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連続怪獣小説『大怪獣アイラ』#5

 旧姓は乳井。
 日本にほんの数世帯しか居ない珍しい姓で、中学生の頃のあだなは「みるくちゃん」。クラスのみんな、どころか担任の先生まで私を「みるくちゃん」と呼んでいて、いつも笑顔で応えていたし、そんなにいやでもなかったけれど、あの放課後の校庭で、ひとり雨に濡れてサッカーボールを蹴っていたら、唐突に彼が「歌織さん?」と声を掛けてきて、それから少しだけパス回しを繋げた。
 好きだった田中くんに告白してフラレて1時間24分が経過していた状態で、だから津島くんが話しかけてくれたことが少し不思議だった。私は孤独のつもりだった。世界の誰にも認められていない気がしていた。でもそうじゃなかった。
 ひとは誰も孤独じゃない。ただ寂しいだけなんだ。
 あの中学時代、私を「歌織さん」と呼んでくれたのはたったひとり、彼だけ。

 私はそのまま都内の高校に進学して、津島公威(きみたけ)くんは親御さんの都合で大阪の南千里というところへ引っ越した。
 たまにメールで連絡を取るくらいで、私にはちょっとだけ彼氏がいたし、津島くんにも彼女がいる、みたいだった。次第に彼とのやり取りも途絶えて、たぶんもう、他人になるんだろうな、と思った。
 少し寂しい気がした。けれど「まぁ、こんなものだろう」と諦めた。

 平成女子大学に合格してからは毎日、三軒茶屋まで東急の電車で通っていた。
 あの頃はオリヴァー・サックスの脳神経に関する著作にハマっていて、その流れでラマ・チャンドランなども読んでいた。死について、いつも考えていた。死にたいからではなく、生きていくために、死について考えていた。
 「幸せになりたい」なんて陳腐なことに執着するような大人になりたくなかった。私は戦いたかった。私はどこまでも、戦いたかった。
 電車のドアにもたれかかってその朝、『ツァラトゥストラかく語りき』を読んでいた。すると、懐かしいあの声。
「歌織さん?」
 嘘みたいに津島くんが目の前に現れて、私の名前を呼んでいた。
 だから私はその瞬間に、この人と「幸せになりたい」と感じた。
 私は戦いたかった。
 私はどこまでも、彼との幸せのために、戦うことを決めた。

 それからほんの数年で、私は津島歌織になった。
 あゆみが歩き始めて、修治が産まれた。

 少し照れるから誰にも言えないこと。
 私は彼のことが大好き。
 たとえば彼は今、会社が潰れたので仕事を失って就職活動をしている。毎日くたびれて帰って来る。たぶんそれぞれの企業などの誰かに対して言いたいこともいえず、自分の中にたくさんの叫び声を残していて、しかもそれを家族に現すこともない。静かな悲しさ、静かな怒り。その静かさが、彼の優しさ。そして痛み。

 少し照れるから誰にも言えないこと。
 私は彼のことが大好き。
 彼はたまに、夕食のあとのリビングで、気難しく読書しているあゆみと、のんびりSwichをしている修治を眺めながらただ何も言わずビールなんかを飲んでいる。洗い物をしながら私は彼に声を掛ける。
「おつまみいる?」
「おー、じゃあ、なんか」
 ほんとうにどうでもいい、この素晴らしく無駄なやり取りを、彼はおそらくとても好き。
 私達は、誰ひとり欠けてはいけない。
 いつも解ってくれている、それが彼。

 その彼が、夜のリビングで唐突にこんなことを言い出した。
「たぶん種なんだよ」
問い返す。
「種?」
「いや だからさ、あの怪獣、たぶん種なんだよ」
「どういうこと?」
そこへ修治が割って入ってきた。
「種だよね!」
あゆみも言う。
「種だよ!」
 私は何もわからなかったけれど、とりあえず
「種かぁ…」と呟いて、冷蔵庫のドリアンを半分に切った。







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