ギヴン感想文

徹夜明けで見ても寝ない映画は名作だとアニメオタクのノンフィクション作家の本で読んだことがあるが真理だと思う。
一睡もせずバキバキに徹夜した朝一番にギヴン観た。2回目も多分2時間睡眠で8:30の回で観た。寝ないどころかベシャベシャに泣いた

それ以前に作品に触れて5日の女をクソデカ感情で殺すギヴンヤバい。5日でアニメマンガ映画を全部食ってしまいました。過剰摂取で死んでしまいました

アニメを先に見たのだけど「冬のはなし」で真冬の「じゃあ俺のために死ねるの?」を初めて見て震えた、これはやばいな?と思ってマンガに手を出したら由紀と真冬で脳のキャパがおしまいになってた

アニメとマンガをとりあえず2周して映画行ったら映像の秋雨がヤバすぎておしまいになってた


そんなわけで秋彦と雨月が中心の考察を書きました、秋春は書きたい本筋とズレるので言及しないことにしたけれども大人組で1番春樹が好きです

ストーリーの感想を述べながら「冬のはなし」と「夜が明ける」演奏後の間に起こった真冬と雨月の心境の変化を考察してみる


考察を書くにあたって他の方の考察は一切読まずに書いてみたのでかなり自己解釈ですがみんな違ってみんな妄想なので許してください これを書き終わったらある考察ぜんぶ読む(池の水ぜんぶ抜く)

なんとなくテーマとして

「雨月の"夜明け"とは」

これを読み解くための手がかりとして「冬のはなし」「夜が明ける」の歌詞考察、加えて

「それぞれの"夜"はいつか」
「"ギヴン"とは何か」
「マグカップと"あれ以上"」

を追いたい。


(マンガ1~6巻、アニメ、映画、DVDBOXの特典"Strawberry Swing"のネタバレを含みます)

「冬のはなし」

「冬のはなし」は総じて由紀のための(理系で現文が苦手で音楽も聴いてこなかったまっさらな)真冬個人の心情だけで作られてるのがヤバポイントなのはあたりまえ体操
真冬が夏目漱石の「こころ」の心情がわからない(3巻p99)というのにかなりびっくりしてしまった、びっくりしすぎて1回こころ読み直しちゃったけど主人公の友達、自殺しますよね?やっぱり天才は感性が違うのかな


閑話休題

冷たい涙が空で凍てついて
やさしい振りして舞い落ちる頃に
離れた誰かと誰かがいたこと
ただそれだけのはなし

君がいなくても 夜は明ける
離れた手も やがてまた繋ぐ
長い夜の果てに人は光を知る
だから怖くても 生きて行ける
陽が昇れば また歩き出す
ほらもうすぐ 夜が明ける
だから大丈夫

はじめここについて「ただそれだけのはなし」がマイナス的思考、「だから大丈夫」がプラス的思考で真冬の心情がひっくり返ったのかなーと思っていたのだけれども、何度も読み返してみるとどうやらそうではない気がしてきた。
おそらく「ただそれだけのはなし」と「だから大丈夫」は同義語になる。


夜とは何か?
クソ雑に解釈すると「めっちゃ苦しい」のが夜で「何かしら事態が変わる」のが朝。

わたしは真冬の夜は「冬のはなし」の時点で明けている、と考えている。

真冬の夜が始まったのは由紀が亡くなった日。

「とある冬のはなし、とある夜のはなし、君はほんとうにいなくなってしまった」(2巻p126)

この長い夜の中にも夜明けがあったようだが(ex. 「とある冬のはなし、とある朝のはなし。」(1巻p83)など)大きな分岐としてライブの日が本当の意味での夜明けだと思う。

厳密に言うと「冬のはなし」作詞時点が夜明けを見据えた上での夜、さらに細かく分けると1番サビが夜、ラスサビが夜明け直前
、といった感じに見える。そこから立夏とキスしたタイミングが夜明けだと推測する。


