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三十六歌仙の簡易プロフと歌と訳

京博で行われた三十六歌仙絵巻の展覧会へ行く際それぞれの歌人の来歴や歌風をまとめたWordが出てきたのでここに保存。ソースはほぼコトバンクなので、検索欄に36回名前入力して見つけるのめんどいよ~ぐらいの時に使うのが正しいです。

歌は佐竹本に選ばれたものを基本としながらフィーリングで選出。歌意もざっくり。扱いの個人差が大きい。


柿本人麻呂
生没年未詳(7世紀末-8世紀初め?)
万葉前期の代表的歌人で、古来歌聖として仰がれている。歌風は重厚荘重・雄大多彩。

ほのぼのと明石の浦の朝霧に
 島隠れゆく舟をしぞ思ふ
(ほのぼのと明ける明石にの浦の朝霧に包まれて島の陰に隠れていく舟を見ながら私はしみじみと思っている)

山部赤人
生没年未詳(8世紀前半)
聖武天皇(在位724-749)時代の宮廷歌人。万葉集第三期の歌人。人麻呂と並び歌聖と称される。短歌に優れ各地に赴き詠んで叙景歌を確立した。

若の浦に潮満ちくれば潟をなみ
 葦辺をさして鶴鳴きわたる
(和歌の浦(=和歌山市の海岸)に潮が満ちてくると干潟が無くなるので、葦の生えているあたりを目指して鶴が鳴きながら飛んでいく)

大伴家持
生年未詳(718?)-785
万葉末期の代表的歌人で、万葉集の歌数最多。編纂者とされる。歌風は繊細・優美。

小牡さお じかの朝たつおのの秋はぎに
 玉と見るまでおける白つゆ
(雄鹿が佇む朝の野辺に咲く秋萩に、玉のような露がおりている)

猿丸太夫だゆう
生没年未詳
奈良または平安時代初期実在していたと考えられていた伝説的歌人。実作と信じられるものは無く、詠み人知らずの歌からなる。巡遊者か。

をちこちのたつきも知らぬ山中に
 おぼつかなくも呼子鳥かな
(どこがどことも見当もつかない深い山中で、心もとなくも人を呼ぶように鳴く呼子鳥の声を聞くと一層不安になる)

在原業平
825-880
時代に先駆けて新しい和歌を生み出し、貫之も尊敬していた。情熱的で「しぼめる花の色なくて匂ひ残れるがごとし」と評されるような歌を詠み、小野小町と並称される。

世の中にたえてさくらのなかりせば
 春のこころはのどけからまし
(この世に桜がなかったら、春の人の心はのんびりしたものだったろうに)

小野小町
生没年未詳(9世紀中頃)
王朝女流歌人の先駆者で、哀感・諦念のこもった恋の歌に特色がある。「古今集」時代に先立ち華麗で大胆な歌を詠んだ。

わびぬればみをうき草のねをたえて
 さそふ水あらばいなむとぞ思ふ
(私はもう疲れてしまったので、我が身を切ない浮草のように根を切って今いる所から離れ、誘う水があるならそのままどこへでも行ってしまおうと思います)

僧正遍照
816-890
軽妙さに特色があり、「歌のさまを得たれども誠少なし。たとへば絵にかける女を見て、いたづらに心を動かすが如し」と評されたが、定家はそれこそ歌であるとした。

たらちねはかゝれとしてもぬばたまの
 我が黒髪はなでずやありなむ
(母は私の黒髪を将来剃髪すると思って撫でたわけではないだろう)

藤原敏行
?-901(または907)
空海、嵯峨天皇に次ぐ能書家。技巧的ながら角をたてない詠みぶりで、六歌仙時代から古今和歌集撰者時代への過渡期的性格。業平(妻同士が姉妹)を範とする面があったと思われる。

秋来ぬと目にはさやかに見えねども
 風の音にぞおどろかれぬる
(秋が来たと目にははっきり見えないが、風の音で自然と気付けた)

紀友則
生年未詳-905?
古今和歌集撰者だが、完成前に没す。古今集直前時期の有力歌人。古今風を直接導いた歌人として評価され、歌風は典雅、流麗、重厚、平明。

夕ざればさほの河原のかは霧に
 友まどはして千鳥なくなり
(夕方、佐保の河原に川霧が立ち込め、友とはぐれた千鳥が鳴いている)

せい法師
生没年未詳(9世紀末-10世紀初め)
遍照の子。歌風は軽妙洒脱の中にも優美さがある。

今こむと言ひしばかりに長月の
 有明の月ぞ待ち出でつるかな
(今会いに行きますとあなたが言ったので9月の長い夜を待っていたのに、ついに夜明けの月が昇ってしまった)

藤原おきかぜ
生没年未詳(平安前・中期)
道成の子。古今和歌集撰者時代(宇多天皇時)の有力歌人。

誰をかもしる人にせむ高砂の
 松も昔の友ならなくに
(老いた私は誰を友としようか。高砂の老松にしても、昔からの友人というわけではないのに)

