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~ノゾミを持てる解釈に~「ノゾミのなくならない世界」を考察

 一度も会話をしたことが無い誰かに、恋をしたことがある人。
わりといるのではないだろうか。
 相手は、日常生活で直接会う人物でなくても構わない。例えば、カリスマミュージシャンとか。

 そんな経験のある人は、もしかすると「ノゾミのなくならない世界」という歌に深く感情移入してしまうかもしれない。

 今回、筋肉少女帯の「ノゾミのなくならない世界」の歌詞を解釈する文を書きたい。
 この記事を読む前に、この歌を聴いておくことをおすすめする。約5000字近くある長文である。

「ノゾミの辿ってきた経歴」を追い、そののちに、「この物語の重要なテーマ」「タイトルの意味」を考えてみたい。


●ノゾミの経歴を振り返ろう


ここからは、歌詞の世界を、【ノゾミの幼少期】【ノゾミ学生時代】【ノゾミ、ファン時代】【ファン時代から6年後】パートに分けて、順々に考えてみたい。

○【ノゾミの幼少期】


・ノゾミは世界の中心だった
・瞳をとじれば「世界には何もなくて、嫌いなピーマンやネギもない」
・しかし、「今」はもう瞳を閉じても嫌な世界である。
・世界はなくならない。

ノゾミ_1

 誰もが、幼いころ「自分が世界の中心」という万能感を抱いたことはあるのではないだろうか。
 ノゾミはまさに、その万能感を抱いている。
 また、「パパとまだ手をつないでた頃」とある。つまり、パパに可愛がられ、パパを愛していた状態と考えることができる。(しかし、「つないでた頃」と過去形だ。「今」はもう、パパからの愛情を無邪気に受け取ってはいないのかもしれない)
 多くの場合、幼い子供は現実社会で大きな苦難を経験することあまりはない。「嫌なこと=ピーマンやネギ」、といった可愛らしいレベルの物事である。そして、「食べたくない」と願い、瞳を閉じることで、自分の嫌なことを簡単に忘れることができる。自分の好きなものに夢中になることができる。
 「厳しい現実と格闘する力がない」という風に考えれば、「弱い・幼い状態」と考えることもできる。
 だが、好きなものに心の底から集中できる(嫌いなものを簡単に遮断できる)というのは、大変幸福な時代かもしれないのだ。

 そんな時代と「今」をノゾミは比較して、今はもう「瞳を閉じても嫌な世界」であると言う。つまり、今のノゾミにとって「つらい現実の存在」があまりにも大きくなりすぎてしまっているのかもしれない。

○【ノゾミ学生時代】


・友達は馬鹿ばかり
・愛されないのは自分のせいではないと思う
・ラジオから知ったカリスマミュージシャンは自分のことを歌ってると思い、恋をする

ノゾミ_2

 「友達は馬鹿ばかり」だという風に思う。これはすなわち、「自分の世界や価値基準を持っている」ということを示しているのだろう。このように自分自身を持っているのは立派なものだと筆者は思う。
 それにしても、「友達」と言いつつ、「馬鹿ばかり」というのは、何か矛盾している。(もしかすると、かつては「友達」という気持ちで仲が良かった時代もあったのかもしれないが、今はもうそれほど仲が良くないのかもしれない)

 さらに、「馬鹿ばかり」とどこか見下しているにもかかわらず、「愛されない」のは「自分のせいではない」と考える。「自分自身を見る目が無い皆のせいなのだ」と考えている。これは妙だ。
 推測だが、ノゾミのこうした見下した態度が、「友達」にも伝わってしまっているのではないだろうか。つまり、ノゾミ自身の態度のせいで嫌われている可能性があるのではないか。

 (もしかすると「愛されないのは自分のせいではない」と考えるのは、「愛されないつらさ」から目を背けるための一つの手段かもしれない)
 こうしたことから、ノゾミは幼少期に無邪気にパパと手をつないで愛し合っていたときよりも、つらい現実を生きているように見える。

 さて、そんなノゾミは、ある日ラジオから知ったミュージシャンに恋をする。そのミュージシャンの曲を聴いて、『自分のことを歌ってる』と思う。

 誰しも一度くらい、ミュージシャンや俳優、その他片思いしている人など、憧れの存在が『自分自身を理解している』と思い込んだ経験をしたことはあるだろう。
 そして、直接対話していない恋は、多くの場合、相手の現実を自分自身の理想の枠組みに閉じ込めているのだ。
 ノゾミは、カリスマを「私の心を歌ってて、私の心を分かっている」という風に思う。本人との対話をしているわけではないので、やはりそれは思い込みに過ぎないのだろう。

