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ドレスコーズの「愛に気をつけてね」の歌詞を、 妄想込みで徹底解釈!

 今回、ドレスコーズの『愛に気をつけてね』の解釈を書きたい。心に刺さって、様々なことを考えさせられたからだ。
 ドレスコーズを知ったきっかけは、パピヨン本田さんのツイッターからドレスコーズ(元毛皮のマリーズ)の志麻良平さんを紹介している漫画を見たこと。寺山修司を知っていた私は『毛皮のマリーズ』ってバンド名ってすごいなと驚いて聴いてみたのだけど。気が付けば、毛皮のマリーズとドレスコーズにすっかりハマっていた。

 まず曲を一度聞いたうえで読むことをおすすめする。(画像が多いので、ざっとスクロールするだけでも言いたいことは伝わると思う。)


●「自分は本物ではない」だと自嘲し始めたわけ

アイム・アン・イミテーション
もうムリっすわ
バレバレっすわ

ドレスコーズ「愛に気をつけてね」より引用


 語り手は、「愛してる」とか恋人に言ったときに、「そんな借りてきたようなセリフ、誰にだって言えるじゃん、心がこもってないよ」とか言われたのではないだろうか。
 「自分の<愛そうとする振る舞い>は、世間の真似事で、それがバレバレっすわ」と自嘲しているようだ。


●誰だって、わりと無邪気な考えなしのカスだよね!

(……さあ!カスのおでまし、とくとご覧あれ!)
こんにちわ なつかしーぜ
唯我独尊マン
唯我独尊ちゃん
いいわけのパンチラインは
ナチュラルボーン・プリンス・オブ・スカム

ドレスコーズ「愛に気をつけてね」より引用

 語り手(=歌い手)がライブの舞台から、観客(=「唯我独尊」な人々)に呼びかけているようだ。

 ちなみに、「唯我独尊」とは、「世の中で自分ほど偉い存在はいない」とうぬぼれること。唯我独尊な振る舞いをする根拠は、「ナチュラルボーン・プリンス・オブ・スカム」。直訳は「自然に生まれた、汚物の王子」。意訳すると、「自然と世の中のクソみたいな所から学んじゃったから」とかかな?
 (語り手も含め)誰もが「愛」に関しては昔から「唯我独尊」で「クソ」だ、と宣言する。なぜそんなことが言えるのか。「エゴを叶えるための」「誰かの<愛>らしき振る舞い」が、世の中で当たり前に行われていて、そこから学んで真似しているではないだろうか


 「愛」の裏には「相手の気持ちよりも、実は自分だけは幸せになりたい」という感情を隠していることも少なくないだろう。それは、果たして本当に愛と言えるのだろうか?

 ここまで、随分悲観的な印象だ。だって、誰もが偽物の愛情の自分勝手なクソ野郎なのだから。
 だが、そんな現実を否定することなく、そのうえで悲観的だけとは言えない解釈を可能としてくれるのが、これ以後の歌詞であり、魅力だと私は思う。

●圧倒的聖人のカムパネルラのように、僕たちは利他的に生きられない


くちづけには カムパネルラ
この罪が、倍になっては
降り注ぐわ 雪の夜に

ドレスコーズ「愛に気をつけてね」より引用

 カムパネルラ、とは宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に登場する物語のキャラクターだ。主人公ジョバンニの親友で、すごく優しい子。ジョバンニをいじめからかばい、銀河鉄道の旅に同行する。物語の終盤、溺れたいじめっ子のザネリを助けて死んでいたと明かされる。(その影響で、ジョバンニも他人の幸せのため生きることこそが<ほんとうの幸>だ、と考えるようになる…)

 大抵の人は「カムパネルラは立派な子」と思うけど、そうはなれない。「ほぼ純度100%の利他的な行動」など、そうできない。

 仮に、「くちづけ」するにしても、「愛を伝えて相手を幸せにしたい」などという利他的な面だけが100%なわけがない。利己的な面がある。ほとんどの人が、自分が何らかの意味で幸せになりたいのだ。

 私の想像だが。「くちづけ」する語り手は、カムパネルラを、本来の愛の理想として抱いているのではないか。すると、カムパネルラのようではない自分自身を思い、利己的な自分を「罪」だと捉えることもあるだろう。