あなたのすべてが
明日を失くして
永遠の中を彷徨っているよ

さよならできずに
立ち止まったままの
僕と一緒に

あなたのすべてが
形を失くしても
永遠に僕の中で生きてくよ

さよならできずに
歩き出す僕と
ずっと一緒に

対比がすごい(語彙)
1番注目したいこの曲でもっとも大事な点は
「さよならできずに歩き出す僕とずっと一緒に」
由紀が亡くなったことでさまよっていた真冬の由紀への気持ちを真冬自身に残したままなんとか収めて、一緒に生きていくことを決めたことで真冬は由紀との恋をとじて夜明けに向かうことができた。
しかし、歌詞上で、の話である。

大前提として「冬のはなし」はリハまで歌わなかったとはいえ真冬の中で本番前までに出来ていたわけであって、完成後かつ本番直前にギターの弦が切れる事件が起きているという点がミソだと思っている。

「俺は、その人たちに何を伝えたいんだろう」(2巻p30)

真冬は自分の気持ちを言葉にするということを恐れていた、なぜなら真冬は言葉にするのがへたくそで、由紀をそうして殺したからだ。そんな真冬だからこそ、誰かの前で、自分の言葉で歌うことで誰かの人生を意図しない形で揺るがしたくなかった。

加えてこの曲は意思表示が苦手な真冬の意思表明だ。これを歌ったら、「さよならできずに歩き出す」と歌ってしまったら、今真冬がいる由紀との思い出がいっぱい詰まった夜が明けてしまう。

ギターの弦はこころに似ているという。立夏に詰られたとき、真冬の心と弦は張り詰めた。歌いたい、伝えたい、でも伝えて由紀がさらに形をなくすのがこわい、夜が明けるのがこわい、といった気持ちのなかで、分かりにくいがいつも応えようと真冬なりに前を向こうとしてどうにか動いてきた先の最後の1歩で"立ち止まったままの"真冬を立夏によって揺さぶられたことで切れた。それを直したのも紛れもなく立夏であり「俺も言葉にして伝えるの下手くそだな」と寄り添った上で葛藤していた心が張り替えられたことでなんとか本番歌うことができた。

これが歌詞的に言えば立ち止まらなくなった、雨月的に言えば化けた、そして夜が明ける、じゃないかなと思う。
弦が切れ、張り替えられたのを境に真冬の「夜明け」が始まっていく。


「さみしいよ」(2巻p144 #9)

真冬は「少しずつ忘れていくこと」を「さみしいというのだ」といった。
本番歌うまで真冬は「さみしくない」と繰り返していたし実際そうだったのだろう、なぜならこれまで由紀への言葉を、さみしさを全部自分の中に大切に持っていて誰にも見せなかったからだ。自分自身にも然り。なぜなら「向き合いたくなくて避けてた」(2巻p83)からだ。

「お前伝えたいの?それとも言葉にするのから逃げたいの?」(2巻p50)

それが歌詞として言葉になって見えるものになって、真冬が逃げずにそれを声に出して観客にその感情を伝え、与えたことで「さみしさ」を直視して自覚した。同時に立夏に"立ち止まった心"であった弦を奪われ新しい弦を与えられたことでまた由紀が薄れた。"あなたのすべてがかたちを失くす"="夜が明ける"1ステップでもある。それは、さみしいことだ。この世で真冬しか持たなかった由紀への感情が歌詞となって真冬の身体の中から奪われて、まださよならできてないのに、立夏を好きになることでもっと由紀のいた季節から離れていくから、嫌でも朝に向かっていくからあの「さみしい」になったのかなと思っている。

そして曲が終わり夜明け秒読みまで来たところで本当に明けさせたのが立夏のキスだった。
「由紀が死んでからはじめて泣いた」("Strawberry Swing"#3)
立夏は真冬がこれからの人生胸に抱えておくだけの由紀の根幹は奪っていないにしても真冬に由紀のための歌詞を書かせたことで奪って、その上夥しい数の感情を与えている。さみしさも、さみしさに寄り添ってもらえた嬉しさも、立夏への恋情も与えたわけだ。もしかしたらキスは自分を許せない真冬に与えた許しだったかもしれない。多分それらが綯い交ぜになって真冬は泣けた。ここでやっとラスサビの歌詞と真冬自身が追いついてくる。