 とは言え、実際「ノゾミ」と「カリスマ」は似ているところがあるのかもしれない。「この人私を分かってる」と共感する、というのは、似たところがある証拠かもしれないと考えられるからだ。
 ノゾミの特性は、少々自分の世界に入り込んで、周囲の嫌な現実から目を背けてしまいがちなところだ。「ファン時代から6年後のノゾミ」は、カリスマに口づけを迫られるわけだが、そのときにノゾミは冷めている。それに気づいてないとすれば、カリスマも自分の世界に入り込んだ思い込みの激しい人物と考えても良いのだろう。もしかしたら、ノゾミの「この人私を分かってる」という直観は正しかったのかもしれない。


○【ノゾミ、ファン時代】


・レコードポスターを買いあさる、チケットをとる
・自分を覚えてもらいたいと思うようになる
・あるとき、ニューCDを聞いてもつまらない
・想いが覚めてしまったのかな?
・ドキドキしないのは自分のせいではないと思う

ノゾミ3

 これはノゾミの熱狂的なファン時代のお話だ。
 誰かに憧れる・そして、その人に認められたいと思う、しかし、ふと気が付くとその人から気持ちが離れてしまっている…。
 これもまた、思春期~二十代前半にかけては特に、多くの人が経験したことがあるのではないだろうか。
 
それにしても、ノゾミは「友達は皆馬鹿ばかり」だとディスっていたのにもかかわらず、ミュージシャンのファンとしてはよくありがちな行動を取っているようにも見える。ノゾミの行動はそれほど特別なものではない。

 だが、そんなノゾミの恋も気が付くと冷めてしまったようだ。
 そして、「ドキドキしないのは自分のせいではない」と思う。自分のせいではないなら誰のせいなのか。そう。カリスマのせいなのである。
 ノゾミは、カリスマが髪の毛を短くしたりなんだりして、変わってしまったことが、ドキドキしなくなった原因であると考える。
 「ノゾミ自身の感覚が変わったのだ」とは考えない。つまり、どこまでも自分中心的に物事を見ているのだ。ノゾミは天動説のように、自分が中心で太陽は自分の周りを回っているような感覚なのだ。
 太陽が動いたのを見て、「ああ、相手が変わったのだな」という感覚でいる。しかし、必ずしもノゾミの考えるように、天動説とは限らない。実は、ノゾミ自身の感覚が変化したからこそ、カリスマの見え方が変わった可能性も充分にあるのだ。

 果たして、ノゾミがそのことに気付く時は来るのだろうか…。


○【ファン時代から6年後】


・ポルカのパーティーでカリスマミュージシャンを見て声をかける。
・「あなたは私の青春だった」と告げる
・カリスマに「ありがとう、それより踊りましょう」「想いは覚めるから気にすることない、誰だって同じ」という旨のことを言われる。
・ノゾミとカリスマはポルカを踊る
・カリスマは口づけをせまる
・ノゾミはさめていた
・ノゾミは瞳を閉じても、世界はなくならない

ノゾミ4


 かつての憧れの人との再会。
 「あなたは私の青春だった」というノゾミ。カリスマからしたら、「いや、過去形なんかい!」と、カリスマも思ってしまいそうだ。若干配慮が足りていない印象。
 それに対して、カリスマは「ありがとう。それより踊りましょう。想いは冷めるから気にすることはない。誰だって同じ」という旨のことを言う。カリスマとして、様々なイタイファンを見てきたのだろう。カリスマは、ノゾミよりは客観的で大人な返答をしている。これはもしかすると、大槻ケンヂ自身が、イタイファンに対して実際に思ってきたようなことかもしれない。
 カリスマは「誰だって同じさ」とノゾミに言っている。ノゾミの「想いが冷めた」という変化は決して特別なことではない、ありふれたものなのだということが示されているようである。
 ノゾミとカリスマは、ひとときポルカを踊る。ひとときの夢を見て、かつて憧れていた人と楽しむ。
 しかし、ノゾミはもうカリスマに恋をしていない。カリスマに口づけを迫られたノゾミは、冷めているのだ。恋をしているのだったら、心の底から喜び、そのシチュエーションに感情移入してうっとりしているのではないだろうか。
 好きだったはずのもの(つらい世界を忘れさせてくれていたもの)が、もう見たくもないもの(瞳を閉じてしまいたくなるもの)に変化してしまった。 しかも、そのつらい現実というものを忘れる手段が、今のノゾミには存在していないようなのである。世界はなくならない。


 この歌詞から、筆者自身が想像した情景を話したい。昔好きだったミュージシャンのCDがあった。そのCDを、押し入れの中で掃除していたときに再発見。懐かしみ、「この曲は自分の青春だったなあ」と思う。CDが自分に「想いは冷めるから気にすること無いって!それよりまた聴いてみない?」と誘いかけるようである。誘いに乗って、CDプレーヤーで聞き始めて、ひとしきり楽しむ。しばらくの間は楽しめていたつもり…だったが、やはり感情移入できない。あのときのように、全ての世界を忘れて感情移入するほどにはどうしてもなれない。それどころか、「なんで好きだったのだろう」と思えば思うほど自己嫌悪が激しくなる。


