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東京の女の子【短編小説】

新宿の東の外れ、古ぼけたビルの4階にあるスマホ修理店で働く主人公。ある日、修理していた客のiPhoneに電話がかかってくる。聞こえてきたのは、かつて「私は東京の女の子になりたい」という言葉を残して主人公の前から消えた“みらい”の声だった。

呆然とする間もなく、謎の男が「そのスマホをよこせ」と押しかけて来る。なんとかビルから脱出した主人公は、みらいの居場所を探して、わずかな手がかりから新宿の街をさまようことになる。

みらいは今どこにいるのか? そしてスマホが狙われる理由とは? 
ほろ苦い後悔を背負った青年が出会う、個性豊かな女たち。意外な結末にたどり着く、たった一夜のミステリー。

あらすじ


「スマホ修理のビッグアップル新宿店」は、築50年の雑居ビル、新宿ラッキービルディングの4階にある。リンゴを擬人化したキャラクターの看板が目印で、呑気なビル名にふさわしい、普段は静かな俺の職場だ。だが俺はここで今、文字通り追い詰められている。
「そのスマホをよこせ」
 いかついスーツの男が、接客カウンター越しに太い腕をねじ込んでくる。男の怒声に返事をする代わりに、俺は店の奥へと逃げた。わずか7坪の狭い店内は、あっという間にベランダに突き当たる。普段は締め切っているカーテンを真横に開いた。初夏の宵の口で、まだ外は薄明るい。俺は迷うことなく、ベランダに躍り出る。男も負けじと追いかけてくる。
 こんなことになっているのは、俺が右手に握っている、見知らぬ他人のiPhoneのせいだ。状況はかなり悪い。だがこれを男に渡すわけにはいかなかった。
 俺はエアコンの室外機に上った。さらに、ベランダのふちに足を掛ける。
「てめえ、何するつもりだ!」
 何するも何も、ここまできたら、やることはひとつしかない。幸か不幸か、隣のビルは3階建てで、ビルとビルの間は1mくらい。中高とサッカー部だったから、脚力にはそれなりに自信がある。それでも、下を見るとクラッとした。野良猫の通り道に挟まって死ぬのは、いくらなんでも割に合わない。
 みらいの馬鹿野郎め。
 俺は声に出さずに、元凶となった人物に悪態をついた。「私は東京の女の子になりたい」という言葉を残して、俺の前から消えた、みらい。
 覚悟を決め、iPhoneをデニムの尻ポケットにねじこんだ。
 そういえばみらいは陸上部だった。あいつならこの虚空もきれいに跳ぶだろうな――。思いっきりジャンプしながら、俺はそんなことを考えていた。

 話は30分ほど前にさかのぼる。
 いつものように早めの夕飯を食べ終わった俺は、Air Podsで音楽を聴きながら、店へと戻るところだった。火曜と金曜の夕飯は、近所の喫茶店のチキンカレー定食と決めている。ここの定食は、サラダとみそ汁がついていて、さらにカレーに揚げ玉を無料トッピングできる。初めて食べたときは、カレーに揚げ玉?と驚いたが、これが意外とクセになる。毎回オーダーしていたら、黙っていてもトッピングしてもらえるようになった。
 靖国通りを内側に入り、路地を抜けると、「スマホ修理のビッグアップル新宿店 この先20m」という看板が見える。このあたりは新宿といっても東の端の端、市ヶ谷か四谷と言ったほうがまだ正確で、どの駅からも距離が離れている。昔ながらのこじんまりとした個人ビルや住宅が多く、新宿という繁華街のイメージからは程遠い。地元から東京に出てきた翌日、求人広告の「新宿」という文字を見て面接に来た俺は、降車した新宿駅から30分近く歩かされることになった。
 こんな辺鄙な場所に店を構えたのは、オーナーが物件探しをしているときに、「新宿ラッキービルディング」というビル名をいたく気に入ったからだそうだ。オーナーは俺の履歴書にざっと目を通すと、職歴などの質問もそこそこに、不動産にまつわる持論を語り出した。
「駅から近いのにテナントがすぐ潰れる場所もあれば、多少不便でも長続きする場所もある。不思議だと思わない? 俺はさ、ビルの名前って案外関係あると思うのよ。うちに来るお客さんは、必要に迫られて、住所を見て来るわけじゃん。今どきはなんでもネットで調べるから、余計にだよ。ちなみにこのビル、なんでラッキーって名前だと思う? 大家が荒木さんだから。不動産屋から聞いたとき、俺は秒で決めたね、ここにすると。商売っていうのは、そういうことにこだわるのが大事なんだよ」
 そうですか、と答えた俺に、オーナーは「君、返事が短くていいね。採用!」と告げた。こうして俺はかれこれ1年ほど、スマートフォンの修理をして生計を立てている。

 ビルの1階は介護事業者の事務所、2階と3階はそれぞれ違う足裏マッサージの店、そして4階に俺の職場がある。
 ロビーに据え付けられた郵便受けに、デリバリーや不用品回収のチラシが大量に入っていた。抜き出して共用のゴミ箱に捨てていると、ふと視線を感じる。落としたチラシを拾うふりをして視線の方向に目をやると、少し離れた自動販売機の陰に、スーツ姿の大柄な男が立っているのが見えた。足元に大量の煙草の吸殻が落ちている。小学生も通る道なのになと思いながら、関わり合いにならないように背を向けて、俺はビルの階段をゆっくりとのぼった。
 4階にたどりつき、店のドアのプレートを「外出中 すぐ戻ります」から「OPEN」に架け替えた。店員は俺ひとりなのだが、昼飯時と夕飯時は1時間ずつ出かけていいことになっている。ついでに、黒のキャップにピアス、チャムスのパーカーと古着のデニム、アディダスのスーパースターという普段着のままで接客することが許される、服装規定のゆるさもこの店の悪くないところだ。
 店は、入口の目の前に受付カウンターがあり、売り物のスマホケースやイヤホンなどのアクセサリー類が並べてある。カウンター横にはカーテンがかかっていて、奥に作業場と事務所という間取りになっている。俺はカウンターに入り、自分のiPhoneを充電器に差した。BluetoothをつないでSpotifyのウィークリーヒットプレイリストを流し始める。21時までの夜シフトのスタートだ。