そしてライブで真冬が歌うことで与えた「さみしい」は立夏と春樹に伝播することになる。

いきなり「与える」「奪う」を連呼して申し訳ないのでここでわたしのギヴン論「ギヴンとは何か」を語らせて欲しい。


ギヴン=given、直訳すると「与えられる」
なにかを"与えられる"ということは必ずそれを"与える"相手が存在する。
例えば「才能を与えられた側の人間だ」と雨月が言った真冬に才能を与えた相手はおそらく由紀だということ。

そして"与える"ということはすなわちどんな形であれ対になって自分自身の何かが"奪われる"ということだと思う。
例えばギターを弾けるようにするために立夏が真冬に弦を与えたことで由紀の形見のさびた弦が奪われている。
由紀は真冬に愛の証明を与える代わりに命を奪われている。

つまり。
与える=奪われる、なら
given=与えられる=奪う
わたしは「ギヴン」は単に「与えられる話」ではなく「与え、奪う物語」だと思う。もちろん「与えられ、奪われる」とも言い換えられる。

この与え合い、奪い合いが大人組はさらに複雑に絡み合ってくる。こうして夜が明けた真冬は朝の視点から大人組の夜を眺めることになる


何言ってるか分からなくなってきた


哲学?

ギヴン、哲学?




「夜が明ける」


もう秋彦界隈めちゃくちゃすぎて死んだ、そんでこの辺から延々と行間を読んでいく考察みたいになって来るのヤバいなんだこれは


歌詞考察をする前にまず「"あれ以上"とは何か」について考えたい。

「秋彦がいると俺は音楽に対して自由でいられなくなるし 俺の存在は根本的に秋彦にとって苦しみだった」(4巻p23)
「傍にいたい それでも音楽を愛している」(p31)
「けれどもう、二度とあれ以上はないだろう」(p32)

あれ以上って何???

わからん


わからないなりに考察を述べます


このセリフが出たコマは秋彦がお揃いで買ってきたマグカップを雨月が割ったときの回想になっている。割った本人である雨月が泣いていて贈った側の秋彦が笑っている。


話は逸れるが雨月が紅葉の中を歩いていくところを秋彦が撮るシーン、いきなり突っ込んできた感あって不自然だったので意味のあるシーンなんだろうなーとなんとなく思っていたのだけれどもこれ多分マグカップと同じ比喩なんだね、自己解釈だからなんとも言えないがそんな気がする

https://youtu.be/7JIp61TXDHQ


予告では映っていないが雨月はこのあと振り返ってすごく悲しそうな顔をする。
"秋"の中に入っていって感覚として秋を感じている雨月に対して秋彦はそれを俯瞰して撮ってるだけなんですよね、自分と同じように秋彦も感じていると思ってたら違う。秋彦はそれでいいと思っている。2人は根本的に感性が違うから。
この"感性の違い"、感性を形作る"才能の種類の違い"こそが秋彦と雨月が惹かれた理由であり、かつ苦しめられる理由だろう。


「喜びも悲しみも苦しみも雨月は人の何倍も複雑に鳴らし、人の何倍も内に溜めて生きていて 俺はそれを強烈に妬み 強烈に哀れに思った」(4巻p21)

秋彦は秀才で、雨月は天才だ。お互いそれぞれに才能だけれども、雨月の才能はどうしたって秋彦は持てない。だから雨月の天性の才能を自分が持たないがゆえ強烈に妬んだし、天才ゆえのたくさんの感情を感じて溜め込んで演奏に内包できることを誰にも、秋彦でさえも全てを理解できないだろうということを哀れに思った。

「この針を全てこの体から暴き取って丸裸にして この音を濁してみたい、と」(4巻p22)
この針=感情を受け取ることの出来る天才の感覚器官 をすべてなくしてなんの才能ももたない自分と対等な雨月にしてみたい、と秋彦は思ったのだろうがそれが1番できてしまうのに完璧にやりきれないのが秋彦である。なぜなら誰より雨月と雨月の音楽を愛しているから。

