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塩野七生さんの父親

WIkipediaを見ると塩野七生さんの父親・筍三氏については以下のような情報が載っている。

父親は詩人・小学校教師の塩野筍三(1905年 - 1984年)で、神田神保町の古本屋から軒並み借金をするほどの読書好きであった。

ところがこの筍三氏は、塩野さんのエッセーやインタビューにたびたび登場する塩野さんの母親と違い、全くと言ってよいほど語られていないのである。そこで少し調べてみた結果、以下のような情報を見つけることができた。

①太平洋戦争の末期に空襲が激しくなった頃、塩野七生さんは家族とともに群馬県にある父方の祖母の実家に疎開している。これは筍三氏の母親の家だと考えるのが妥当かと思われる。

②群馬県の郷土資料によると父親の筍三氏は高崎南小学校の教員をしていたが、そこを解雇されたらしい。ただこの時にすでに結婚していたのかどうか、またなぜ解雇のされたのかは不明である。

③ネットで確認できる限りでは筍三氏の出版作品は以下の三冊である。

1. 『隧道』 1930年(昭和6年)子供社
2. 『子どもたちの唄・詩・散文集』 1933年(昭和8年)詩と人生社
3. 『ファブル・昆虫の大科学者』 1942年(昭和17年)淡海堂

『子どもたちの唄・詩・散文集』 の発行は筍三氏が28歳~30歳ごろで、この時筍三氏は東京都の住所を奥付に記載している。この段階ですでに職を失った筍三氏は高崎から東京に出てきていたということだろうか。

④筍三氏の年齢を考えると、塩野さんが思春期の頃はすでに50歳過ぎだったと考えられる。今ではそれほど珍しいわけではないが当時としてはかなり遅い子供であり、それ故に塩野七生さんは筍三氏の再婚時の子どもだったという可能性もある。

最初に書いたように塩野七生さんが父親について書いたり、語ったりしたことはほとんどないがその数少ない部分が以下の文章である。

今は亡き父と母に捧ぐ。(人々のかたち 1995年)

たったこれだけである。しかも母親は前年の1994年に亡くなっているのでまだわかるけど、父親は1984年には亡くなられているのだ。さすがに母だけに捧ぐのはマズイということで父も引っ張り出したと考えるのは考えすぎだろうか。

もう一つ興味深い文章が『ローマで語る』の26章『アイス・レディに未来はあるのか』で塩野さんが息子のシモーネさんに語る言葉

この(アイス・レディの)三人ともが、子供の頃から父親の愛情を欠いて育ったという理由は考えられませんか。父親とは娘にとって、最初に出会う異性だから

この発言だけで塩野さんと父親の関係を考えるのは大雑把すぎるのはわかってるけど、彼女自身が父親の愛情を欠いて育ったように思えるのは僕だけでしょうか?