 うちは小さな店だが、持ち込まれる依頼は多岐にわたる。一番多いのは割れたフロントパネルの交換。これは早ければ15分程度、機種にもよるが5500円から受けている。バッテリー交換、カメラ修理、水没修理、ホームボタン修理……スマートフォンにまつわるあらゆる修理を引き受けている。
 ついでに、表には出してないが、ジェイルブレイク――いわゆる、公式が推奨していない改造もやっている。常連客からの紹介でのみひっそりと受け付けているが、どこの世界にも素人のマニアというのはいるもので、独自のコミュニティや人脈をたどってコンスタントにやってくる。辺鄙な場所に店を構えていても、こういう商売が成り立つということ。新宿区という住所そのものより、その事実に、俺は東京で働いている実感を抱いたりする。
 鍵のかかった引き出しから、客のiPhone13を取り出した。午前中に預かった物だ。水没したiPhoneを、データを消さずに復旧させてほしいという依頼だった。アップルストアに頼むと時間がかかるうえに初期化されてデータが飛ぶので、それを厭う客は、うちのような修理屋に持ってくる。
「絶対にデータは消さないでください」
 駆け込んできたのは、小綺麗な見た目の女性だった。若そうだが髪の毛や肌の手入れが行き届いていた。彼女は何度も念押しし、今日の20時に取りに来ると言って帰って行った。
 約束の時間まで、あと1時間半。すでに修理は終わっているので、ケースを付け直し、電源を入れて動作を再確認する。動作確認のために、客には申込用紙にパスコードを記入してもらっている。
 何かのキャラクターを待ち受けにしたホーム画面が現れると、わずか半日の間に溜まっていたLINEやSNSの通知が大量に押し寄せた。通知バッジの数字が、あっという間に3桁に増えていくのを眺めながら、画面を磨くためにクリーナーを手に取ったときだった。
 LINE通話が着信し、俺の指先が止まった。

 着信欄の「みらい」という名前。そして見覚えのある整った顔。
 おそらく、いや間違いなく、それは俺がかつて知っていた人だった。「私は東京の女の子になりたい」という言葉を残して、ある日姿を消したのがみらいだった。

 電話は鳴り続けている。だが、あと数秒もしたら不在着信に切り替わるだろう。俺は呆然と画面を見つめている。アプリ加工された写真のみらいが、こちらに向かって微笑んでいる。
 店側が客のプライバシー情報を見ることは、越権行為だ。電話に出るなんてありえない。場末の店で働いていても、そのくらいの矜持は持ち合わせている。だが今、俺は正常な判断ができなくなっているらしい。
 この着信が絶えたら、みらいには二度と繋がれないかもしれない。気づくと、俺は通話ボタンを押していた。
「もしもし?」
 記憶の中の声より少し高く聞こえたが、まぎれもなく、俺の知っているみらいの声だった。
「何度も連絡してごめん。こないだの件、香苗さんから聞いたよ。あんた何やってんの。香苗さんも怒ってるよ。てか、それ以上に心配してる」
 あれ、電波悪い? 聞こえてる? と声が続いたが、俺は一言も発せずにいた。
「とにかく、あの動画を売るとか取引に使うとかは、絶対やめといたほうがいい」
 思いがけない言葉が飛び込んできた。
「悪いこと言わないから、今すぐ荷物まとめて、しばらく実家に帰りな。東京でうろうろしてたら、下手したら、殺されるよ」
 もしもーし、聞こえてる? これから仕事だから、じゃあね! 話していた内容とは裏腹に明るい声で挨拶すると、みらいは電話を切った。

 ホーム画面を見つめたまま、俺はしばらく動けなかった。
 チリン、とドアが開く音がした。ハッとして立ち上がる。手元のiPhoneをロック画面に戻し、慌ててカウンターに顔を出した。
「いらっしゃいませ」
 だがそこにいたのは、先ほどビルの入り口で見かけたスーツ姿の男だった。
「修理ですか?」
「預けたiPhoneを引き取りたい」
 男は、俺が今持っているiPhoneを預けた女性客の名前を口にした。
「引換証はお持ちでしょうか?」
「ない」
 男は慇懃に言った。
「ご本人様ではないですよね」
「代理で来てるんだ、早くしてくれ」
「すみませんが、引換証がないと、お渡しできません」
「代理だと言っているだろう。本人に頼まれたんだ」
 男はイライラし始めていた。俺は男の格好を見る。恰幅のいい身体に、剃り忘れたような髭、長め丈のジャケット、分厚いシルバーの腕時計。鞄は持っていない。スーツ姿ではあるが、普通の勤め人ではなさそうだ。
「何かご確認できるものは……」
「何度も言わせるな。ないと言ってるだろう。お前が戻ってくるまで、ずいぶん待ったんだ。早くしろ」
 男はめざとく、俺が握っているiPhoneを見つけた。
「その黄色のケース、あの女のiPhoneだな」
 これを渡してはいけない。直感でそう思った。警察に電話するか? みらいの言葉を思い出し、躊躇する。何故男がこのiPhoneを奪いに来たのか、持ち主が何をやってるのか、みらいがどう関わっているのか知らないが、ロクでもない案件であることだけは確かだ。
 そもそもこの店自体、割とグレーゾーンの上に成り立っている。向こうだって、それをわかって強硬な手段に出ているのだろう。やはり警察のお世話にはなれない。

 以上が、俺がビルとビルの間を“翔んだ”理由だった。

 踵を金づちで殴られたような衝撃。続いて視覚が勘を取り戻す。気づいたときには、俺は隣のビルの屋上にしゃがみこんでいた。慌てて尻に手をやる。iPhoneはちゃんと収まっていた。
「おま、何やってんだよ!」
 新宿ラッキービルディングの4階ベランダで、男が叫んだ。さらに、柵を殴る音とともに「痛! ざっけんな」という声。腹立ちまぎれに自分で自分の拳を痛めたらしい。俺は弾かれるように立ち上がり、屋上から1階まで繋がっている外階段のドアへと走った。
 ドアノブに手をかける。しかし、動かない。鍵がかかっているのだ。ガチャガチャとやりながら振り返ると、作業場から男の影が消えたのが見えた。先に降りられたらまずい。
 俺は外階段のフェンスを握って地上を見下ろした。気が進まないが、仕方がない。再び尻ポケットのiPhoneを確認すると、外階段のフェンスをつかみ、足をかける。全体重をかけたら、腕と足をゆっくり下にずらしながら、慎重に足場を探す。階段の手すりを足で探し当て、右手で手すり、左手でフェンスをつかんで、階段の中に着地した。螺旋階段を駆け下り、地上に出る。右を見ると、新宿ラッキービルディングから男が出てくるところだった。俺は駆け出した。
「オイコラ!」
 人通りの少ない道を、俺は一心不乱に走った。大きなオフィスもなく、地元の小さなパン屋や薬局は、とっくの昔にシャッターを下ろしている。薄暗い路地には、こちらの速度をあげさせないとでも言うように、急な曲がり角やカーブがたびたび現れる。路地を曲がり、石の階段を駆け上がり、細い坂を下る。
 やっと少し開けた道路まで来た。信号を渡るか、左手に坂を上るか、それとも下るか。視線を上げて見渡すと、右手方向に、円が何枚も重なったような鉄塔がそびえたっていた。視界の端に男の姿が映った。俺は東に向かって走り出す。
 夢中で走っているうちに、視界が明るくなった。靖国通りに出たのだ。車の交通量と人通りがぐっと増える。少し安堵しながらも、鉄塔を目印にしながら、曙橋駅を通り過ぎる。靖国通りと外苑東通りがぶつかる大きな交差点を渡り切り、さらに走る。
 高い塀を左手に走りながら、デカい建物の門の前まで来て、ようやく俺は止まった。両ひざに手を付き、息を整えながら顔を上げると、「防衛省」と書かれた看板が鎮座していた。奥に、ロボットの無数の赤い目みたいにライトが点滅する鉄塔があった。防衛省のランドマークだ。

