時間30分。
〈気を付けて来るんだよ〉
〈分かってるよ、大丈夫〉
早く母の顔が見たい…。
終点に着く少し前には、あの大雨は嘘の様に止んでいた。相変わらず雲は分厚い。相変わらず死の匂いは消えない。一定の匂いの濃さを維持している。一定じゃないのは、私の心。
「人間いつかは死ぬんだから」と死を受け入れようとする私と、「でも、まだ…」と死を受け入れられない私。
“死を前にすると後悔する事がある”なんて事をよく聞くが、不思議と後悔はなかった。平凡な人生ではあったが、充実した一生だったという事だろう。それか、この人生に思い入れが無いかのどちらか。自分でもよく分からない。
もちろん、やりたい事はまだまだある。だけどそれは後悔とはまた違う感情。やり残した訳ではない。例えるなら、カレーライスを1皿完食して、まだ食べたいけどおかわりが出来なかった感じ。
後悔はなく、ただただ絶望と死の匂いが私を埋め尽くしていた。
〈急だったから大したもの用意出来ないけど、肉じゃが作って待ってるね〉
〈ありがとう〉
手土産を持って来ていない事に気付いたのは、潰れてしまった津久田さんのケーキ屋の跡地を通った時。近くには、壊れたタバコの自動販売機しかない。取り敢えず、スマホのカメラを起動し笑顔を練習した。歩きながらぶれる笑顔。
笑顔
笑顔
笑顔
…
“笑顔”と意識する度に、視界はだんだん足元を映していく。
視界が完全に足元を映して数分が経った頃、実家の敷地の砂利を踏んでいた。
数年振りの実家。しかも、ただの帰省とは違う。死の直前の最後の帰省。庭に一歩足を踏み入れるだけでも緊張が走る物だと思っていた。何の緊張も、何の感動もなく足を踏み入れた事に自分でも驚いた。驚きながらも、歩みは止めない。
そして、やっぱり当然の様に玄関のドアを開ける。
「ただいま」
あの頃と同じ「ただいま」。あれだけ意識した笑顔もない。大好きな実家に死の匂いを持ち込む悪い娘。
「お帰りなさい。全然変わらないね」
「まだ2年しか経ってないからね」
「そっか。ささ、上がって上がって」
部屋に入ると、テーブルの上にジグソーパズルのピースが散らばっていた。
「1ピース2円なんだ。それは1000ピースだから完成させたら2000円」
父の遺産と内職の収入で生活する母。
「1000ピースか…大変だね。あ、お線香あげてくるね」
「はーい」
和室の仏壇には、父がよく飲んでいた安物の日本酒が供えられていた。おっかなびっくりマッチでろうそくに火をつけ、線香をあげる。
「みんな、ただいま」
揺れる火を見ながら挨拶をする。
「肉じゃがもう少しで出来るからちょっと待っててね」
「はーい。何か手伝おうか?」
何と言うか、驚く程“日常”だった。肉じゃがを作る台所に行っても、死の匂いのせいで肉じゃがの匂いがしないにも関わらず、これを普通と感じた。さっきまでの鬱々とした気持ちが嘘の様だった。
「大丈夫。久しぶりの実家なんだし、ゆっくりしてて」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
後ろで皿が割れる音がしたのは、その後すぐだった。
「お母さん!?大丈…え?」
肉じゃがの匂いがした。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?