●大きなテーマのひとつ:「憧れ」の対象に自分勝手な理想を抱いてしまう・反面それが「希望」にもなりうる

 この物語の大きなテーマの1つに、憧れを抱くことの「自分勝手さ」があると思う。
 憧れなど、基本的には思い込みである、と筆者は思う。ライブ会場に行って、人々が拳を振り上げているのを見て、「皆楽しんでんなあ」と思うと同時に、「こんなにも多くの人たちに勝手に感情移入されている。このミュージシャンは大変だな」とぞっとするような思いがしたことがある。(しかし、それでもなお、ファンに応えるかのように全力でパフォーマンスしていた、そのミュージシャンはカッコいいと思った)
 歌の中で、ノゾミはラジオから流れてきたカリスマミュージシャンの曲に夢中になっているが。カリスマ本人から、曲の意図を聞いたわけではない。ノゾミが「この曲は私を歌ってる」と思ったことなど、完全な思い込みだ。
そして、思い込みをしているがゆえに、ノゾミは冷めてしまうのだと思う。何か自分の期待しない行動をとったとき(髪の毛を短くした・ピンとこない内容の歌・合って初日にキスを迫ってくる)嫌になる。

 憧れの舞台に行って、憧れの人と触れて、自分自身の思い込みだったこと・現実に直面するとき。その現実は残酷なことは少なくない。時に、「憧れていた・好きだった」ということ自体が、耐え難い現実として迫ってくることもあるのだ。
そのことに気付けてから、それでもなお自分はどうしたいのか決めるときこそが。もしかしたら、その人の本領発揮とでも言うべきところはないだろうか。)

 しかし、憧れて信じ込めているうちは本当に幸せでもあるのだ。少なくとも、信じ込めているうちは、自分のつらいことを忘れて幸福な時間を過ごすことができる。
 憧れることや希望を抱くことをいつか辞めるかもしれない、だが、だからといって、「初めから憧れるんじゃなかった」というわけでもないのだと筆者は考える。

ノゾミ5

●タイトル「ノゾミのなくならない世界」の意味


私は、この歌のタイトルが、2つの意味を持つのではないかと考える。

○【タイトルの第1の解釈】


 「ノゾミのなくならない世界」の「ノゾミ」とは主人公のノゾミちゃんである。そして、「なくならない世界」とは、「つらい現実を忘れて何事かに感情移入できなくなってしまった世界」のことである。
 ノゾミちゃんは、小さいころはつらい現実(ピーマンやネギ程度のこと)を簡単に瞳を閉じるだけで忘れることができた。もう少し成長して学生になってたとき、つらい現実(=周囲に愛されていない)をカリスマミュージシャンに夢中になることである程度忘れることができたと推測できる。しかし、気が付けばノゾミはカリスマをつまらないと思うようになっていた。そして、再会したカリスマのミュージシャンにキスを迫られるが、気持ちとしては冷めている。かつてつらい現実を忘れさせてくれたカリスマ自体が、今ではノゾミを苦しめる。
 現実が容赦なくノゾミに襲い掛かる。この物語はノゾミにとって残酷なように見える。
 物語の展開を細かく追いかけた時、このような解釈を受け取る人が通常多いのではないだろうか。

 しかし、もう少しノゾミにとって「ノゾミ」のある解釈は考えられないだろうか。と、筆者は思った。
 そして、そのカギは「ノゾミ」という名前自体にあると思った。それが第2の解釈である。

○【タイトルの第2の解釈】



 「ノゾミ」とは、「つらい現実をつらくないものに変えてくれるもの」という風に定義してみよう。「希望」といっても良い。上記の図で言う所のオレンジの丸で囲んできた箇所である。
 そのような「ノゾミ」があるときに限り、「つらい世界」を一時的にでも消し去らせられる希望となりうるのだ。
 ノゾミは物語の最後に「(つらい)世界はなくならない」と嘆いていたように思う。しかし、ただ単にその時点で、ノゾミが信じ込むことができるノゾミとなりうる何かを抱いていなかっただけかもしれないのだ。
 つまり、この歌の物語が終了した後に、ノゾミがまた新たなノゾミを抱けるものに夢中になれば…ノゾミはまた、一時的にもつらい世界を忘れることができるのかもしれないと思う。それほどパパを愛せなくなっても、友達を愛せなくなっても、ミュージシャンを愛せなくなっても…。次は声優オタとかになってもいいんじゃないかな、ノゾミは。
 生きているうちに、いつかまた何かに憧れることがあるかもしれない、というだけで希望(ノゾミ)がなくならないのではないだろうか。

 ノゾミのある、希望のある物語と私は捉えてみたい。
 ノゾミよ。
 恋は冷めるかもしれない。
 だが、また新たな恋をするかもしれないのだ。
 希望は、ノゾミはなくならないのだ。

ノゾミ6

↓おまけ