 とは言え、「この罪が倍になっては、降り注ぐ」のだ。つまり、利己的なのはくちづけをする相手も同じで、だからこそ、罪は倍になるのだろう。「罪」は「雪」のようなイメージで語られる。美しく無邪気な輝きで、暗い夜を照らすものに二人は包まれる。利己的な面が少なからずある存在が二人いるが、陶酔している。夢中になっている。

 語り手の利己心や思い込みを我々は責められない。むしろ、カムパネルラを思い出して、罪悪感を感じるだけでも、相当純粋で真摯な方なのではないか。我々は、当然カムパネルラのようにはなれないし、そんな自分すら意識しない。この語り手の生真面目さは愛おしい。

 雪の夜のくちづけのイメージは美しく、サビへ続く曲調も明るい。浮かれる彼らをネガティブに描写していない。さらに、この浮かれた罪びと二人を明確にポジティブに語るのが、続くサビだ。

●ラブ イズ ア ライ!

愛と言うな!
恋と言うな!
それego
ぼくら今、もうクソってんだよね!

LOVE IS A LIE! LOVE IS A LIE!
でもいーの
ほめられない身勝手さ、って
だって これはテストでは……ない!

ドレスコーズ「愛に気をつけてね」より引用

 サビ。声高に愛の欺瞞を叫ぶが、ひどく爽やかだ。

 「エゴ」を「愛」と呼ぶのは、間違っている。だが、その間違いにすら時折我々は無邪気に浮かれる。もしくは、間違いに気づかないか、気づかないふりをする。

 だが、テストでもないのに、間違いだと断じたところで、一体何になるだろうか。何にもならない。(それに、100%「エゴ」だけとは言い切れないようにも思う。相手のため、という気持ちも少しはあるのではないだろうか。)

「エゴがあるのは当然だから、そのことを自己嫌悪しなくてもいーの!間違いに浮かれたって悪くないよ!」、というポジティブなメッセージとも取れる。

 「人の愛情の裏にエゴがある」というテーマは、全く珍しくない。しかし、その場合「悲観的に捉えて落ち込む」「エゴの面を見ずに、エゴではない部分を信じようとする」、このどちらかが多い気がする。

 しかし、この苦い現実を受け止めつつも、「テストではないからいーの!」と、明るく肯定しているのが、可愛らしく、大きな魅力だと感じた

 とは言え、サビのパートの段階では、語り手は「恋に浮かれている状態」だろうと思う。「LOVE IS A LIE!」(=マイナス面)と、「でもいーの!だってテストではない!」(=プラス面)という真反対の感情がある。そのうえで、プラス面の感情が優勢だからだ。

 しかし、マイナス面を強く実感する時は。いずれ訪れる気もするが…その時、浮かれ続けることはできるのだろうか?

●愛は嘘でも、感情移入している間は幸福!

 

くちづけには カムパネルラ
夏が過ぎて 飽きがこないよう
愛に気をつけてね

ドレスコーズ「愛に気をつけてね」より引用

 季節が自然と変わるように、やがて「愛(=エゴ)」に飽きる時もくるかもしれない。「エゴを愛と語ったり信じようとすることは、感情を盛り上げて飽きが来ないようにする手段にすぎない」、そうかもしれない。

 だとすると、「愛(=エゴ)」に飽きないように気を付けてね、という注意喚起とも取れなくもない。(タイトルの意味については詳しく後述する)

とはいえ、だったらどうしたらよいのだろうか?

●エゴに気づかないように努力する
●エゴを上回るほどの素晴らしいものがあるような関係性にする
●お互いのエゴを自覚したうえでそれごとよしとする…
●いっそのこと、飽きつつも寂しさくらいは埋めるために利用し合うとか…?
●飽きてつらくなったら別れる

 きっと、それぞれのやり方があるのだろう。

 さて、いずれ愛や憧れなどに冷めてしまうのならば、それは無駄なのだろうか。
 そうは言い切れないだろうと私は思いたい。愛情や憧れなど、勝手な思い込みにすぎないが。愛に浮かれたり憧れたりしている間は現実のつらさを忘れられる。いずれ、その事実を希望として何らかの意味で生きることのできる時というのが、あるかもしれないと思うのだ。

 私が思い出していたのは、筋肉少女帯の『ノゾミのなくならない世界』の歌詞だ。(オタク気質の女の子が愛したり冷めたりを繰り返す物語)解釈を本気で書いているので、気が向いたらぜひ読んでほしい。

●誰もが矛盾を抱えている。知らんぷりしてた気持ちを見ようか

Baby Baby あんたなんか
Baby Baby あんたなんか
Baby Baby あんたなんか
Baby Baby あんたなんか
きらい!