「互いの存在が この世で一番互いを追い詰めていることに気付いた」(4巻p23)

雨月は天才で自分とは対等ではないという気持ちからヴァイオリンを弾く手には滅多に触れないくせに、ヴァイオリンを捨てたくせに、それでも対等になりたいからとヴァイオリンを続ける。不毛だ。

「秋彦がいると俺は音楽に対して自由でいられなくなるし 俺の存在は根本的に秋彦にとって苦しみだった」

雨月としても秋彦が死ぬほど好きだからこそせっかくの感覚器官が秋彦でいっぱいになってしまうから音楽に対して自由でいられなくなるのかなと私は勝手に思っている。
雨月がこれからもプロとして生きていくためには、秋彦以外の誰かの心情だとか曲に込められた思いだとかをその身体の針で暴かなくてはならないのに、秋彦のやさしい手でその針に蓋がされてしまっている。

「どんどん腑抜けてったわけ 俺が」

それはきっとどうしようもなく穏やかであたたかいし、だからこそ苦しい。この生活はお互いにとって音楽と正面から向き合うことにならないからだ。離れるべきだとわかっていても、傍にいたい。夜を漂っていたい。

「傍にいたい それでも音楽を愛している」(p31)

音楽を愛しているから、夜を終わらせないといけないとわかっていて1度別れたのにやっぱり朝に向かえなかったのはやっぱり秋彦といるのが苦しくても感性が違うからこそ生まれる愛があるからで。

「秋彦が死ぬほどすきだけど 俺から振っといて実際ぜんぜん離れられてないし きっかけがあるたび捨てようとして まだうまくいかないから 俺はずっとあいつから離れてくれるのを待ってる」(p24)

さて、相手を妬み哀れに思っているのは秋彦だけだろうか?違うだろう。秋彦が雨月の才能を持てないように雨月もまた秋彦の秀才としての才能を持てないから、同じ感性をもって対等になれないジレンマを抱えている。

「引き金さえあれば こいつも化けるのに」(3巻p70)

雨月は秋彦の音楽の才能を認めているし、ドラマーとしても才能を発揮できることを羨んでもいる。
"引き金さえあれば化ける"と思っている。しかし秋彦が引き金を引いてドラマーとして化けるのを止めているのは雨月自身である。
そしてやっぱりヴァイオリンを捨てて欲しくないとも思っている。しかし秋彦にヴァイオリンを捨てさせたのもまた雨月自身である。
やっぱりお互いがお互いのせいで対等にはならない。
秋彦も雨月も、対等になりたくてもなれない。


この象徴がマグカップなのではないかな、と思っている。

全く同じ形の真っ白なマグカップを贈られて、たぶん雨月は無意識に秋彦とお互いに対等になれないどうしようもなさを思ってしまって、無性に気に入らなくなってしまって、要らないと突っぱねた。あの時「嬉しい」と受け取っていればただの物だとしても対等なものをひとつ持てたのに、雨月は自ら壊したのだった。

たくさんの感情を抱えられる雨月だから、ただ単純に悲しいだけでは無かったのだろうが自分で壊しておいて泣いた雨月に対して秋彦は笑って涙を拭った。もしかしたらあの瞬間、秋彦は雨月の葛藤を自分と重ねて深くわかることができたのかもしれない。

「けれどもう、二度とあれ以上はないだろう」(4巻p32)

ある種正反対だが、"あれ"が「音楽を愛する自分を捨てて秋彦を愛する自分だけになること」と読むのが正解か「秋彦と分かり合えて対等になれること」が正解かはわからない。どちらも違うかもしれないし、どちらも正解かもしれない。
「主人公の中で同時に成り立たない二つの要素が」(4巻p38)
というのは次話の冒頭の現代文補習のシーンだが、このような同時に成り立たない要素がこの瞬間だけ成り立ってしまったのかもしれない。

