見出し画像

その時、新宿はどれほど騒乱したのか その1

こんにちは。決して過去のことではないという思いで、『2022年の連合赤軍』(清談社Publico)を上梓しました。深笛義也と申します。今回の出版には多くの反響があり、半世紀前の事件を掘り起こすことにも意味があると感じました。ここでは、私が過去に雑誌に書いたノンフィクションに加筆して発表していきます。

最初は、連合赤軍のやや前の時代に起きた、新宿騒乱事件の記事。2回に分けて、お届けします。

1968年 国際反戦デー 新宿騒乱事件 前編

         ※『週刊新潮』2008年10月30日号に掲載の記事に加筆

騒乱の坩堝に陥れると宣告されたのは、新宿。1968年10月21日。国際反戦デーだった。

その反戦デーに、なぜ騒乱か? 67年8月8日未明、新宿駅ですさまじい爆音と共に、空に向かって炎が噴き上がった。ブレーキ操作のミスによる衝突で炎上したのは、米軍のタンク車。積まれていたのは、ベトナム戦争で使われる、航空機用ジェット燃料だった。

新宿がベトナムに直結してることが、事故によって明らかになってしまった。米軍タンク車の走行を、反戦デーに阻止しようというわけである。

主導したのは、新左翼セクトの雄、中核派だ。現在は中核派と袂を分かち、独自の選挙を経て杉並区議であり続けている、結柴(けしば)誠一氏は当時、横浜国立大学の全学自治会委員長だった。

「新宿は今以上に若者の街。歌で反戦を訴えるフォークゲリラなども、西口広場を埋め尽くす人を集めていました。僕らが、東口広場で集会を開くと、周りに群衆が集まってくる。地熱が高まっているという感じがしましたね。防衛庁を攻めるというブントに負けたくないという気持ちもありました。その頃はセクト同士も、どれだけ闘うかっていう、いい意味での競い合いだったんです。終わった後に『ブントもよくやったな。でも残念ながら、こっちの勝ちだったね』なんて、互いに認めあっていた」

火炎瓶を投げるべきか否かで論争

新左翼セクトの一方の雄、ブントが標的としたのは、防衛庁だった。しかしこれは、ブントの中でも論争があった。

「民衆と結びつくべきだと考えて、新宿に行くべきだと、僕らは主張したんです」と言うのは、評論家の三上治氏。当時は運動に青春を捧げ、8回生で中央大学に籍だけがあった。

三上氏たちは『叛旗』という機関紙を出し、ブントの中でも独特な存在。ヘルメットには「叛」の一字を入れていた。ジョン・レノンは「 Power to the People(人々に勇気を)」日本版シングルのジャケットで「叛」のヘルメットを被っている。それは三上氏がプレゼントしたものだった。

「その年の8月3日、中大の講堂で開いた国際反戦集会に、その後レノン夫人となるオノ・ヨーコさんが来たんです。お土産は何がいいかと聞いたら、ヘルメットがいいと言うので、一番格好いいのを上げました」

後に赤軍派議長となる塩見孝也氏(2017年に逝去)は、ブントの政治局員だった。

「火焔瓶を投げるべきやと、俺は言ったんや。半年後には当たり前になる火焔瓶が、その時は大問題やった。政治局の大勢は火焔瓶支持やったんやけど、それやったら組織を割って出ていくと、1人が強硬に反対したんや」

水道橋のビルの地下にあったブントの本部「戦旗社」で、本番の前々日、夜を徹して論争が続いた。用事があってやって来た学生たちは足を止め、議論の行方に耳を傾ける。気になるのも当然。もうすでに明治大学の構内に、大量の火焔瓶が作られていた。