凡河内躬恒
生没年未詳(10世紀初め)
古今和歌集撰者。親しかった貫之と並ぶ延喜朝歌壇の重鎮。屏風歌歌人、名所歌歌人の作者として名高い。即興的で機知に富むのが特長で、感覚の鋭い清新な歌風。

いつくとも春の光はわかなくに
 まだみよし野の山は雪ふる
(春の光はどこにでも分け隔てなく射しているのに、吉野山には雪が降っている)

坂上さかのうえの是則これのり
生年未詳-930
蹴鞠の名手。908年以降の地方官勤務が作風に影響しているらしく、理知的に自然を確実に歌う。

みよし野の山の白雪積もるらし
 ふるさと寒くなりまさるなり
(吉野の山に雪が積もるらしい。奈良の古都は寒さが勝る)

藤原兼輔
877-933
紫式部の曽祖父。邸宅が賀茂川堤にあったため堤中納言と称される。貫之や躬恒を庇護したサロンの中心的存在。率直に読んだ知的平明な歌風。

みじか夜のふけゆくまゝに高砂の
 みねの松風ふくかとぞ聞く
(短夜が更けるにつれて益々趣深く琴の音を、あたかも高砂の峰の松に風が吹きつけ音を立てているかのように聞く)

むねゆき
生年未詳-939
光孝天皇の孫。貫之・伊勢と交友。

ときはなる松のみどりも春くれば
 いまひとしほの色まさりけり
(常緑樹の松までも、新しい春が来たので今日は一段と緑色が濃くなった)

伊勢
877?-939?
古今集には女性では最高数が入集し、宇陀・醍醐・朱雀朝の代表歌人。洗練された技巧的歌風は貫之と並称されるほど。

三輪山のいかにまち見む年ふとも
 尋ぬる人もあらじと思へば
(三輪山でどのように待てば会えるでしょう。年月が経っても訪れる人もいるまいと思うので)

紀貫之
868?-945
古今和歌集を撰進し歌壇の第一人者となる。この編纂作業を通じ、国風文化の推進、確率を果たした。歌論・日記文学でも功績は大きい。理知的、技巧的で、鮮明・明確。

桜散る木の下風はさむからで
 空に知られぬ雪ぞ降りける
(花が散る桜の木の下に吹く風は冷たくなく、花びらが降っている)

壬生忠岑
生没年未詳(10世紀初め)
安綱の子。歌人として早く知られた。歌は概して温和で、体験的・主観的に事象をよく割り切る。

春立つといふばかりにやみよしのゝ
 山もかすみてけさは見ゆらむ
(暦の上で春になったというだけで、今朝の吉野の山も霞んで見えるだろうか)

藤原敦忠
906-943
恋の歌を得意とし、『大鏡』では「よにめでたき和歌の上手」と評された。管弦にもすぐれた風流貴公子。父の時平が道真を失脚させたため、夭折は道真の怨霊のしわざとも。

伊勢の海ちひろの浜にひろふとも
 ここそ何てふかひかあるべき
(広い伊勢の浜で拾ったとして、一体どんな貝だというのでしょう。もはや斎宮になったあなたをいくら慕っても、何の甲斐もないでしょう)

源公忠
889-948
光孝天皇の孫。香合、鷹狩の名手でもある。歌はのちに能因に郭公の秀歌5首の1つにあげられたという。

ゆきやらで山路くらしつ郭公
 いまひとこゑのきかまほしさに
(通り過ぎることができず、山路で日暮れまで過ごしてしまった。郭公のもう一声を聞きたくて)

藤原きよただ
生年未詳-958
藤原兼輔の次男。技巧・発想共に古今朝を基にした平明で流麗な叙景歌が得意。

天つ風ふけゐぬ浦にゐるたづの
 などか雲井に帰らざるべき
(天つ風が吹く吹飯の浦にいる鶴がどうして雲の上に帰らないことがあろうか。同じく私もいつかふたたび昇殿を許されるだろう)

大中臣おおなかとみの頼基よりもと
生年未詳-958または956
伊勢神宮祭主で、大中臣家歌人の祖。能宣・輔親・伊勢大輔と続く。

筑波山いとどしげきに紅葉して
 道みえぬまでおちやしぬらん
(筑波山は大いに紅葉し、道が見えないほど葉が落ちているだろう)

壬生忠見
生没年未詳
忠岑の子。歌合せで「恋すてふ」の歌が兼盛の「しのぶれど」に負け、敗れた苦しみに不食の病となって没したと伝わる。


やかずとも草は萌えなむ春日野は
 たゞ春の日に任せたらなむ
(野焼きをせずとも草は燃える、いや萌えるだろう。春日野をただ春の日に任せてほしい)