ただおそらく、マグカップは2人のズレの象徴であるだろうし、"あれ"は雨月にとって1番苦しみから遠い瞬間だったのではないかな、と思う。


そこそこ中心テーマに据えた割にふわっとした考察になってしまったがもうどれだけ考えても天才でも秀才でもないのでわかりませんでした


さて、そんな長く不毛な夜を漂う秋彦と雨月の話を聞いて真冬は新曲の歌詞を書くことになる。初めて雨月と会った日に貰った新曲のネタが2度目の訪問で形になるわけけれども

「このまま帰ってこなかったら って何度も考えた」
「何度考えてもうまくイメージできないけど」
「でも同じくらいこの苦しみが終わってほしい」(5巻158p)

たぶん真冬はこの雨月の言葉にそれだけじゃないんだろうな、と感じただろう。実際雨月はこのあと帰ってくる秋彦に別れを告げられて全力で止めている。

眠れなくても 夜は明ける
それを僕は 眺めている

そんな雨月の心の機敏と、秋彦を諦めた春樹と荒れた秋彦を見て「冬のはなし」で由紀との夜が明けた真冬が朝の視点から大人組がそれぞれの夜明けに向かえるような歌詞を書こう、ということになる。
それでできた曲は意図せずして秋彦が「夜明け」に向かうための布石を打ったためにかなり心がめちゃくちゃになった状態の雨月に刺さることになる。


代わり映えのない 白い壁に
朝日は射す 時計も進む
君と生きた あの季節から
一歩ずつ僕だけが 遠ざかるような

「君がいた季節から一歩ずつ遠ざかる気がして」(5巻p146)
「二度と戻れない気がして 夜明けが来るのが怖かった」(5巻p147)

過去形。真冬はもう怖くない。由紀のカットが直前であった上で冬のはなしを経た真冬はもう怖くない、と。
真冬成長してる〜〜〜!!!!!
多分「へたくそ」がアンサーソングにあたるだろう。
ところでへたくそほんとにコールアンドレスポンスあるのヤバくないですか?伝えることすらままならなかった真冬がコールアンドレスポンス、すごいね、すごいね〜〜戻ります

このまま夜の中を漂って
いたいな

これは死ぬほど前述したが、やっぱり夜を漂う=状況を変えない、決別をしない ということは苦しいけれどもそれと同じだけ居心地が良い。
雨月が秋彦の未練を許すのも夜を漂っていたいからだろう。雨月は男を連れ込んでみたりしてなんとか自分で夜から脱出しようともがきつつも夜を愛してしまっているからどうしても抜け出せない。

眠れなくても 夜は明ける
それを僕は 眺めている

「冬のはなし」を歌って明けてしまうのをためらっていた真冬の夜を明けさせたのは立夏だった。眠れなくても=朝になってもいい、という決心がついていなくても夜は明けてしまうということを真冬は身をもって体感しているし、

変わってくこと 終わってくこと
始まってくこと

それで自分の中での由紀の立ち位置が変わって、夜が明けたことで由紀との恋がとじて、立夏との恋が始まった経験をしているわけだ。

君がいなくても生きてゆける
それが僕は ねぇ悲しい
ほらもうすぐ 夜が明ける
夜が明ける

そのときに由紀の面影が少しずつ奪われるのにどうしようもなくさみしくなったのもよく覚えているけれど、同じだけ立夏に恋を与えられたこともよく覚えているから、けっして夜が明ける、恋が終わることを否定的にはとらえない。

春に咲いて 秋に枯れる
それでも何度でも また芽を出すと

これまでじゃなく これからだよって
分かってる

ここに関してはめちゃくちゃ春樹だなぁと思う。映画館で初めてここの歌詞聴いた時たまげた ド直球じゃないか

眠れなくても 夜は明ける
繋いだ手も やがて離れる
途方に暮れて 泣き喚いても
やがて泣き止む

「だって」
「指は、離れていく」
「どんなに、望んでも。」(5巻p145)

こんなにマンガを落とし込んでくる歌詞、本当に、ヤバい(ヤバい)
秋彦も秋彦で雨月から手を離して春樹の手をとることは怖かっただろう、それでも春樹のために、雨月のために、そして自分のために雨月とは離れなければならなかった。