「結局、火焔瓶は使わず、丸太で行こうということになった。俺は今でも、あの時火焔瓶投げとったら、後の展開も違っていたと、悔やまれてならんのや」と塩見氏。

防衛庁を攻めると公言していたブントだが、前日の10月20日、ブントの学生組織、社学同の26人が防衛庁に乱入、中央通信所の電話課事務室を占拠してしまう。赤旗を振りながら入ってきた一群に気付いて、正門の警備員が「もしもし、ちょっと待ってください」と声をかけたが、走って玄関から入ってしまった。学生たちは角材で机やロッカーを破壊し、駆けつけた機動隊に全員逮捕された。

公言した標的を前日に攻めるブントは、なんとも大胆。当日の防備が堅くなり不利ではないのか? そんな疑問に「ちょっとやってみよか、と軽い気持ちでやったら、できてしもたんや」と塩見氏は答えた。

防衛庁に丸太で突撃

10月21日がやって来る。当日の夕方から夜にかけては新宿駅周辺に近づかぬようにと、秦野章警視総監(当時)の異例の談話が発表された。新宿駅では、外から構内に侵入できないように、高さ2.5メートル、延長70メートルの鉄壁が張り巡らされていた。

当日は、全国の66大学でストや授業放棄。北海道、東北、静岡、名古屋、大阪、福岡でデモが行われた。新宿と防衛庁の他、国会とアメリカ大使館も標的となる。

『パンタとレイニンの反戦放浪記』(彩流社)などの著書がある椎野礼仁氏は、慶応大学の1年生でブントのシンパだった。

「駿河台の中大キャンパスに入ると、赤ヘルで埋め尽くされていました。後に加藤登紀子さんと獄中結婚する藤本敏夫氏は、この時ブント系の反帝全学連委員長。壇上に彼が立ち、アジテーションしていました。校舎は、どの窓にも学生が鈴なりになって、見下ろしていましたね」

芥川賞を受賞する前で、同人誌に作品を発表していた中上健次氏も、ここに参加していた。

パレスチナで活動した日本赤軍の最高指導者だった重信房子さんは、明治大学の学生で参加。「旗を持って歩き出すと、いつのまにか何十人もの学生たちが後ろに続いていたりしましたね。あの頃は」と笑う(取材時は、東京拘置所に収監中。本年、刑期を終えて出所予定)。

部隊は、3回に分かれて出撃する。総合誌『情況』編集長を務めた大下敦史氏(2018年に逝去)は、その最先頭にいた。早稲田大学の学生だった。

「千駄ヶ谷で電車を降りたんです。六本木まで走る途中で、あらかじめ目星を付けていた材木屋さんで丸太を調達しました」

午後5時頃に到着すると、さすがにこの日は、防衛庁の正門は閉まっていた。30本ほどある丸太を、隊列を組んだ部隊がそれぞれ両腕に抱える形で、正門にぶち当てる。その後ろには角材を持った部隊が続いている。ドーン、ドーンと派手な音がするが、正門は開かない。

現場にやってきた機動隊は、遠巻きに見守っていた。

「1台の機動隊の幌付きトラックが走ってきたんだけど、たちまち取り囲まれて、角材と投石でフロントガラスはめちゃくちゃになりました。運転手は何も被ってなくて、頭を抱えてうずくまっている。その時何者かが、トラックをよじ登って行って、運転手に赤ヘルメットを被せてあげました」と椎野氏。

これ以後、デモ隊と機動隊は憎悪剥き出しでぶつかり合うが、この時には、そんな場面もあったのだ。

新宿はどうなっていたか。新宿駅ビルは、午後9時の閉店を2時間繰り上げ、午後7時にシャッターを下ろした。多くの店はそれに倣ったが、例外も少なくなかった。夕方の飲食店は、大入り満員。特に駅前広場を見下ろせるビルの店などは、こぞって客が窓際の席を目指す。ビールでも飲みながら、観戦しようというわけだ。

米軍タンク車はというと、発駅である川崎の浜安善駅に、前日から留め置かれていた。

Amazon.co.jp: 2022年の連合赤軍 50年後に語られた「それぞれの真実」 : 深笛義也: Japanese Books

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?