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その言葉,本当に相手を「心配」していますか?

※当然ですが以下全て私見です。一例としてお読みください。

コロナ禍において両親は今まで以上に私に電話をかけてくるようになった。

「不用意に出歩いていないか?」
「ちゃんと毎朝検温をしているか?」
「マスクや日用品は十分に備えてあるのか?」

以前から過干渉な所のあった母は特にその傾向が顕著で,休日などは頻繁に電話を寄越して一つ一つの行動に対して意見してくる。やめておいたら?今日でなくてもいいんじゃない?と。

感情的な側面を思えば親心ゆえの心配は理解できる。いくつになっても親は親だし子は子だろう。あるいは,感染リスクも当然理解できる。しかし,週五日勤務で人と関わり続けている私には影響の低い話だ。もう少し考えをアップデートしてくれてもいいのではないか?と思ってしまう。何も調べたり考えたりせず,平面的かつ感情的な意見を挟まれると呆れてしまうのだ。

例えば,映画館での感染確率の低さは明示されているし,人の少ない時間帯と交通手段を選べば,更にリスクは下がる。それを論理的に説明しても,とにかく危ないから!の一辺倒だ。最近では,近所のコンビニに買い物に行く際に電話を取ってしまい「交通事故にあうかもしれない」とまで言われたのがショックだった。(私が言わせた、のかも知れないが)ちなみにコンビニまでは徒歩3分ほどで,特に交通量が多い道でもない。そもそも母は買い物に出かけていないのか?と意地悪く尋ねると,う〜ん,とそれでも食い下がっていた。

こうなると最早,ただ議論に負けたくないだけで,どんな材料でもいいからかき集めて,自分の言う通りにさせよう(従わせよう)としている感情的側面しか感じられない。私は自分の行動で家族を不安にさせたいわけではないが,情報を集めて,リスクや必要性を考慮した結果の行動している。合理的な説得材料がないのであれば,そこまで口を出してもらいたくないのである。もちろん,結果的に失敗することや危険に晒される可能性は払拭できないが,そんなことは大前提にして誰もが生きているだろう。一歩踏み込んで行動を制限してくる相手は,例え家族でも,直接的侵害でなくとも,結果的に私にとっての敵になってしまう。

長々と書き連ねてしまったが,短く言えば,もう少し私のことを信頼してよ,ということに尽きる。「気をつけてね。」で十分。それ以上の言葉は老婆心,いきすぎると呪いにすら感じられます。昨今の状況で,許容し合い,わかり合うのは難しいでしょう。けれども,適切な距離感が相手の人生を守り,尊重につながるというのは,どんな時代でも間違いないと私は思います。

あ,これがソーシャルディスタンスか。(たぶん違う)

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