ドレスコーズ「愛に気をつけてね」より引用

 「Baby Baby」箇所では浮かれているようだ。一方、「あんたなんか」では、相手への不満を言いかけて言い切れずにいるようだ。しかし、最後には「きらい!」と言い切ることができた。

 かつては、「LOVE IS A LIE!(=ネガティブ)」と「でもいーの!(=ポジティブ)」を同時に抱えていて、かつポジティブ側が優勢だった。しかし、今や「Baby Baby(=ポジティブ)」と「あんたなんか(=ネガティブ)」という矛盾を抱きつつも、ネガティブの方が優勢になったのだ。

 「嫌い!」というネガティブな言葉で終わるが、私には大きな解放感のあるエンディングのように思われた。なぜだろう。きっと、これまで恋に浮かれているうちは、ネガティブな面(=エゴ)のつらさをシャットアウトしてきた面があるのだろう。それは、もしかすると、「自分の本当の気持ちに嘘をついていた」と言えるのかもしれない。

 しかし、「嫌い」であるとも自覚して、より自分の気持ちに正直になって、折り合いのつけ方を模索し始めることができるようになるのではないかと思う。嫌いで辛いと思うのであれば、別れたって良いのだ。あるいは、「こういう面が嫌だ」と伝えて、改善を求めることもできるかもしれない。エゴを自覚することによって、初めて前に進み始めることもあるはずなのだ。

 そもそも、男女が付き合うということ自体が、矛盾の極北めいていると思う。
 恋をした時、「A:すべてを許してやりたい」と「B:許せないこともある」の両方を抱くようになるのが、多くの場合感情に正直な態度だろうと思う。Aだけで浮かれていても、いずれ無理が生じて苦しむことになる。Bだけだと、浮かれて恋を信じることがそもそもないだろう。AとBを抱えていると意識したとき、私たちはどうしていくことを選択するのだろうか。愛や恋に夢を見て浮かれた後、残酷な現実があることにも気づいた時こそが、私はその人のターニングポイントというか、本領発揮みたいな時ではないかと思っている。

●夢から覚めた今もまだ、、、

 ふと思い出した。毛皮のマリーズの「欲望」という曲で、「夢から覚めた今もまだ 僕の目は覚めないままだ」という歌詞があった。いい言葉だと思った。

 どういう意味かと考えた。「残酷な現実は確かにある。苦しくなる。気づいてしまった。だが、それでもなお夢の中にいるように夢中になれるはずの素敵なことだってある、希望はある、…」という気持ちを強く持とうとしているのだと思う。

 なかなかそれは簡単なことではないと、大人としての実感を持って言いたい。だけど、きっと本当に本当に好きでたまらないことだったら、そういうこともあるのだと思う。打ちのめされてばかりではいられない。残酷な現実に傷ついても、これからはもっとうまくやるやり方を身に着けて、楽勝で切り抜けながら好きなことを愛して夢見るすべを身に着けていきたいものだと、私は願う。

●タイトルについて。「愛」の危険性とは?

 最後に、「愛に気をつけてね」というタイトルの意味についてまとめつつ、全体を振り返りたい。

 愛、とは美しい言葉だ。ゆえに人の目を曇らせてしまう。思い込み(自分や相手が、100%利他的であることができるという空想)をしたり、利己的な自分自身や利己的な相手を見て見ぬふりすることもある。
 「愛」に浮かれて楽しんでいる間は問題ない。しかし、愛の裏に隠されたエゴの存在を強く実感したとき、人は苦しんだり傷ついたりしてしまうのかもしれない。

 「やがて傷つく危険性があること・重要なマイナス面を見ぬふりしたり軽視しているかもしれないことに気を付けてね」「時には飽きないように工夫してね」「傷ついて打ちのめされても、それでもなんとか立ち直っていってね」というメッセージだと受け取りたいと思った。

 ま、半分妄想みたいなものかもしれないけどね。

 何度も聴きこんでしまった歌だったので、しっかりと解釈がかけてよかったと思う。ドレスコーズは、2021年に知ることができたミュージシャンの中で一番好きだと思う。