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アセンションしたのに統合失調症って無理ゲー! 〜第20話〜


精神医学において「治る」とは何か

患者にとっては全て真実である。本人にとって真実であるが、他人から見て異常という壁に私は既存の精神医学の限界を感じている。空気を読む国民性の日本人ではなおのこと、精神医学の領域を広げたところにもう一つのサークルが描かれるべきではないかと考える。

呪術医を名乗る理由は、自分が医師や看護師のようにポジティブな回復へのエネルギーを使命とする職能的無意識集合体に同調しつづけるためだ。精神科に足を運ぶ人の中には“まとも“な霊障によって一時的な錯乱状態におちいっただけの方や、5次元あるいはそれ以上の次元との接触によって混乱しているだけの場合もある。私のように、だ。

それらの症状について相談できる医療などスピリチュアルという大枠の中にしか存在しえないのだが、私ははっきりとシャーマンという名詞を使うことが幸いにしてできるのだから、それを多くの人にオープンにして過去の自分が困っていたことを解決しようと試みている。

シャーマンという固有名詞は、両親にとって異常だったが本人の体験では肉体を持った人間と、肉体を持っていない精霊がいるだけでどちらもまともであり自分を偉大な何かと同一視してしまう統合失調症の一症例とは全くの別物だ。しかし、ああ、そのケースね。と医師が診断してしまっている。決して医師を責めているわけではない、ただ医師になるべくして学んだことや思考する範囲が狭い。霊的な存在を自分以外の人と同一の姿で視えているのに、霊的なものは全て幻覚だと捉えられれば反感を持つのも当然だと思いませんか?

経験したことがないのに批評してしまうのは、お互いさまだろう。自分も批評されるべき立場をオープンにしないとフェアじゃない。そう思って書いている。
シャーマンは人類最古の宗教であり医療である。魂の飛翔によって呪いを行うなど呪術法にはたくさんの種類があるが、私にできることはトランスという音楽のジャンルを用いて他者の頭の上に浮かびあがってくる無意識体との対話、そしてその個人に連れ添っている守護精霊もしくは補助精霊の姿、形が見えてしまう。あとは身体的疾患箇所というか身体に影のような黒いもやを見ることができる。幼少期から既視感を感じる能力があるため未来予知とも少し違うが先に起きることを、なぜか知っているというケースも多々起きる。

3.11の東北の大震災以前に原発関連の反対運動に携わり、インターネット配信や講演会の動画保存などを市民活動として行っていた。金沢市の環境政策の事業として小さな事務所を構える段階まで来ていたが震災が起きたことで、役所とは立場が対立しとても一緒に歩めるような状況ではなくなってしまった。非常時になると人間の本性が出るというが、担当職員の鬼の形相と某宗教団体の信者であり学校教員である男性の変わりようには驚かされた。3.11以前の私を知る人はなぜあんなに原発に怒っているんだ?と思っていたらしいが、実際3.11が起きたことである意味、未来予知を立証してしまうような異常な状況になった。
他にも、今ここで待っていたら誰かが来るからここに留まる。という選択をして実際に人と出会うことも起きた。これらの現象がなぜ起きるのか、自分でもぶっちゃけわかっていない。わからないことをわかるというから複雑になってしまうのだなぁと反省もしている。

私のようなケースで精神病院に入院する人もいる。向精神薬の効果も脳神経を落ち着かせたり安心感を生んだりするので一概に否定することはできない。もちろん医師の判断も間違っていたかもしれないが、霊体の存在を感じたことがなければ当然の診断であり真っ当な医師であったと思う。だから手を取り合ってこの社会をより良いものにする方向へ向かっていきたい。

私はシャーマンだという精神の病から治ってはいないが、こうやって人と対話する術を学んだ。他者と同じように振る舞うことはできないが社会復帰はできた。正直、先日の骨折事故がなければここにことばを書くこともしていない。一度死んだと思えば書き残しておくことも億劫ではない。ある意味、遺書を書いているようなものだ。

精神病は障害を乗り越えてこそ治るものだと思う。
『死と向き合い乗り越える』そのことばの奥深さを今なら感じられる。だから誰かに伝えたい。

理想の姿をイメージする習慣をつける

骨折事故が起きる以前に、ある瞑想法を行っていた。朝起きた時に座禅をくんで右の手のひらに理想とする自分を、左の手のひらに現状の自分をイメージとして乗せ、イメージが固まったら胸の前で手を合わせる、手のひらには不思議なエネルギーがあるようでそうすることでとても心が落ち着き心地よく毎日をスタートさせることができていた。その結果が骨折だったので(笑)何が起きたから悪いと考えるのではなく、どのような理想の自分を描くのかが重要になるのだろう。私の場合は骨折も理想の姿に近づいているのは事実ですし。
例えば小説家のようなコンテンツ型の働き方に取り組むのも一つだろうし、誰かの霊障の相談にのるのも一つ。
【誰かの役に立つ・誰かを助けて感謝される】のであればその報酬を受け取ってもいいし、そもそも自分を応援してくれる人を得ても恥ずかしくないように、自分も自分に正直に生きる必要がある。自己開示をしなければいつまでも誰かの応援を受け止められないから、結果的に(他者の評価ではなく)自分が考える幸福になることができないのだ。と、つい最近気がついた。
他人と比べ劣等感を抱いていた以前の自分とは随分違う。。。
理想の姿をイメージすると、たいがいの自分の不甲斐なさにも寛容になる。なるようにしかならないわ〜なんて以前なら許せなかったのだが、今は自分を許せるようになったから、他人も許せるようになった。そうすると、不思議なことに他人の良いところに気がつくようになった。嫌な人だなと思うことも、嫌なことを鏡のように見せてくれているのだ。と捉えることができるようになってきた。自分はそうならないようにしようと心がけることで、自分の理想の姿に近づいていく。

1日でできることはとても少ない。だから毎日の習慣として、理想の自分や理想の暮らし方ってどんなんだろう?と思いを巡らせるだけで、かなり違うのを実感しています。

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ことばをとおして出会えるあなたの心に響きますよう
真心を尽くしてこれからも書くことに努めます。
最後までお読み頂きありがとうございました。

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