 どこで撒けたのかはわからないが、男の姿はもう見えなかった。いくらなんでも、防衛省の前で乱闘をする馬鹿はいないだろう。門の前に立っている守衛は微動だにしないまま、少し不審そうにこちらを見ていた。俺はのろのろと立ち上がった。
 しばらく店に戻る気にはなれない。俺はiPhoneを取り出して、パスコードを入力した。客の持ち物を使うことに抵抗はあるが、元凶はそもそもこれだ。それに自分自身のiPhoneは店に置いてきてしまっている。
 LINEを起動させると、みらいとのトーク画面が現れた。LINE電話の発信ボタンを押した。
「もしもし」
 みらいが出た。
「いきなりすみません。このiPhoneを修理で預かっている、ビッグアップル新宿店て店の店員です」
「え?」
 よそ行きの声を切り替えて、俺は単刀直入に言った。
「ていうか、俺。勇気」
 みらいが聞き返した。
「もう一回言って?」
「勇気。あんた、俺の知ってるみらいだろ」
「うっそ」
 しばし絶句したあと、みらいは急に笑い出した。
「マジで? こんなこと普通起こる? ほんとに勇気? 元気してたの」
 軽やかな笑い声。俺は懐かしいような、むずがゆいような、落ち着かない気分になった。
「笑うなよ。このiPhoneのせいで、面倒なことになってるんだから」
 俺が一部始終を話すと、みらいはようやく真面目な口調になった。
「そう。迷惑かけて悪かったね」
 風格を感じさせる声音だった。詳しく聞かなくても、みらいは状況を理解しているようだった。
「動画ってなんだよ」
 それは言えない、とみらいは断った。俺もそれ以上は聞かなかった。
「とにかく、このiPhoneを預けるから、持ち主に返してくれないか。今から会えないか?」
「私、仕事。今日は無理」
「困る。俺だって一刻も早く手放したい。休憩時間とかあるだろ」
「ひとりで店を任されてるから、出られないんだよ」
 とはいえ、このiPhoneを持ったまま店に帰るのも、ましてや家に帰るのも気が重い。なおも食い下がると、みらいが言った。
「そんなに言うなら届けに来てよ。新宿で働いてるから」
 まさか、同じ新宿とは。世間の狭さに驚いていると、みらいが声のトーンを落とし、「あ、お客さん来ちゃった。もう切らなきゃ」と早口で言った。
「待って。店の名前は?」
「『あい』。じゃあね」
 無慈悲にも電話は切られてしまった。しばらくiPhoneを見つめたが、それ以上の変化はなかった。
 今夜はもう、店のことは放っておくことに決めた。盗まれるようなものはないだろうが、何かあったらオーナーにひたすら謝り倒すしかない。
 それにしても、この広い東京で、こんな形でみらいと巡り合うことになるなんて。あいつが故郷から姿を消して、もう10年近く会っていなかったというのに。
 俺はSafariを起動すると、検索欄に「新宿 あい」と打ち込んだ。

 みらいを探し始めてすぐ、俺は見通しが甘かったことに気づいた。新宿に「あい」と名の付く店がどれくらいあるか、少し考えればわかりそうなものだ。
 検索で3ページ目までに出てきた店の住所をざっと見て、まずは西口の都庁近辺から当たった。小料理屋が一軒、ガールズバーが一軒、歯医者が一軒。どれも空振りだった。
 そもそも、あいという店名がひらがななのかカタカナなのか漢字なのか、もしくは英語の「AI」なのかもわからない。せめて何屋かくらい教えてもらいたいのに、あの電話以降、みらいのLINEは既読にもならない。

 南新宿の「焼き鳥愛ちゃん」という店も覗いてみたが、不発だった。高島屋のデッキから、新宿駅東南口周辺へと歩く。
 給料日後の初夏の金曜夜だ。ただでさえ人が多い新宿が、どいつもこいつも楽しそうにふらふら歩いている。街全体が大きな客船のように、ゆるやかな波に揺れている。俺は迷い込んだネズミのように、ふらつく足取りたちの間をくぐり抜ける。
 歌舞伎町まで来ると、人ごみはさらに混迷を極めていた。それらしい店を数軒探したが、みらいはいなかった。有り得ないとは思いつつ、念のため愛という名の付く有名なホストクラブにも足を運ぶ。
 俺みたいにカネを持ってなさそうな若い男の客自体が珍しいのだろう。対応した黒服は、最初から冷やかしお断りという態度だった。みらいのアイコン写真を見せてみたが、「頭おかしいんじゃね?」とにべもなく追い返された。まあ、そうなるだろう。