「雨月の演奏を初めて聴いた時は 確かに今と同じ震えを感じてたのに」(5巻p149)

天才真冬が朝にたどり着いてから初めての曲は秋彦にも届いた。ここで天才の天才たる所以を秋彦は再確認して、雨月から奪ったあの感性の針をもう返さなければいけないと思っただろう。そうして秋彦は朝に向かっていく。
その様を見てまた、雨月は「化けた」と思うわけだ。
雨月が「化けた」と感じるときは必ずその人が朝を見つけたときだ。そして並外れた感性をもった雨月にはそれが誰の影響なのかわかってしまう。わかってしまったらもう手を離す他ない。

「もうわかったから 離してくれ」(5巻p159)

君がいなくても 生きてゆけるけど
愛されなくても 君に会いたい

ほらもうすぐ 夜が明ける
夜が明ける

「でもやっぱりやだな、今この部屋に詰まってるものが全部消えちゃうのは」
「なにかひとつ残らないかな」(5巻p157)

雨月は秋彦の手を離した瞬間、全部消える、と思った。秋彦の手を春樹に奪われて、秋彦のすべてが形をなくすと思った。さて、「冬のはなし」の歌詞はこの後どうだったか。奪われた代わりに与えられたものは何か。

まだ誰も叶うかわからぬ願いを
人は希望と呼ぶ

よく朝のことを「希望の朝」なんて形容するが、ここで言う希望はそれほど理想的でも綺麗でもない。不安定で飛び込むには尻込みしてしまうような希望の朝に雨月は秋彦から手を離されたことで放り出されてしまった。まだきちんとさよならできる気持ちでないのに、秋彦がどこにもいない、なにも残らない朝にこれから出ていくんだと雨月は思う。
手が離れて秋彦が離れて、本当にひとりになった雨月はまた秋彦を求めて振り向いた。

君がいなくても 夜は明ける
離れた手も やがてまた繋ぐ
長い夜の果てに人は光を知る

でも、離れた手もまた繋ぐ、と真冬は歌ったわけだ。
「冬のはなし」で1番大事な歌詞は「さよならできずに 歩き出す僕と ずっと一緒に」だと思っている。由紀とさよならできずに、否さよならをせずに、つまり由紀を心の中にきちんと残した状態で立夏と歩き出すことを決めている、という点が「夜が明ける」にも大いに繋がってくると考える。
由紀と死別したことで手が離れても、二度と戻らなくても、遠くにいても、いずれ心の中でさよならせずに生き続けた由紀と朝を迎えてもう一度手を繋げることを真冬はわかっている。それを何より雨月に届けたかった。
そして結果的に、それは雨月に届いた。

だから怖くても 生きて行ける
陽が昇れば また歩き出す
ほらもうすぐ 夜が明ける

「それでもどうしようもなく朝は来るし きっとどこへでも行けるから」(5巻p159)

望んでいなくても朝は来る。秋彦と別れたことで朝がもうすぐそこまで来ている、秋彦を今止めなければ平等に残酷に朝陽は昇ってくる。

夜明けとは何か?

明るい希望に満ちているわけでも、ハッピーエンドが待っているわけでもない。地下で秋彦と過ごした夜からしたらあまりにも眩しくてとても受け止められたものではない。そんな秋彦との決別が雨月の夜明けである。

いつでも何か与える時には何かを奪っている。奪われたものは雨月の針のように相手が明確に意志を持って返さない限り戻ってこないが、戻ってこないからこそ相手の手元にずっと残る。同じように、秋彦にこれまで与えられたものは相手が隣から消えても全部消えて無くなることはない。そこにちゃんと残る。もう一度手も繋げる。それにちゃんと、雨月は真冬の歌で気づいたのだ。
秋彦の手を離しても、だから、

だから大丈夫

ほらもうすぐ
ほらすぐそこ

夜が明ける








長々本当にありがとうございました。1万字が見えてきてしまいました。自己解釈パラダイスで書いていて死ぬほど恥ずかしかったので投稿次第考察を読み漁ろうと思います

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