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ソ連における「第二革命」-ヴァレリー・サブリン評

 かの有名な「レッドオクトーバーを追え!」の発想をトム・クランシーに与えた事件がある。それは1975年の十月革命記念日(11月8日)に起こった。ソ連海軍フリゲート「ストロジェヴォイ」が反乱を起こし、鎮圧されるという事件だった。事件の首謀者はヴァレリー・ミハイロヴィッチ・サブリン海軍少佐。当初、西側諸国には亡命を画策したものというイメージが広まったが、それは全くの誤りだった。サブリンはレーニンを何よりも敬愛し、共産主義を信じる理想主義者だった。彼はソビエト連邦を共産主義の実現を目指すものだと文字通りに受け取った。そのことは彼がフルシチョフにソ連における官僚的腐敗を解決するように嘆願する手紙を送っていることからも明らかである。スプートニクやガガーリンといった宇宙事業での成功、生活水準の向上などがあり、フルシチョフの時代、ソ連人民は共産主義の理想を漠然と信じていた時代だった。しかし、時代が進むにつれ、そうした信念は失われていくことになる。ブレジネフ時代は停滞の時代と呼ばれた。低い経済成長率、官僚に蔓延る事なかれ主義。安定の代わりに理念は失われていた。人民の間にも冷笑的な雰囲気が広がっていた。そんな中で、サブリンはより強く共産主義の理念への思いを抱くようになっていたのだろう。ソビエト連邦を信じ体制内改革派だった彼はやがて革命の理念に、レーニンに立ち返るためにはより根本的な変革が、第二の革命が必要なのだというラディカルな立場へと移っていった。そして、彼は自らの所属する艦での反乱を計画するようになる。

 サブリンはフリゲート「ストロジェヴォイ」を掌握し、革命の故郷レニングラードまで航海し、革命の号砲を放った戦艦「アヴローラ」の横に停泊、自らの思想を電波に乗せ発信しようとした。それはまさに「戦艦ポチョムキン」をもう一度やるということを意味した。彼は反乱を起こすにあたって、下士官に演説を行った後、賛成か反対か決を採った。結果、サブリンを含めると賛成が上回り決行されることとなった。また、船員たちもサブリンの演説を聞くとその意図に多くのものが賛同した。ここには、ある種の熱狂があった。ここには冷笑が失われる契機がある。サブリンという人物が火を付け、革命へと行動を起こす者たちを生み出したのだ。たった一隻の軍艦で何ができるのか?軍艦一隻で革命などできないのかもしれない。しかし、その火を灯すことはできたのである。「ストロジェヴォイ」はレニングラードへと到達することなく、鎮圧されてしまう。しかし、「ストロジェヴォイ」の撃沈を命じられた艦船の乗組員達は、サブリンが他艦へ向けて行った演説を聞いて攻撃を躊躇っていたのである。サブリンは自らの蜂起が成功する可能性が高くないことを充分承知していた。それでも彼は行動せずにはいられなかったのであり、彼の行動は広範な支持を得る可能性があったのである。サブリンの蜂起から16年後にソ連は崩壊する。それはサブリンの理想に叶うものでは全くなかった。それは「第二革命」の理念を換骨奪胎し、一部特権階級の望みを満たすものでしかなかった。サブリンが灯した革命の火はまだその価値を失っていない。

 あらゆる革命には反動がつきものである。しかし、あらゆる反動には革命がつきものである、ということもできよう。「昭和維新」しかり、「天安門事件」しかりである。いかに時の支配者が革命の理念を解釈する絶対的権力を持ち、好き勝手にそれをねじ曲げたとしても、決して理念を消すことは出来ない。そこからの背信を突く革命的な立場が必ず現れる。我々が堅持しなければならないのはこうした革命の根拠、「第二革命」の下地となる「はじまりの革命」である。中国共産党が一番恐れることは彼らの掲げるイデオロギーを真剣に受け取られることである。サブリンがしたのはまさにそのことだった。そして、それに影響されて、少なからぬ人間が共鳴したのである。それは到底革命を引き起こすものにはならなかった。しかし、その「第二革命」の根拠、半ば夢想的とさえ言える理想主義は現代にとって最も必要なものなのではないだろうか。

ソビエト連邦崩壊から29年を迎えて at

参考文献
「1975年のドン・キホーテ ソ連海軍フリゲート「ストロジェヴォイ」の反乱」
https://www.dlsite.com/home/work/=/product_id/RJ181976.html


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