 歌舞伎町の真ん中まで戻ってくる。最近オープンした、歌舞伎町の名を冠したギラギラと輝くタワーは、遅い時間だというのにかなりの人出だった。正面のエスカレーターから、大量の人が吐き出され、そしてまた大量の人が吸収されていく。
 このタワーに入っている映画館は、いちばん安いチケットでも4000円とかするらしい。何が楽しくて映画ひとつにそんな大金を払うんだろうと俺は思うが、これだけの人数がいれば、そういう人もいるんだろう。俺は、新宿の片隅の、東京のほんの一部しか知らない。こんなにたくさん人がいるのに、知っている人は誰もいない。
 道行く人がタワーを背景に写真を撮りまくっている。それを尻目に、俺は次の行き先を探すべく、下を向いてiPhoneをタップした。
 すると、画面に急に充電サインが表示され、あ、と思ったときには、電源が落ちてしまった。残り20%はあったから油断していたが、急激に落ちたところを見ると、バッテリーが古くなっていたのかもしれない。修理の際にバッテリーも替えておけばよかったと、今更後悔しても仕方がない。念のため再起動してみたが、すぐにまた落ちてしまった。
 くそ、とつぶやいて、あたりを見回す。さすがに歌舞伎町といえど、この時間は携帯ショップは閉まっている。コンビニで充電器を買うしかないか……と思ったところで、我に返った。今俺は、財布を持っていない。自分のスマホもないから、当然電子マネーも使えない。
 デニムの尻ポケットをまさぐる。いつ入れたのか忘れていた500円玉1枚が転がり出てきた。いくら探しても、ほかには1円も出てこなかった。つまりこの500円が、この瞬間の俺の全財産だ。詰んだ、と思った。
「ねー、おにーさん。あたし充電器持ってるよ」
 振り返ると、黒いマスクをつけた小柄な女の子が、内股で立っていた。黒とラベンダーの、セーラー服みたいなミニ丈のワンピース。いたるところに黒いフリルがついている。足元は、やっぱり黒いフリルの靴下に、厚底のスニーカー。髪の毛は薄い金髪で、ツインテールにしていた。目の色がグレーがかっているのは、カラコンを入れているからだろう。
 何も言えずに見返していると、その子は続けた。
「充電なくて困ってるんでしょ。助けてあげるよ。そこの居酒屋に電源あるからさ、充電ケーブル使っていいよ」
「親切にどうも。でも、金ないから」
 正直なところ有難かったが、俺は断った。服やメイクの感じから、未成年に見えたからだ。もうすぐ0時を回る。面倒なことになるのは嫌だった。
「お金のことは、いいからいいから」
 しかし彼女は有無を言わさず俺の手首を握ると、居酒屋に向かって歩き出した。
「いいって」
「お礼はいらないから。その代わり、充電器貸したげてる間、ちょっと話し相手になってよ」
「あんた、いくつ?」
「22」
 俺と2歳しか変わらなかった。それならと、ついていくことにした。

 店員に案内される前にさっさと電源のある席に座ると、彼女は手早く充電器を差した。ピロッという音とともに、iPhoneが息を吹き返す。それを見届けると、彼女はテーブルに置いてあったタッチパネル式のメニューを抱えるようにして、「何頼む?」と料理を選び始めた。
「ウーロン茶」
「おっけ。あたしケーキ食べてもいい?」
 うなずくと、「じゃあこれー」と言って、「クリーミーピニャコラーダ」と「ベリーベリー三段パンケーキ」を素早くタッチした。
「ケーキ食うなら、ファミレスとかのほうが良かったんじゃないの」
「いいの。別に味変わんないし」
 おしぼりで手を拭きながら、俺の目を覗き込むように言った。
「それより、誰かと一緒に食べるほうが、よっぽど美味しい。お兄さんがつかまって、よかった」
「よく、こういうことしてんの?」
「逆ナンっていう意味なら、しない。人助けっていう意味なら、たまにする」
 とりあえずうなずいておいた。そういえば名前言ってなかったねと、彼女は「あたしのことは、『めろちゃす』って呼んで」と言った。正確には、めろちゃすのあとに「。」がつくらしい。
「どういうふうに書くの?」
「ひらがなに決まってんじゃん。お兄さん、ウケるね」
 俺が勇気と名乗ると、「じゃあ、『ゆーたそ』って呼ぶ」と、断る暇もなく決められた。
 めろちゃすは音楽の専門学校を卒業したあと、いろんなバイトをしながら暮らしているそうで、今日は新しいバイトの面接を受けたあと、ひとりでぶらぶらしていたのだと、こちらが質問する前にすらすらと語った。
「実家が西武新宿線だから、いちばん大きい街って言ったら新宿。実家は東村山ってとこ。知ってる?」
 俺は首を横に振る。
「志村けんの出身地だよ。駅前に銅像あんの。アイーン」
 めろちゃすが大げさに物まねをする。全然似ていない。マスクを外しためろちゃすは顎のあたりがふっくらしていて、実年齢よりさらに幼く見える。
「学生のときは渋谷と原宿ばっか行ってたけど、もう飽きちゃった。なんだかんだいってあのへんって、チームっていうか、連帯感?を求められるっていうか……。リア充なんだよね。インスタに大勢で自撮りしたのをあげるのを競ってる感じ。幼いんだよ。でも、新宿はそういうのないから好き。お酒飲めるようになってからは、断然新宿」
 あと、地下アイドルとヴィジュアル系バンドの対バンとか、AV女優のトークイベントとか、面白いイベントも結構あるんだよと説明した最後に、めろちゃすは子供が秘密を打ち明けるように、目を輝かせながらささやいた。
「あとねー、彼氏が下落合に住んでるの」
 俺は、下落合という駅も知らなかった。めろちゃすは呆れた顔になる。
「ゆーたそ、新宿で働いてるんでしょ? 下落合くらい知っててもよくない? こっから2駅だよ」
「新宿っていっても端の方だし、家と職場の往復しかしてないから」
「つまんない生活。なんのために東京で生きてんの」
 俺はその質問には答えず、代わりに「今日、彼氏の家に行かないの?」と逆質問した。すると、めろちゃすは途端に頬を膨らませる。ころころと表情の変わる子だ。
「合鍵もらってないんだもん。今日も全然連絡つかないし」
 めろちゃすは堰を切ったように語り始めた。
「3か月前から付き合い始めたんだけど、月に2回くらいしか会えないんだよね。LINEも次の日になってから返事きたりするし。仕事で疲れて、LINE見たあと寝落ちしてたとか言うんだけど、毎日そんなに忙しいものかな? 彼氏、不動産関係なんだけど」
「外回りとかだったら、忙しいんじゃない」
「でも今日は友達と飲み会なんだって。ひとりで新宿いるから合流しよってLINEしたのに、既読スルー。返事くらいできるくない?」
 めろちゃすはフォークの先で、ブルーベリーを1個、2個と突き刺した。
「ねえ、これって付き合ってると思う?」
「わかんねえ。本人に聞いたほうがいいんじゃないの」
 本当にわからなかったのでそう答えたが、めろちゃすは満足いかないようだった。
「そういう返事いらない。男ゴコロ? 教えてよ」
「わかんねえけど、こんな時間に女の子を歌舞伎町にひとりきりにして平気ってことは、大事にはしてないと思う」
 ぱっちりとしたつけまつげの目を見開いたあと、めろちゃすはフォークを握った手元に視線を落とし、黙ってしまった。
 俺は無神経なところがある。正直に言ったつもりだったが、怒らせてしまったかもしれない。iPhoneをちらりと見た。フル充電にはなっていないだろうが、そろそろ潮時かもしれない。
「ゆーたそは、紳士だね」
 俺の脳内に、『キングスマン』みたいにスーツを着こなした英国紳士がわらわらと浮かんで消えた。一方、俺自身は古着のスウェットにキャップだ。そんな紳士、聞いたことがない。
「何言ってんの。視力、大丈夫?」
「そういう見た目だけど、言葉遣いが綺麗じゃん。女の子のこと、女って言わずに、ちゃんと女の子って呼ぶね。お前、とかも言わないし」
 なんで? と言われて、俺はしばらく考えた。そんなこと、考えたこともなかった。
「……うちがシングルマザーだったから、かな。意識してるわけじゃないけど、女の人に対してキツい言い方はしない」
 いい息子!あたしもそういう息子を生みたい!とめろちゃすは言ったが、子供みたいな外見の彼女では、あまり現実感のないセリフだった。
「母ひとり子ひとりだったの?」
「いや、3歳上の兄貴がいる」
「ゆーたそと似てる? フリーだったら紹介してよ」
「ずいぶん会ってないからわかんねえ」
「あっそ」

