名もなき文士の独り言 (要約:暇人の雑談) Ⅵ
みなさんどうもお久しぶりです。とは言いつつも連続して見てくださっている読者はおそらく居ないので、この挨拶には少々違和感がありますね。
さてと。前置きもほどほどに、本題に入りましょうか。
話題① 学校を衛星軌道上まで吹き飛ばしたいハナシ
はてさて、いきなり物騒な話から始まりましたが、私がこれから言いたいことを端的にまとめると「学校つまらんわ」です。
人間と積極的に関わろうとしていない私に非があることは確かにそうなのですが、いかんせん面白くない。学校に行きたくない。特別イジメられている訳でもないので、学校に対してトラウマなどはないのですが、何せ片道1時間ですからね…。田舎住みでもないくせに何でそんな辺鄙な学校を選んだのでしょうか。まぁ私立なので設備は申し分ないのですが。
このシリーズを幾らか読んでもらえれば、私の趣味が少々おかしいことに気づくことができると思いますが、そういう厄介な特性もボッチに拍車をかけているといいますかね。ただもちろん、「誰も私を理解してくれない!だが私はそんじょそこらの愚民より優れている!」などと思っていることもなく、まぁ共感してくれる人間なんてそうそういないわな、と諦めているのが現状です。人と違って生きることって案外面倒なんですよね。
さて、私が友達を作ることに10000000000000Ωの抵抗があるのには理由がありまして、それもまた異端ならではというものなんですよ。私が異端として頭角を表したのは時期も早く小学生の頃…。周りがド◯えもんやクレ◯ンしんちゃんなどの映画を楽しんでいた中、私はバットマンがジョーカーをタコ殴りにするシーンに見入っていました(ノーラン監督のダークナイト)。そう、まだ鼻水垂れのガキの頃から私はおかしかったのです。そしてもちろん、まだ人格やら共感力やらが十分に成長していない小学生たちがそんな人間を心温かく受け入れるわけもなく、恐ろしいほどの軽蔑を食らいましたね。人間って教えられずとも白い目を向けられるようです。
そういう訳で「自分の好きなものをオープンにすると恐ろしい羽目になる」ということを学んだ私は、ある程度私と気が合う人間、そして男子とのみ仲良くするようになっていきました。
ここで何故男子のみなのか、という疑問が湧きますが、私は興味のない人間に気を遣って話すということが大の苦手なんです。女子と話すと一々気を使わないといけない、さながら地雷原なのです。私は五体満足のまま生活したいので、侵入の是非をこっちが決められる限り答えは否のままです。一方で男子は気兼ねなく話すことができるので気が楽です。
まぁそんなこんなで友達が少ないということをタラタラ書き連ねたのですが、そういう訳でとあることを叫びたいのです。
「私は未練タラタラです!」と。
中学校に戻りたい!こんなしみったれたハイ(廃)スクールライフなんて蹴飛ばして!サボりたい放題だった陸上部…。休み時間中に散歩するには十分な広さの校舎…。歩けば床が軋む教室…。一緒に馬鹿騒ぎしたクラスメイト…。なにもかもが楽しそうに思えてくる…。勿論、嫌なこともありましたよ。山のように積まれた課題、どうかしてる難問のテスト、極寒の地獄・1500m走、全然効かない暖房などなど。でも、良心的な量の課題、少し問題量が減ったテスト、持久走がなくなった体育、効きすぎる暖房が揃っている今の学校より、ずっと良い。なにもかもが中学校に負ける。きっと走馬灯には高校生活のハイライトが一瞬も映らないことでしょう。良いところないんですから。「これから、これから」などという友人もいますが、そんなわけがない。もう中学校を超えるクラスメイトや学校との出会いはこの先ないでしょう。それが運命なのです。
むしろ、あれほどの思い出を残した学校生活を送れたことに感謝すべきですかね。これらの柱がなければメンタル的にも大変だったと思いますし。卒業式の日に友人たちと中指を突き立てた中学校に感謝を述べる日が来るとは。私も成長したということですかね。
結局のところ、自分が友達に求めるものが一体なんなのかは分かりません。遊びに誘って欲しいのか、休み時間に声をかけて欲しいのか。映画を一緒に観たり、帰り道に適当な店に寄ってみたり、そういったことを求めているのでしょうか。自分のことですが、意外と分からないものですね。どこに自分の満足のいく「高校生活」があるのか。その答えを知り得ぬまま、私はあの高校を去るでしょう。それも致し方ない、それが運命なのでしょう。
話題② 執筆のハナシ
自称文士として作家(っぽい)活動をしている私ですが、ここ最近気づいたことがあるのです。というのも、「個性」って大事だなという事実です。