さねあきら
910-970
公忠の子、光孝天皇の孫。村上天皇代、屏風歌など奉る。中務とは夫婦か。

恋しさはおなじ心にあらずとも
 今よひの月を君みざらめや
(好きの気持ちは同じくらいでなくとも、今夜の月をあなたも見ないわけはないでしょう)

藤原朝忠
910-966
和歌の他、笛や笙に秀でた。多彩な恋愛贈答歌を残す。

あふことの絶えてしなくばなか〳〵に
 人をも身をも恨みざらまし
(そもそもあなたに会うことが全然なければ、かえって相手の無情も自分の不幸も嘆いたりしなかっただろうに)

藤原元真もとざね
生没年未詳(平安時代中期)
11才で詠んだ歌も伝わり、早くから歌才を顕わす。

年ごとの春の別れをあはれとも
 人に後るる人ぞ知りける
(毎年ゆく春を惜しむ気持ちは誰も持ってはいるが、見送る者こそ本当のゆく春の悲しみを知るのだ)

源順
911-983
梨壺の五人の一人。日本最初の『和妙類聚抄』を編集。『竹取物語』『うつほ物語』『落窪物語』の作者との説もある。表現は平淡ながら言葉遊び的要素が強い。

水のおもにてる月なみ数えれば
 今宵ぞ秋のもなかなりける
(水面に光る月の波のように月次を数えれば、今夜こそが仲秋だった)

中務
912-988
伊勢の娘。母に次ぐ当時最高の女流歌人と評価された。専門歌人として名高く、人の心を惹く素直な恋歌を多く残す。

秋風の吹くにつけてもとはぬかな
 荻の葉ならば音はしてまし
(私に飽きたのか秋風が吹くにつけても、あなたの訪れはない。秋にいち早く伸びる荻の葉ならば風に揺れ音くらいたてるだろうに)

斎宮女御
929-985
本名徽子きし 。斎宮を務めた後、村上天皇に入内。琴、書にもすぐれ、一文化圏を形成した。「いとあてになまめかしう」調べは、式子内親王並ぶ斎王歌人にふさわしい。

琴の音にみねの松風かよふらし
 いづれのをよりしらべそめけむ
(琴の音に峰の松風が重なり響き合っているらしい。一体どこの琴の緒から奏でられ、どこの山の尾から響き、ここで相逢ったのだろう)

平兼盛
生年未詳-990
光孝天皇の玄孫。赤染衛門の実父か。深く考えられた歌だが、難解にはならず分かりやすい素直な表現が多い。

くれてゆく秋のかたみにおくものは
 わがもとゆひの霜にぞありける
(暮れゆく秋に年老いた私が残したものは、元結の髪についた霜ではなく白髪だった)

清原元輔
908-990
梨壺の五人。「人咲はするを役とする翁」と言われ、性格通り暗さを感じさせない当意即妙で練達した流暢な詠みぶり。この洒脱な人柄が清少納言に遺伝したとも。即吟型。

秋の野ははぎのにしきをふるさとに
 鹿の音ながらうつしてしかな
(秋の野の一面の真っ白な萩を、鹿の鳴き声もそのままにふるさとへ移したい)

大中臣能宣 よしのぶ
924-971
梨壺の五人。伊勢の祭主でもあった。道長が出産した彰子に贈った品に能宣の家集があったという。賀歌が得意で、行事和歌の専門歌人として元輔として双璧をうたわれた。

千年までかぎれる松もけふよりは
 君がひかれてよろづ代や経む
(樹齢千年の松も、あなたに引き抜かれ移して植えられれば万代まで生きるのだろうか)

藤原仲文なかぶみ
923-992
冷泉天皇の側近として仕える。元輔、能宣らと親交。

有明の月の光をまつほどに
 我夜のいたく更けにけるかな
(有明の月が私を照らしてくれるのを待つうちに夜が更けるように、皇太子が即位し我が身に恩寵が及ぶのを待っていれば老いてしまった)

藤原高光
939-994
右少将まで出世したが父の死をきっかけに出家し、世間に衝撃を与えた。

かくばかりへがたく見ゆる世の中に
 うらやましくもすめる月かな
(このように生きるのが辛い世の中で、羨むほどに澄みながら住む月である)

小大君
生没年未詳(9世紀末-10世紀)
系譜が伝わらず父母不明。東宮時代の三条院に仕えた。兼盛、高光、実方、公任らと交流。

岩はしの夜のちぎりもたえぬべし
 明くるわひしきかつらぎの神
(久米路の石橋づくりが途中で終わったように、あなたとの仲も途絶えて
しまいそうです。そしてその橋を架けようとした神のように私は醜いので、夜が明けてほしくない)

源重之
生年未詳-1000?
羇旅歌人的色彩が濃く、歌枕が頻出する。実方と共に陸奥へ行き、その地で没した。

よしの山みねの白ゆきいつきえて
 けさはかすみの立ちかわるらん
(吉野山の峰に見えた雪はいつ消えたのか。今朝は春を伝える霞に立ち変わったのだろうか)


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