 パンケーキの皿は、いつしか空になっていた。俺は腰をあげた。
「もう行くの?」
「人を探さなきゃいけないんだ。助かった。足りないと思うけど、これ」
 なけなしの500円玉を差し出したが、めろちゃすは「そういうつもりじゃない」と、頑として受け取らなかった。
 俺はキャップを脱ぎ、「ありがとうございました」と深くお辞儀をした。
「ゆーたそ、モテるでしょ」と、めろちゃすが言う。
「感じたことねえ」
「モテるよ。やさしいし、無口だし」
 ただ、とめろちゃすは付け加えた。
「マトモすぎて、あたしは全然好みじゃないけど」
 俺はめろちゃすの顔を見た。めろちゃすは餅のような白い頬をゆるませて、キャハハと笑った。

 めろちゃすと別れたあと、バッティングセンター裏あたりを回り、ゴールデン街までやって来た。すでに日付は変わっているが、新宿の賑わいが衰えを見せることはない。
 狭い区画に、カウンターのみの小さな飲み屋がくっつき合うように密集している。来慣れた雰囲気の酔客に加え、インバウンドらしき観光客が楽しそうに練り歩く横をすり抜けて、俺はiPhoneの地図アプリとにらめっこしながら、次なる「あい」を目指した。

 そこは「藍」という小さな飲み屋だった。ゴールデン街の例にもれず、カウンター席しかないスナックみたいな店で、演劇のポスターが入口に所狭しと貼られている。聞いたこともない劇団ばかりだ。そもそも演劇なんて、俺は劇団四季くらいしか知らないが。
 カウンターに立つ髭の男の店員の姿を見て、ここも空振りだと悟ったが、一応みらいのことを訊いてみる。店員は首を横に振った。「すみません」と帰ろうとした俺に、客席から声がかかった。
「誰か探してるんですかー?」
 声の主は、カウンターに座っている女性客だった。40代後半くらいだろうか。俺に話しかけてきた人は、ガラガラとしたよく通る声で、口元に大きなほくろがあった。隣の席の連れらしきほうの女性は、黒縁のデカいメガネをかけていた。
「こんな若い男の子がひとりでゴールデン街いるなんて珍しいから、話しかけちゃった! ビビんないでね!」
 俺はどう答えていいかわからず、「大丈夫です」とだけ言って立ち去ろうとする。次の瞬間、ほくろの腕がぐいっとのびてきて、二の腕をつかまえられた。
「お姉さんに言ってみ?」
 酔っ払い特有の軽い口調だが、力は案外強い。俺は仕方なく、新宿にある、あいという店を探しているとだけ話した。
「ここ以外の『あい』は、ホストクラブくらいしかわかんないなー」
 ほくろが首を傾げた。すると、それまで黙って聞いていたメガネが、声を発した。
「『あい』って日本語? たとえば、英語の『I』とか『EYE』ってことはない?」
 俺は呆然とした。言われるまで気が付かなかった。それを含めて探し直すとなると、今夜中にみらいを発見するのは絶望的に思えた。
 ほくろが店を見回して、突然大きな声を出した。
「この子、『あい』ってつく店を探してるらしいんだけど、誰か心当たりある人いる?」
 店中の目がこちらに向いた。ぎょっとする俺に彼女は、「ここにいる人たち、新宿で何十年も飲んでるような人たちだから、詳しいよ」と言った。眼鏡も「うちら常連だから気にしないで」と付け加える。一番奥に座っていた、白髪にハンチング帽をかぶった男が手をあげた。
「職安通りのあたりに、『愛さんさん』っていう中国式マッサージの店なかったかな」
「行ったんですが、違いました」
 俺が首を横に振ると、今度はカウンターの中にいる店員が言った。
「歌舞伎町に『アイリス』っていう喫茶店ありませんでしたっけ?」
「あそこはもう潰れたでしょ。コロナで」
「えー、そうなんすか。知らなかった」
 ほかにも、いくつかの店名が挙げられたが、めぼしい情報は得られなかった。客たちはこれをきっかけに懐かしい店の思い出話に花が咲き始めたようで、自然に会話がちらばっていく。店内の関心が薄れたのを感じ取ったところで、俺はほくろとメガネに頭を下げた。
「せっかく聞いてもらったのに、すみません」
「謝らないでよ。若い子に頼られるのが楽しいのよ。あたしらなんてもう、特に目的もなく、寿命の前借りしてだらだら飲んでるだけなんだから」
「そうよ、気にしないで。それにさ、あなた、東北出身でしょ?」
 突然、出身地を当てられて、俺はたじろいだ。言い当てたメガネは、やっぱり、という顔をした。
「アクセントで、そうかなって。あたしも岩手の出身だから、なんかうれしいよ。若い子が東京でがんばってるのは」
「別に、がんばってる、ってわけじゃ……」
 俺は夢や目標があって東京に出てきたわけじゃない。時間が余っていて、なんとなく流れ着いて、適当な仕事に就いて。それこそ劇団員として夢を追っているような生き方とは対極だと思っている。
「地方から出てきて、東京で生きてるだけで、がんばってるでしょ」
「そうよ! 若者、えらい!」と叫んで、手元のビールを飲み干したほくろが、「あ、いいこと思いついた」と人差し指を立てる。
「二丁目に行ってみなよ。ママたち、人の噂話にめっちゃ詳しいから」
 新宿二丁目は、なんとなく後回しにしていたエリアだった。ここまできたら、やはり行くしかないか。表情が翳ったと思われたのか、「大丈夫。ノンケの子には手出さないから」と元気づけられてしまった。
「前行ったことあるおかまバー、楽しかったよ。普通のゲイバーより敷居が低いと思うし、よかったら行ってみて。『めぐり逢い』って店」

