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その時、新宿はどれほど騒乱したのか その2

こんにちは。決して過去のことではないという思いで、『2022年の連合赤軍』(清談社Publico)を上梓しました。深笛義也と申します。今回の出版には多くの反響があり、半世紀前の事件を掘り起こすことにも意味があると感じました。私が過去に雑誌に書いたノンフィクションに加筆して発表します。

連合赤軍のやや前の時代に起きた、新宿騒乱事件の記事。2回に分けて、お届けします。その後編です。

1968年 国際反戦デー 新宿騒乱事件 後編

          『週刊新潮』2008年10月30日号に掲載の記事に加筆
           前編はこちら

騒乱を一目見ようと、歩道も車道も広場も人で溢れた。集まったのは、1万人とも2万人とも言われている。駅の東側は、伊勢丹の辺りまで人で埋まった。

新宿駅のホームにいた乗客は、午後6時半頃、こんなアナウンスを聞く。

「全学連の学生が、代々木駅から線路を歩いて新宿に向かっています。電車の運行をしばらく中止します。ご了承ください」

乗客たちは、ホームの代々木方向の端に動いていく。全学連を見ようというわけだ。それでも見えないとなると、多くは駅を出て、代々木方向が見渡せる南口駅前の陸橋に集まった。

「おっ、見ろ。来たぞ! あれだ」と声が上がる。赤の地にモヒカン状に太い白線の入ったヘルメットの50人ほどが、線路の上を進んで来る。ML派だった。白ヘルの中核派の他に、ML派と、赤ヘルの第4インターが新宿を目指していた。

代々木からやって来た中核派の学生たちは、機動隊に阻まれて東口広場に降り立った。鉄筋入りコンクリート棒を突き当て、この日のために作られた鉄壁を壊す。大ガードにあった映画の大看板を剥がして、線路に入って行く者もいる。改札口からも入って行く。

当時、新聞社や放送局に会員を組織していたのが、マスコミ反戦連合委員会。その委員長だった蔵田計成氏(2020年に逝去)も現場に赴いた。

「ペンをゲバ棒に持ち替えるべきかとも考えたのですが、せいぜい石を投げるくらいの戦闘的市民、アクティブな野次馬として出かけていくことにしました。広場で肩車に乗って『米タン(米軍タンク車)阻止するのが日本のベトナム解放戦争だ』とアジテーションしましたよ。野次馬が機動隊に抗議して詰め寄っている場面も、そこかしこで見られましたね」

騒乱の中で機動隊は拳銃を奪われる

駅の中も外も、デモと群衆が渾然一体となった。防衛庁前で機動隊に散り散りにされたブントや、国会前で蹴散らされた革マル派も新宿にやってきた。

当時、警察学校を卒業して、機動隊に配属されたばかりだった男性は語る。

「その後と比べると、当時の機動隊の装備は問題にならないくらいに貧弱だった。ヘルメットなんかちょっと大きな石が当たっただけで割れてしまう。乱闘服の手の甲の部分に鉄板が入るようになったのも後から。ネットで投石を防いでいたんだけども、それを持っている手を角材で叩かれると、どうしようもなかった」

「とにかく機動隊のやられっぷりは凄かった」と語るのは、警視庁で外事課長でありながら機動隊の全指揮を執った、佐々淳行氏(2018年に逝去)だ。3200名の機動隊のうち、1600名が負傷者名簿に載ったという。

「これは今だから言える秘話だけど、ある機動隊の部隊がデモ隊に取り囲まれてボコボコにされ、拳銃を奪われてしまったんですよ。これには秦野総監も激怒した。現場付近で一斉の検問をやらせて、拳銃を取り戻せと私に言うんです。慌てて現場に検問実施の指示をしたら、『あなた、現場が分かってるんですか』という具合。とにかく、膨れ上がるデモ隊や群集に、機動隊5個隊が完全に押されていて、とてもじゃないが検問なんかできる状況じゃない」

列車や駅舎に火が付けられるに至り、深夜0時15分、騒乱罪が適用される。52年の血のメーデー事件、吹田事件以来、16年ぶりの適用だ。

「秦野総監ももはや適用しかないと強硬に主張されました。騒乱罪適用で、機動隊の士気は、一気に上がりましたね」と佐々氏は言う。

ヒッピー野郎!と、殴られる

南浩志氏(仮名)は当時19歳。レストランで皿洗いしながら、マンガ家を目指していた。当日は一眼レフカメラを持って、戦場取材の気分で写真を撮っていた。

一進一退が続く中、向かってきた機動隊員に南氏は殴られ、前歯2本がへし折られ血まみれになる。サラリーマン風の2人の男性が、「大丈夫ですか?」と声をかけてきた。血が止まらずブルブルと震えながら、「機動隊にやられた。写真を新聞社に持ち込む」と話す南氏を支えながら、親切そうに付きそう2人。だが周囲に人影がなくなると、急に態度を変え、「このヒッピー野郎!」と叫び、殴る蹴るの暴行を加えてきた。恐怖に駆られた南氏は、病院にも行けず1週間寝たきりで過ごしたという。2人は私服刑事だったに違いないと、南氏は話した。

20歳の時、アシスタント仲間の先輩だった南氏からこの話を聞いたのが、マンガ家のイエス小池氏。マルクスやレーニンに興味を持ち、小林多喜二に行き着いた。『劇画 蟹工船 覇王の船』(宝島社文庫)を上梓している。

まくら木も焼かれ、計器類も壊され、翌朝も駅は復旧せず、90万人の通勤客に被害が及んだ。

翌年の東大安田講堂への籠城を皮切りに、機動隊に向かって火炎瓶が投げられるようになり、角材は鉄パイプに持ち替えられた。

70年代になると、各派の内ゲバが激化、連合赤軍によるあさま山荘事件が起きる。爆弾を使ったゲリラも多発。もはやデモ隊と群衆が溶け合うことはなかった。

新宿騒乱は、デモ隊と群衆が一体となって熱狂した、最後の祭となったのだ。


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