小説を書く、というのは楽しい・楽しくない、向き・不向きを除いて考えると、誰にでも出来ることなんですね。その誰にでもできることの中で、自らの存在を強調する手助けになるのが「個性」であるという事実に気づいたのです。
小説を書くことにおける評価は、大抵の人が「ページ数」と「語彙力」をもとにしています。実際、私も中学生くらいの頃はそういった観点で小説家の凄さを感じていました。しかし、ふと気づいたのです。世の中には、今読んでいる小説を書いた作家よりもっと語彙力が豊富な人がいる。それは当たり前の事実だが、いったいなぜ彼らは小説家として大成しなかったのか、という謎に。
そんなことを悶々と考えながら過ごしていたある日のこと。RATMのライブ映像を見ていると、オススメの動画に「Tire me/{RATM}Guitar Cover」のような動画が流れて来ました。その動画を見ると、演奏している人はとても上手く、難しそうな速弾きも難なく弾いていました。そしてこの時に気づいたのです、ただ上手なだけで成功することは滅多にないということを。もちろん、その人は私より知名度もあることでしょうし、その人が成功していないと言っているわけではありません。ただやはり、テレビに出演するであったり、レコードの売り上げを記録するであったり、そういったことを実現させるのは「個性」であるという事実がそこには存在するのです。
言ってしまっては何ですが、ただ「上手になる」というのは、時間と努力と根気があれば大抵の人が辿り着く世界です。ただ、そんな競合相手の多い「上手な人」という枠組みの中で如何にして他人との区別をつけるかとなれば、さらに抜きん出て上手くなるか、あるいは「自分にしかできないことをする」つまり「個性の提示」を行う必要があるのです。ただ上手いだけなら、代わりはいくらでも見つかります。しかし、美術であればその芸術家でしか描けない世界が、削り出せない形が存在するわけで。映画であればその監督でしか抜き出せないカットが、漫画であればその漫画家でしか描き出せない一コマが、そして小説家であればその人にしかできない表現や世界の構築があるのです。
小説家にしろ何にしろ、アーティストは頭の中に浮かんだアイデアを誰にでも伝わる形に落とし込むことが求められます。音楽や映像、絵や言葉など。問題は、この誰にでも扱えるツールを使って、如何に自分らしさを表現するのかという点です。
日本語にせよ外国語にせよ、言葉を用いた表現は多岐にわたります。日本語においても、「雨」一つをとっても「しとしと」「ざぁざぁ」といったオノマトペは勿論のこと、「豪雨」「雷雨」「通り雨」などの単語も様々あり、それらの組み合わせで通常は世界を表現します。しかしこれらの言葉は、私の考えるに「デフォルトの色」に過ぎないのです。つまり、チューブからそのまま出しただけの絵の具、といった具合です。
絵を描く際、そのままの色を使うよりかは、様々な色を混ぜて作ったオリジナルの色を用いたほうが、同じ絵の具を使った他人の絵の色彩と区別もつくことでしょう。これと同じなのです。様々な言葉を組み合わせるのは前提として、問題はどんな言葉を"作り出すのか"、が大事なのです。世界を伝えるために簡潔明瞭でありながら、風変わりで面白く、知見があれば「なるほど」と理解でき、記憶にあれば「たしかに」と共感できるような表現こそ、私のたどり着いた小説家の個性なのです。
私はもとより面白い言葉遣いが好きで、普段からあえて変わった表現を交えた会話を行うことがあるのですが、これが今とても役に立っています。「個性」が大事であるという事実に気づいたのはついこの間のことなので、今までの作品にはそのような表現をしないよう抑制をかけていました。しかし今は、自らの拙い語彙力と、あまり面白くない話を色付けるために、そういった言葉遣いを抑えることなく応募用原稿の執筆しています。
こういった事実に気づけたのは自分にとって非常に嬉しいことでしたし、自分自身の成長にもつながったように感じています。そして私の「個性」が何らかの形で評価されれば、なお良しといったところでしょうか。
マトメ
三月ももう間も無く終わってしまいますね。私は来る新学年と山積みの春季課題に頭を抱えながら、スギ花粉を呪う毎日を過ごしています。
ここ最近も随分と寒暖差が激しく、加えて杉の嫌がらせが一層キツく花粉症の皆さん(私も含む)は苦しんでいる事でしょう。そんな春ですが、皆さん体調には気をつけて、新たな出会いや別れを迎えましょう。
それでは、また次回。