 俺と彼女は顔を見合わせた。お互い同じことに気づいていた。
 店名に、『あい』という言葉が入っている。

 新宿二丁目に足を踏み入れるのは初めてだった。夜更けなのにというべきか、夜更けだからというべきか、街はかなり明るい。そう大きくないメインストリートに、飲み屋やパブ、アダルトグッズ店の賑々しい看板がひしめいている。
 夜でも半袖で平気な季節だからか、軒先で酒を飲んだり談笑している人も多い。気のせいかもしれないが、通り過ぎる男たちと、チラチラと目が合う。俺は足早に歩いて目的の店へと急いだ。

「おかまバー めぐり逢い」は、パッと見だと、小さな喫茶店みたいな店だった。窓がないので中の様子はわからない。俺は木の扉を引いた。取り付けられたベルがチリンと鳴る。薄暗い店内に、ミラーボールが回っていた。
「いらっしゃーい」
 カウンターの中にいる、ママらしき人と目があった。
「初めて?」
 ストライプのブラウスの胸元は膨らんでいて、一見派手なおばさんといった感じだが、その声は男のものだった。近くのソファ席に、俺に背を向けて座っていた人が立ち上がり、振り返る。
「やだ、可愛い~! ひとりなの?」
 相手の声の大きさと見た目に、俺はぶっちゃけ面喰らってしまった。190cmはあるだろうという立派な体躯で、マリリン・モンローみたいな白いドレスを着ている。頭は金髪で、カールされたボブ。真っ青なアイシャドウは、指で触れたら掬えそうなほど、ギラギラと輝いていた。
「あたし、咲良です。咲良ちゃんって呼んでね。こっちにどうぞ」
 薄緑色のソファに案内されそうになって、俺はようやく声を発した。
「すみません、客じゃないです」
「え?」
“咲良ちゃん”の声のトーンが一段下がった。
「店っていうか、人を探してるんです。さっきゴールデン街の店で、ここで訊いたらいいよって言われて」
 咲良ちゃんは腕組みし、唇を尖らせた。
「何それ、うちは探偵じゃないわよ。人探しって、どうせ女でしょ!?」
 俺が言葉を濁すと、「もう、やんなっちゃう!」と咲良ちゃんはぷりぷりと怒った。カウンターに視線を移すと、ママが俺を手招きした。ほかの客やキャストの視線を感じながら、俺は事情を話した。
 ママは黙って煙草を吸いながら、俺の話を聞いていた。念のためみらいの写真も見せたが、iPhoneの画面を一瞥すると、「さあねえ……」と煙を吐き出しただけだった。
 さすがに気落ちしながら、「忙しいところ、すみませんでした」と言って踵を返そうとした俺の腕が、がっしりとした力でつかまれた。咲良ちゃんだった。
「せっかく来たんだから、一杯飲んでいきなさいよ」
「手持ちが全然ないんです」
「じゃああたしにツケでいいわよ。初回出血大サービスよ」
 逡巡していると、「二丁目のルールよ」と言われてしまった。そう言われたら、従うしかない。俺はソファに腰を下ろした。真横に咲良ちゃんが座る。
「何飲む?」
「ウーロン茶をお願いします」
「ソフトドリンクなんて置いてないわよ」
「じゃあウーロンハイで」
「もう、つまんない男!」
 咲良ちゃんはアメリカ人みたいに手のひらを上にあげて顔をゆがめた。二の腕の筋肉が猛々しい。
 咲良ちゃんがカウンターにドリンクを作りに行き、俺が所在なくしていると、隣のソファ席の客とキャストが話しかけてきた。
「咲良ちゃんね、あれ怒ってるわけじゃないから。むしろ愛情表現だから」
「そうよぉ。咲良って、あんたみたいな顔が好みなの。肌が浅黒くて、小柄で、目元に憂いがあるタイプ。全盛期のV6の森田剛みたいな感じ?」
「ちょっとー! 剛ちゃんは今でも全盛期よ!!」
 ウーロンハイをテーブルに叩きつけ、咲良ちゃんはどかっとソファに座った。グラスに口をつけ、俺は眉をひそめた。めちゃくちゃ濃い。
「あんた、年はいくつ?」
 24歳と答えると、咲良ちゃんに「あ~、若いっていいわね。肌もこんなに綺麗で」と頬を撫でられた。されるがままにしていると、咲良ちゃんは「で、も!」と耳元で大きな声を出した。
「最近の男の子って、お金は使わないし、遊び方も知らないし、つまんないわよね。酒も飲まなくて、いったい何が楽しくて生きてるの?」
 特に考えたこともなかった。今日はそんな質問ばかりされる日だ。
 俺自身は、普段は、別にこんなもんかなって思って生きている。楽しいとか楽しくないとか、そういう概念はあまりない。それをつまらないという人もいるだろう。
 みらいの顔が浮かんだ。自分の人生をつかむために、あいつはすべてを捨てた。俺とは全然違う生き方だ。みらいはいつだって、俺よりはるかに優秀だった。
 うまく返事できないまま、会話が途切れてしまった。無言の空間を断ち切るかのように、咲良ちゃんは、ぐいと俺の腕をつかんだ。
「ほら、踊りましょ!」
 手を引かれて、店の真ん中に躍り出る。音楽のボリュームが上がった。
「V6の『Sexy.Honey.Bunny!』よ。あたし、この曲大好きなの。一緒に踊るのよ!」
 そう言って咲良ちゃんは、両手を上げてポーズを取り、がに股で踊り始めた。彼女のキレキレの動きを見ながら、とりあえず合わせて動いてみる。この曲は初めて聴いたが、好きなタイプの横ノリだった。
 サビで咲良ちゃんが激しく腰を振ると、ヒュー!という歓声が飛んだ。飛び散ってくる汗を頬に感じながら横揺れしていると、咲良ちゃんが俺の手をエスコートし、社交ダンスのように俺の体をくるっと回した。もはやどっちが男か女かわからない。大歓声が起きる。一回転すると、咲良ちゃんはとびきりの笑顔をよこしてきた。
 なんというか、不思議な夜だ。

 拍手されながら席に戻ると、新しいドリンクが用意されていた。ウーロンハイだと思って飲んだらウーロン茶だった。踊ったあとに、冷たくて気持ちがいい。隣で咲良ちゃんが水割りをすすった。
「あんた、いい子ね」
 突然そう言われた。
「こういう店に連れて来られたノンケの男は、だいたい照れたり怖がったり、もしくは下手な笑いをとろうとしたりするもんよ。でもあんたは、あたしみたいな相手でも、目を見て話すし、笑わないわね」
 咲良ちゃんは何気ない口調だったが、目は真剣だった。俺は一度自分の膝に視線を落とし、また上げた。
「俺は昔、すごく鈍感で」
 こんな話をするつもりじゃなかったのに、言葉が自然と口から出ていた。
「自分のことばっかりのガキでした。人を見た目でしか判断してなくて、その人が内面に抱えてることとか、隠している気持ちとか、全然わからなかった。知ろうともしなかった。それで大事な人を傷つけたかもしれなくて」
 俺は本当にガキだった。バカな中学生だった。あの頃みらいがどんな気持ちで、俺たちの前で笑っていたのか、気づいたのは失ったあとのことだった。
「バカだから、あとで後悔して、そのことをずっと考えていて。俺は今も相変わらず鈍感で、つまんねえタイプの人間だと思います。今だって口下手だし、コミュニケーションもうまくない。でも、せめてこれから会う人たちについては、見た目や肩書だけで判断したくないって、あのときから、いつも思ってて」
 たぶん俺は、今日一日、ずっとこのことを頭の隅で考えていたような気がする。
「つまんないなんて言って悪かったわね。あんたの気持ちは、いつかその傷つけた相手にも届くわよ」
 咲良ちゃんは、いつの間にか目に涙を浮かべていた。
「でもさ、あんまり溜め込まずに、たまにはパーッとやんなさいよ。そのためにこういう店があんのよ」
 咲良ちゃんは俺の背中を大きな手で叩くと、「あたし、トイレ」と言って、ずんずんと奥に歩いて行った。

 ウーロン茶を飲んでいて、気づくと、ママが隣に座っていた。煙草のにおいを漂わせながら、ママがそっと口を開く。
「アンタ、いい子そうだから教えてあげる。みらいちゃんの店、知ってるわ。私たまに行くのよ」
 思わず俺はまばたきをした。ママは口の端でニッと笑った。
「元気よ、あの子。苦労しただろうに、目が綺麗で、いい子よね。アンタと似てるわね」
 この人はすべてわかっているに違いない。ママが「ここよ」と名刺大のショップカードを渡してくれた。
 立ち上がってママに頭を下げていると、咲良ちゃんがトイレから出てきた。
「やだ、もう行くの? これからがいいところよ。ママの藤あや子のカラオケ聞いてからにしなさいよ。めちゃくちゃ似てるんだから」
「いいのよ、行かせてあげなさい」
 ママが促してくれた。俺は再度お辞儀をする。
「ツケだからね。近いうちに返しに来なさいよね」
 命令というよりも、むしろねだるように言って、咲良ちゃんは俺を送り出した。

 店の外に出ると、入店時と比べて、街はずいぶん静かになっていた。ピークを過ぎたのだろう。夜明け前の冷たい風が吹いている。俺はママから教わった住所のほうへ歩き始めた。そのときだった。
「探したぜ」
 ハッとして横を見ると、夕方のスーツ姿の男が傍にいた。俺が間の抜けた顔をしたのだろう、男は満足げにニヤリとした。
「入っていくところを見かけて、店から出てくるのを待ってたんだよ。おかまバーで豪遊たぁ、呑気なもんだな」
 腕を背中でひねるようにつかまれた。なすすべもなく、路地の隙間へと連れて行かれる。通りから死角になっている場所で、みぞおちに思いきり蹴りを入れられた。
 膝から崩れ落ちる。夕方食べたカレーの味が、喉元まで逆流した。今度は背中を蹴られた。
「本当は殴ってやりたいけど、お前のせいで右手がまだ痛ぇんだよ」
 男はわざとらしく、赤く腫れた手の甲をさすってみせた。それはあんたが自分でやったんだろう。声にならない声でつぶやいたつもりだったが、それがまた気に障ったのか、顔に唾を吐きかけられる。
「手間かけさせやがって」
 デニムの尻ポケットから、iPhoneを抜き取られた。必死に抵抗しようとするが、俺はただもがいているだけだった。
 ここまで来て、この結果か。みらいの居場所はもうわかっている。ここから歩いて15分だ。でもこのiPhoneなしでは、俺はみらいには会えない。会う資格はない。
 二丁目の路地裏で転がっているだけの無力な人間にだって、修理屋としてのプロ意識はある。俺は男の足にしがみついた。
「離せよ」
 反対の足で頭を蹴られる。とがった革靴は、ちょっとした凶器だと実感した。それでも必死でしがみつく。
 もう一度蹴りを入れられ、衝撃で頭が壁にぶつかる。口の中で血の味がした。揚げ玉トッピングされたチキンカレーが、血と混ざって、おぞましい風味になる。
 痛くて、気持ち悪くて、情けない。それでも、諦めたくなかった。今日助けてくれた女の子たち。もう二度と会うことはなくても、彼女たちに恥じない自分でいたかった。
「助けてください!」
 自分じゃない奴の声みたいだった。でも確かに、俺の叫びだった。助けてください。助けてください。心から必死にそう叫んでいた。

 不意にゴン!という鈍い音がした。俺が殴られたのかと思ったが、違った。
 顔を上げると、デカい中華鍋を担いだ咲良ちゃんが立っていた。
「痛ぇえな、このホモ!」
 突っかかってきた男の後頭部をもう二発殴ったあと、咲良ちゃんはさらに首の後ろに手刀を喰らわせた。変な声を出して、男は崩れ落ちてしまった。
「元警察官、ナメるんじゃないよ」
 咲良ちゃんのたくましい腕で助け起こされる。ママやほかのキャストもやって来た。咲良ちゃんは「はい、大事なもの」とiPhoneを渡してくれた。
「なんだか胸騒ぎがして、念のため店の周りを探したのよ。そしたらあんたが男に絡まれてるじゃない!? 心臓が止まるかと思ったわよ」
「咲良が血相変えて、『死んじゃう死んじゃう!』って大騒ぎしながら、中華鍋つかんで飛び出して行ったのよ」
「だって怖いじゃない~~」
 咲良ちゃんはおしぼりを持ってきて、俺の顔についた汚れをぬぐってくれた。俺は夢の中にいるような心地で、「いいんですか」とつぶやいた。
「大事なお客さんを守るためだもの。正当防衛よ。あとで警察に電話しときましょ、不審な男が転がってるって」
 ママは悠然と煙草をくゆらした。俺は咲良ちゃんに向き直った。
「咲良ちゃん、ありがとう」
「男ひとり守れないなんて、女がすたるでしょ」
 何故か咲良ちゃんは、最初のツンデレな態度に戻っていた。そっけなく「絶対、また来るのよ」と言った。
「来ます」
 俺は咲良ちゃんに右手を差し出した。咲良ちゃんは意外そうな顔をしたが、しっかり握り返してくれた。俺は力いっぱい握手した。そういう気分だった。

 4時半を過ぎて、もう夜は去っていた。太陽はすでに昇り始めていて、酔っぱらってうずくまる人たちや、抱き合ってキスを交わす人たち、街の隅から隅まで照らす。朝の光を頬に感じながら、俺はママから教えられた住所へと向かう。新宿6丁目、新宿の東の外れだ。つまり、俺の働く店と驚くほど近かった。

 探していた店は、何の変哲もない普通のビルの地下1階にあった。階段を下りると、店の入口の横に竹が飾ってあり、涼しげな風情を演出していた。「藹」という文字の形に切り抜かれた和紙が、小さな額縁に入れられて、看板代わりにかけてある。俺はガラガラと引き戸を開いた。
「ごめんなさい、今日はもう終わりなんですよ」
 カウンターの中でグラスを拭いていた声の主は、俺の姿を認めて、意外そうに小首をかしげた。
「あら、本当に届けに来てくれたの」
「ずいぶん探した」
「でもたどり着いたね」
 みらいはベージュっぽいシンプルな着物を着ていた。髪の毛を肩の上で切りそろえていて、動くとうなじが見え隠れした。
「あのさ。店名、読めねえよ。検索にも引っかからない」
「仲良くしてることを、『和気藹藹』っていうでしょ。その『藹』だよ」
「漢字、苦手なんだよ」
「あんたは昔から理系だったもんね」
 カウンター席で瓶ビールを飲み干した最後の客が、俺たちのやり取りを見て「えっ、みらいちゃん、もしかして彼氏?」と尋ねた。
 みらいは微笑んだ。
「弟なんです」

 俺には3歳上の兄貴がひとりいる。
 みらいは俺が中学生のときに家出した、俺の兄貴だ。

 店じまいを終えて、着替えて出てきたみらいと、新宿御苑方面に向かって歩く。みらいは着物姿から一転、白いシャツと紺色の9分丈のパンツにスリッポンという、さっぱりした格好だった。
「いつもあの店で働いてるわけじゃなくてね。女将に可愛がってもらっていて、女将に用事があるときのピンチヒッター」
 おかまバーのママのことを話すと、「あの人、私が言う前に、男だって気づいたんだよ。すごいよね」と笑った。みらい曰く、今のみらいを男だと見抜く人はなかなかいないらしい。もともと色白でほっそりしていたが、確かに弟である俺の目から見ても、中性的な女性といった雰囲気だった。
「二丁目の店とか、出入りしないの」
「上京したての頃はちょっと行ったけど、あまり接点ないかな~。もう女で通してるから。私、昼間は普通に大手町でOLやってるんだよね」
 目を丸くする俺に、「エクセル作業めちゃくちゃ速いよ」と笑った。みらいは昔から頭が良くて手がかからない、母さんの自慢の息子だったから、きっと会社でもそうだろう。
 お腹が空いたというみらいのリクエストにこたえて、24時間営業の立ち食い蕎麦屋に入る。みらいはちくわ天蕎麦を、俺はコロッケ蕎麦を選んだ。この一晩をともにした500円玉が、チケット販売機に吸い込まれていき、引換券となって出てきた。
 並んで蕎麦をすする合間に聞いたところによると、iPhoneの持ち主は、とある高級クラブで働く女の子で、みらいのことを慕っていたらしい。香苗さんというのが、その筋の先輩にあたる人で、みらいはもともと香苗さんと仲がいいそうだ。
「動画って結局なんなんだよ」
「簡単に言うと、とあるエラい人の、しょうもないSM動画ってとこ」
 撮ってはいけない動画を撮ったことがバレて、その場では水をかけられてiPhoneを壊された。それを持って逃げた彼女が、そのまま俺の店に修理に出したのだろうとみらいは言った。
「隠し撮りして、金儲けに使おうと思ってたってこと?」
「正確に言うと、ちょっと違う。彼女はそのエラい人と付き合ってたんだけど、手ひどい形で裏切られちゃってね。だから金儲けというよりは、復讐かな。ただ気持ちはわかるけど、あの世界では許されないだろうね」
 物騒なことをさらさらと話すみらいの横顔に、こうして隣にいても、遠いところにいる存在なのだと感じさせられた。
 でも香苗さんから連絡あって、無事にその子を保護できたらしいから、とりあえずは一件落着、とみらいは言う。
「iPhoneを狙った男は誰なんだよ」
「エラい人の部下が雇った、半グレ以上ヤクザ未満ってとこかな。まあ、詳しくは知らなくてもいいんじゃない?」
 殴られたのになんだか割に合わないが、確かに知らないほうがいいこともある。深入りするのはやめておいた。
 そろそろ蕎麦を食べ終わりそうだった。真相はわかったが、それよりも大事なことを話せていない気がした。みらいがどんぶりの上に割り箸を綺麗に合わせて置いた。
「未来っていう本名、使ってるんだな」
「え?」
 よく聞こえなかったのか、みらいが聞き返した。
「なんか、女になるんだったら、可愛い名前つけるもんかなと思って」
 エリカとかユリとか咲良とか、と言うと、みらいは「何、その雑なイメージ」と笑った。
「だって私が違和感あったのは性別だけだもん。私、自分の名前、好きだよ」
「うん」
 俺も未来という名前が好きだ。その言葉が聞けて、俺は嬉しかった。

 店を出て駅まで歩く途中、下水の排水溝を見つけたみらいは、iPhoneを投げ捨てた。
「せっかく水没修理したのに」
「こうなる運命だったんだよ」
 土曜朝6時の新宿通りは、たまにランナーが走る程度で、驚くほど静かだ。観光客や土曜出勤のサラリーマンが現れる前の新宿は、1日でわずかに許された日光浴の時間を楽しんでいるようだった。
「私はこっちから帰るから」
 駅の手前まで来て、みらいは駅と逆方向を指差した。俺とはここでお別れということらしい。わかってはいたが、短い再会だった。
「今度帰省したら、母さんに伝えるよ。兄ちゃんが、めちゃくちゃ綺麗な姉ちゃんになってたって」
 もうひとつ、名前のことも伝えようと思った。きっと母さんは喜ぶだろう。
 みらいが微笑んで、俺をやさしく抱きしめた。スズランみたいな、白い花の匂いがした。
「お母さんによろしくね。会えてうれしかった。ありがとう」
「俺も」
 急にさみしくなって、俺は動けなくなる。もういい大人のはずなのに。
「またどこかで会えるよ。東京にいるんだから」
 俺はうなずいた。今日みたいなことが起きるから、みんな東京にやって来るんだと、俺は理解した。
 手を振って別れた。数歩行ったあと、俺は立ち止まって振り返る。みらいは颯爽と歩いていた。東京の女の子は振り返らない。
 みらいの背中を見送って、俺も家路を歩き出した。

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